ボンクラプログラマーの雑記帳

目を開けたまま夢を見るプログラマーの雑記です。

PSYCHO-PASS(サイコパス)犯罪係数考察:犯罪すなわち利己心という世界で

はじめに

 その銃口《システム》は、正義を支配する。
 PSYCHO-PASSを一言で語るとしたら、この公式が打ち出したキャッチフレーズが最もわかりやすい。

www.youtube.com

 

 神託の巫女《シビュラ》の名を擁するその機構《システム》は、犯罪係数と呼ばれる独自判定に基づき、人間に黙示録の如き審判を与え続ける。その毒麦か否かを常に監視する目は国中に張り巡らされているが、中には緊急で対処しなければならない存在も出現する。

 この毒麦を処分するために使用されるのが、支配者を意味し、主天使ドミニオン》の名前をも意味する、電子兵器、ドミネーター。これは現行犯という緊急時にシステムの目として犯罪係数を判定し、その如何によって使用者に雷の権限を与え、即時量刑を実現する。

 ドミネーターを握る人間には、いや、シビュラを享受するほぼすべての人間には、正義の思考など必要ない。
 その人間の思考過程を吟味し、理解し、判断する必要などない。
 ただ、銃口《システム》の謳う言葉に身を委ねるだけでいい。

 では、思考過程すら見えないならば、こう訊ねてみたくなるものだ。
 犯罪係数とは何か。
 色相と正義は同一ではないのに、なぜ犯罪係数によって審判を下すのか、と。

 この作品を何度も見てきて、それでもわたしの中で答えは出なかった。偶然の一致と思う他ない、先天的な特質だと捉えるしかない、と。

 しかし、つい最近わたしの中で答えが突然訪れた。
 それが、犯罪係数とは利己心の係数である、ということだった。
 それは、シビュラの正義すなわち利他心ということも意味していた。

 今回は「シビュラの正義すなわち利他心」ということと、その概念が、シビュラの世界が終わるときについて考察したことを書いていこうと思う。

 ちょうど劇場版の公開が今年からスタートする。その機運にのって、そもそも犯罪係数とはなんなのか、ということについての振り返りができればとも考えている。

 

 

psycho-pass.com

(2018/1/27「罪と罰」の考察記事も書きました) 

 

gckurabe.hatenablog.com

 

 本音を言えば、私自身がこのPSYCHO-PASSシリーズが大好きなので、その考察記事を何としても書きたかった、というのもある。今まで思考がまとまらず記事にできていなかったが、ようやくその時がきたとウキウキしながら書いているので、読みにくいところがあっても「こいつなに言っているかよくわかんないけどPSYCHO-PASS好きなんだな」とやさしさをもって読んでいただければ幸いである。

 今回参考にする作品は以下のものとなる。

・PSYCHO-PASS1,2

 

 


劇場版PSYCHO-PASS

 

 

 

PSYCHO-PASSジェネシス1,2,3,4

 

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 3 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 3 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 4 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 4 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 そして、今回は以下の項目に沿ってお話ししていく。

 

 

 

1.犯罪係数すなわち利己心の係数

 犯罪係数は、色相という言葉に置き換えられるケースがままある。色相がクリアだとか、色相が濁っているとか、そういった表現がされる。
 色相が濁ると、大抵の場合ろくでもないことを始める輩が多い。逆に、ろくでもないことを始めたばかりに色相を濁らせる者もいる。あるいは、色相の濁りは伝染すると、自警団のように殴り殺す連中も出現し、結局全員色相を濁らせる。

 このあたりはPSYCHO-PASS1において槙島聖護が中心となって起こした事件と、それによる市民の反応を見ればよくわかるだろう。

 彼らを総括すると、犯罪係数とは利己心の係数ではないか、という仮説が立てられる。

 これは先ほどの事例から見ればなんとなく想像がつく。
 色相が濁って社会復帰ができなくなったので女性を誘拐する記念すべき1話で出現する中年男性。槙島聖護パトロンとなったことで行動を開始した、鬱憤を晴らそうとする者たち。大規模サイコハザードのさいの市民のあまりに利己的な反応。

 たしかにこれら利己的な存在はシビュラからすれば審判を下さなければならない対象そのものだ。彼らは放置すればサイコハザードを引き起こすからだ。

 そもそも、PSYCHO-PASSの世界における住民は非常に脆弱な対ストレス性と、幼少期から終わらない動作の模倣、つまり真の意図でなく表層の動作のみ伝染する事象によって、世界的な虐殺が起きてしまった、というのが、PSYCHO-PASSジェネシス2において明言されている。

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

 虐殺器官の言葉を借りれば、『まるである日突然、虐殺が内戦というソフトウェアの基本仕様と化したかのようだった』。

 

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 (考察記事です)

gckurabe.hatenablog.com

 

 つまりこの世界においてシビュラシステムを停止するには、このサイコハザードという問題を避けて通ることができない状況になっている。このサイコハザードという問題を未然に防ぐために、シビュラシステムの存在は不可欠となってしまった。

 

 そういった意味ではシビュラを擁する日本が地球上で唯一、その運用スタイルによって文化的な体制を維持することに成功しているというのは劇場版PSYCHO-PASSで明言されている通りだ。ゆえにシビュラは、利己的な存在を許すことなく隔離する手法をとり続けているとみられる。

 

 しかし、正義を執行しているのに犯罪係数が高い者たちの存在はどうなのか?という言葉が出てくる。その最たる例が、執行官達や、免職目前の監視官達だ。彼らはその体制上シビュラシステムに最も忠実な存在と思われがちだが、彼らの思考が結局のところ等しく利己的だと判定されるのは止むを得ない状況だと私は考える。

 槙島聖護の深淵に囚われた狡噛慎也は、自らの正義を振りかざして槙島聖護を殺害した。

 己の正義と、シビュラの正義の違いに苦悩した征陸智己《まさおかともみ》は、PSYCHO-PASSジェネシス1,2のなかで、自らが定義する「かつての刑事のように在り続ける」「家族を守る」という旧時代の正義の両方を選んだが、帰るべき家族のもとに辿り着いたそのときには、全てが終わっていた。

 征陸智己の息子である宜野座伸元は、父の在り方と元同僚の狡噛慎也の変化に囚われ、やがて父を殺されたことを契機にその寂しさの心情を爆発させ、ついに執行官となり、事件という異常地帯の中での平穏を獲得した。

 他の人物達も、自らの経歴に悩み、苦悩し、その果てに利己的な心情を選んでいる。

 故に、執行官として機能するにふさわしい力を獲得した、とシビュラが判定している可能性は否定できない。

 彼らは独自の正義を貫く。ただしその独自の正義の強さゆえに、周囲の犯罪になびくことはほぼなく、忠実に職務を遂行することができる。獣を狩るための獣として、その権能を発揮し続けることができるのだ。

 そうすると、こうした最も厳しい環境下でもエリートを監視官として送り込むシビュラの手法が一層特異な状況であるようにも見える。監視官として放り込まれる人物は、先ほど挙げた人物達のように、間違いなく特別な才能を発揮している。しかし、あまりにも危険すぎる上に、執行官とは潜在犯であるのだから、社会的な地位もこの世界では消え去るに等しい。シビュラは何を望んでこうしてエリートを送り込んでいるのだろうか。

 その答えは正義の在り方を考えるため、というわけではない。
 常守朱のような最も素晴らしいシビュラ市民のモデルケースを生み出すことと、何よりもシビュラそのものである免罪体質者を発見する、という重大な使命を抱えているためである。

 免罪体質者は、発見ができないのが基本だ。
 ただし、特例がひとつだけ存在する。
 免罪体質者が犯罪を行い、それでも犯罪係数が上がらず、シビュラの判定にかからなければ、逆に公安局刑事課を通して捜索の糸口とできるのだ。後述するが、彼らは槙島聖護のような人物を取り込むことで社会に平穏をもたらそうとするため、事件の犯人確保については非常に関心が高い。

 しかし、先ほどまで犯罪者および潜在犯は利己的な存在である、と仮定したわけだが、そうすると理屈としてはおかしい。彼ら免罪体質者は犯罪を行う。しかし、色相は、犯罪係数は、クリアなままなのだ。システムの欠陥と一笑に付すのはたやすいが、そこには明確な共通点がある、と私は更に仮説、というよりは憶測を立てた。

 その仮説こそが、「シビュラにとっての正義すなわち利他心」という概念である。
 あるいは、こう表現することもできるであろう。
 「シビュラにとっての幸福すなわち愛」という概念である。


2.「幸福すなわち愛」の個体を飲み込む神託の群体《クラスタ

 シビュラは、最大多数の最大幸福を掲げる。
 それは個体としての思考法ではなく、社会として、群体《クラスタ》としての調和を目指しているといえる。

 ゆえに、シビュラが最も歓迎する概念とは、「幸福すなわち愛」の実践者たちであり、そのために「正義すなわち利他心」を、犯罪係数の主要な指標に組み込む手法を展開しているのではないか、というのが私の考察である。

 ケースから考えてみよう。
 例えば常守朱は、シビュラの一員として迎えられることをPSYCHO-PASS2においてシビュラから提案を受けるほどに至っている。

 彼女は、「正義すなわち利他心」の実践者だ。具体的には、PSYCHO-PASS1の最初の回では、シビュラに殺害判定された女性を救い出すため、その執行者になろうとした狡噛慎也をドミネーターで撃ち抜いている。PSYCHO-PASS2においても捜査の一環としてその実践は続いている。また、槙島を殺すのではなく、狡噛慎也を含めた全員を納得させて全てに決着をつけるため、これまでの法の手法で裁くために逮捕を選択してもいる。

 また、免罪体質者である槙島聖護も、非常に利己的に見えながらも実は大きなところでは非常に利他的な振る舞いをしている。自由意志を失った世界での「贖う魂の輝き」を命題にして、犯罪によって啓蒙を遂行していたのだ。シビュラはこの観点について明言してはいないため、この考察に該当するかは不明だ。

 鹿矛囲桐斗によって啓蒙された人物達もまた、シビュラシステムからは犯罪係数が劇的に落ちるという状況が確認されている。最終的に彼らもまた集団PSYCHO-PASS計測という手法によって終焉を迎えたが、貢献の対象がシビュラでなく鹿矛囲桐斗であろうと、つまり献身の対象が何であろうとも色相がクリアになる可能性が示唆されてしまった、という特殊な状況でもある。

 彼ら免罪体質者および色相が濁らない者たちは根本的に潜在犯とも、あるいは薬物によって精神を浄化するしかない一般市民からも逸脱する。

 PSYCHO-PASSの総集編で、槙島聖護はシビュラ統制社会の人間を家畜と評しているが、これはかなり正確な見解だと私は考えている。シビュラによって正義も葛藤も未来も委託された未来において、人間はこれまでのように悩み、葛藤する必要は一切存在しない、つまり今までのようにわざわざ人間らしく葛藤したり悩んだりしなくていい、家畜の時代に到達できたのだ。

 今の社会ですら悩み、葛藤したとしてもあまり意味はない。戦争は消え去り、食糧問題は解決し、病気のない世界において、悩みも葛藤も、死に関わる事情ではなくなった。もはや葛藤は不要な概念であり、娯楽と利益を楽しむための道具に変わった。その悩みや葛藤がサイコハザードを起こし、虐殺へと転換する時代が訪れたならば、シビュラがその葛藤を一身に受け入れるというのは、むしろありがたいことだ。

 その人間すべての葛藤を受け入れることができるような精神体が、もしも人間の脳という超並列計算装置によって実行されるならば、その脳もまた人間の葛藤という野蛮なものを受け止められるような、強烈な利他心を構築した脳の回路を必要とするというのはおかしな話ではない。

 利他心は基本、人に情報を手渡すという手続きを必要とする。そこに、利己的なだけの脳の回路の役に立つ場所は、ない可能性がある。スマートフォンと同様の役目を、メインフレームに担わせるのと同じだ。メインフレームは非常に計算処理は高速だが、スマートフォンのような情報入力機構はない。入力を工夫しない場合、計算機はその本来の出力を発揮することはできない。

 入力を受け入れるだけの能力をすべての脳が持っていなければ成り立たない並列処理機構は、メインフレームのような潜在犯の在り方を受け入れることはできない。

 ただし、そのメインフレームの役目を潜在犯に担わせるという方法はある。それが、市民という在り方であり、槙島聖護の語る家畜の在り方でもある。完全に個体である市民は、外から導くだけでいい。そのインターフェースがサイマティックスキャンと薬物とドミネーターであり、これを通して人間は貧弱な入力機構を解決することができる。

 かくして、脳を並列につなぎ合わせた群体《クラスタ》は利他心の調和《ハーモニー》を奏でることで、家畜へと至ることのできた人間達を導く。

 愛の実行のためならば人々を導き、利己心を芽生えさせた者の剪定を薬物とドミネーターで行い、愛を必要としない存在を見つけ出し、自らの一部に付け加えていく。

 人間を導く時に、家畜を相手にした正義の議論など、存在しようがない。
 だから人間を超え、導く名前のない怪物にとっての正義とは、愛でしかないのだ。
 ゆえにシビュラは、犯罪者であろうともシステムに加えることを目指す。

 その脳が活性化する動機は彼らの幸福であり、それが他者への献身、愛であるならば、システムは人間が家畜であるうちは、共存し続けることになるだろう。

 しかし、この考察はまた別のことを意味する。
 シビュラの行っていた並列処理機構を市民に適用できるようにすることができれば、シビュラは中央集権的処理を不要とすることができる。

 つまり、人間の脳をすべてシビュラに適用できる存在、常守朱のような人々が世界に広がるようにテクノロジーで解決できれば、シビュラの役目は終了することとなる。

 だがそこには、もはや我々が考える意識といった個の概念は存在しなくなってしまうだろう。

 

3.個の概念は消え去り、正義は終わる

 シビュラの電源を常守朱が切りに行く時、個の概念が消えてしまう。
 これが意味するのは、完全な意味での正義の終焉だ。
 常守朱は正義を、どこかのタイミングで捨てるしかなくなってしまうだろう。

 具体的に話していこう。
 シビュラの配下において、犯罪とはすなわち利己心だ。それは、我々の時代における正義の存在しない世界だ。
 常守朱狡噛慎也、征陸智己《まさおかともみ》の目指す正義は、旧時代的なものとしてシビュラから扱われ、市民達も彼らのような思考をすることはほとんどない。だからこそ、シビュラの世界には正義の源泉である歴史も思想も存在しない。だから歴史を、哲学を学ぶ必要もない。学問は除け者たちが利己心を強化するために使用する薬物と大して違いはない状態だ。

 学問が薬物の世界で、それでもシビュラの電源を切りに行くとしたら。
 学問によって個を強化するのではなく、群体としての在り方を強化するしかない。

 だが先ほど示した通り、群体としての在り方を極めれば、シビュラのような在り方を進んでいくしかない。
 その行き着く先には、人間全てがシビュラと同等となるしかなくなる。
 そこには学問も、その配下にある歴史も、そして正義すらも邪魔となり、不要となる。

 つまり、個の概念は消え去り、常守朱は自らを育てた正義を、シビュラのようにどこかで捨てるほかないのだ。

 かつて、人間社会を運用するためには社会性のない者を裁くしかなかった。その源泉に、正義という共通幻想を与えて、それを逸脱し、害を与えた者をさばき続けてきたわけだが、テクノロジーが発展すれば、その逸脱すら計測し、解決できる。それを体現したのがシビュラだった。

 もとより意識だとか、個だとかという概念は、技術の発達によって暴かれ、迷信となった。
 魂と呼べるものは存在せず、我々の脳はネットワーク接続された端末との違いを、構成物質とアルゴリズム以外で語ることはできなくなっている。

 そうして見て見ぬふりをしてきたものすべてを──犯罪係数がなくなり、それまでに積み上げられた死体の数の計り知れないシステムのすべてを──解決した時に広がるシビュラなき世界は、きっと見た目は何一つ変わることなく、人間は暮らし続ける。そして、おそらくきっと美しい世界だろう。
 意識を全員が喪失した、ハーモニーにおける最終局面のように。

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

(こちらはその考察記事です)

gckurabe.hatenablog.com

 

 しかしそこに、我々の想像する個の概念はない。

 常守朱の目指す世界とは、そうした真実を全ての人間が理解し、そのうえで平穏を獲得するという世界だ。
 その道は非常に険しく、不可能に近い。幾多もの事件が起きて、多くの犠牲を払い、最後は手にした正義すら、捨てることになる。

 しかし彼女ならば。
 正義の執行者達の意志を継ぎ、シビュラの寵愛を受けた常守朱ならば。

 きっと、PSYCHO-PASSの物語は、そうして自分たち正義の終わりに向かって、ひた走っていくこととなるだろう。

おわりに

 おわりにで今更ではあるが、この作品は「紙の本を読みなよ」と、私に本の虫の習性を与えてくれた作品であり、そのおかげでほとんどのもの(思想、科学、システムなど)をだいぶ独学でも学習できるようにしてくれた。平たく言えば、人生に多大な影響を与えてくれた作品だった。紙の本よりもKindleの良さに目覚めてしまうことになったが。

 なのでPSYCHO-PASSの年である今年も、いろいろなものが吸収できるのではないかと楽しみにしている。

 3本の映画の中で、きっとこのように犯罪係数に関して問うものが現れてくる。そんな犯罪係数に関して、ただ吸収するのではなく、考察にできればいいのではないか、と思っていたが、気づけばPSYCHO-PASSの行き着く先について書いていた。

 PSYCHO-PASSの先に見える未来は、我々からすれば想像を絶する世界だ。
 だがらこそ、その最果てに彼らが何を見出すのか、私はとても楽しみで仕方ない。

 

ガンダムNT考察:人間がテクノロジーで神々《ニュータイプ》へ生まれ変わる時

はじめに

ガンダムナラティブガンダムUCファンの皆さんはもうご覧になったことだろう。
なにせ正式な続編であり、音楽は澤野博之氏であり、なによりもPVから心を揺さぶられるからだ。

gundam-nt.net

 

www.youtube.com

 

私はこの作品で主題歌のためにYoutube Musicの加入を決断し、オフライン再生で聞き続けた。そして何度もYoutubeでオフライン保存されたPVを見ていた(Youtube Musicに入ってさらにプレミアムに入るとこの機能が使えた)。

 

サントラと主題歌は出たその日に購入し、その音楽を聴きながらKindleで原作版を読み、そして映画に三回観に行っていた。そして作品でほぼ泣いたことなど一切なかった私が、トータル九回涙をこぼす羽目になった。

 

 

 

 

 

 

私は、それだけこのガンダムNTは素晴らしい作品だと考えている。
なぜならばこの作品は、人間がテクノロジーで神、つまりニュータイプへと生まれ変わる物語であり、その葛藤を描き切った物語だったからだ。

上の言葉でどうして?と思った方や、この作品がわけがわからないと思った方、そもそも観に行っていないんだけど口コミがすごいので考察でもまず観てみるかと思った方に、その理由をお伝えしたい。それがこの記事の目的だ。

そして、可能であるならばこの記事を読んだ人がもう一度ガンダムNTを反芻していい物語だったなあと回想していただける、よすがとできればいいと考えている。

今回の記事においては物語の時系列と合わせ、以下の三点を通してお話ししていく。

 

 

 

では、この物語《ナラティブ》の本題に入ろう。


1.早過ぎた神々《ニュータイプ》の到来

 宇宙世紀0079。初代機動戦士ガンダムの舞台、一年戦争の時代。
 ニュータイプとは、宇宙戦争という極限状態において生まれた、選択と淘汰の産物だった。
 当然の帰結だった。何度も戦いを繰り返すうちに英雄が生まれるということは、今までの時代もなかったわけではない。そこに人の意思がわかるもの、エスパーが現れたとしても、偶然だったと一笑するほかない。進化とは、そうした出来合いの産物でしかないのだから。

 しかしこれまでと根本的に違ったのは、彼らを規定するニュータイプという言葉に、彼らエスパーの力は、誤解なくわかりあうための力である、という思想が入り込んだことだった。

 思想とは力の方向性を定めるものだと、私は考えている。ただの電気にコミュニケーションという概念が入り込んだその時、電気信号という概念が生まれ、やがてはネットワークによる多重通信とそれによるコミュニケーション産業時代の到来したことが、そのわかりやすい例だ。
 それと同じように、ニュータイプは、ただのエスパーで終わることができなくなった。

 ガンダムNTの三人の主人公達も、ただの子供ではなかった。
 一年戦争におけるグランドゼロ、コロニー堕としを事前に察知、街を救った奇跡の子供達だったのだ。
 それは、最初期のニュータイプの誕生の瞬間ではあったかもしれない。

 しかし、奇跡を起こす神々《ニュータイプ》として出現するには、あまりにも早過ぎた。
 宇宙世紀において、彼らニュータイプを受け入れていく社会の変革はほとんど起きないほど、形骸化した未熟な社会だったからだ。

 それはガンダムUCにおける連邦政府ネオジオンの状況が、よく示している。
連邦政府は何度ニュータイプの出現する戦争をやっても自浄が働いて革命が起きることもなかった。
ネオジオンは結局ザビ家およびニュータイプのシャアの影を追うだけの、ただ群れるだけの集団に成り果てた。

 それだけ進化に適応できない、未熟な社会のままだったのだ。もっと言えば、社会を生み出す人間そのものが、ニュータイプを受け入れるには早過ぎたし、そんな受け入れる力も変わる力も持ってはいなかった。制度の革命は起きず、旧い政府による支配体制が維持され、それは終わることがなかった。核兵器を抑止力にできたこの支配体制は、あるべき姿を考えようとしない思考停止ゆえに、ニュータイプを抑止力の領域に引き上げることに失敗した。

 社会が未熟なばかりに、人間の若さゆえの過ちのばかりに、ニュータイプは抑止力ではなく、戦場の悪魔として権能を発揮するしかなくなった。

 ニュータイプの力は、戦場という状況下において一騎当千をするのに都合が良過ぎたし、おまけに核兵器やコロニー堕としのような強力かつ再現可能な力では、決してなかった。

 だから、ニュータイプを解析し、使えるものにしたいと考えた組織が出現した。社会の在り方を別の方法で問う前に、一騎当千という禁断の果実に向かって手を差し出してしまった。

 かくしてニュータイプへの祈りは呪いに変わり、新しい時代の悪夢は始まった。
 その果てに生み出されたのが強化人間と、NT-Dだった。


2.機械仕掛けの神殺し── 強化人間とNT-Dシステムの完成

 一年戦争の後から出現した、強化人間という人工のニュータイプ
 今回のガンダムNTの三人の主人公達も、その強化人間の研究所に送り込まれていた。

 ニュータイプの再現ができれば、戦場の外側において抑止力として機能して、戦争そのものを調停できる。私ならばそう考えるが、残念ながらニュータイプ研究所はそう捉えた取り組みはなかったか、あるいは失敗したようだ。

 なぜならば、作品においても投薬、トレーニング、脳波テストといった、過負荷をかけること以外まともに行っていた形跡が見られないからだ。戦場に出すことそのものを目的としていたきらいもあるほどで、結局のところ何一つ目的を達成することはできていなかった。

 彼らの取り組みは、スウィフトの描くガリヴァー旅行記、そのなかのバルニバービの科学者達のくだらない目的意識と取り組みによく似て、偶然生き残った強化人間を出荷することしかできなかった。

 

 

ガリバー旅行記 (角川文庫)

ガリバー旅行記 (角川文庫)

 

 

 

 

 そうして最終的にリタはコロニー堕としを察知した張本人、すなわち本物のニュータイプとして、大量に、何度も体を切り開かれるだけの運命を背負った。だが、彼女ですら、コロニー落としを察知したこと以外、ニュータイプとしての力を発揮することはなかった。つまり、本当に当時もニュータイプだったかどうかは不明なままだ。だからそうしてリタが切り開かれても強化人間のひとりもまともに生み出せなかった。それはスウィフトの言葉並みに皮肉なものである。


 そして、悪夢はもうひとつあった。工場出荷された彼ら強化人間の力を最大限に発揮するために用意された、サイコフレームと呼ばれる新たな物質とサイコミュ兵器の、戦場における流通だった。

 強化人間といえども、攻撃の予測できないファンネルなどのサイコミュ兵器を使いこなすことそのものが戦場での最たる役目であり、一騎当千ではあっても本物のニュータイプをいつも超えることはできなかった。それは本質的な役割の与え方の軍の失敗であり、結局は強化人間を使おうが否が、戦争で勝つという矮小な目標すら叶うこともなかった。

 だからこそ、連邦は本物のニュータイプを根絶するための準備が必要になった。自らを守ったかもしれないニュータイプは制御できないものであるとして、つまりすっぱい葡萄だと切り捨てにかかることしか、もはや宇宙世紀の政府にはできなくなっていた。

 そして、強化人間によって加速したとみられるサイコフレームの量産は、ガンダムUCにおけるアナハイム連邦政府の結託によって、新しい悪魔を誕生させた。コックピットに載せられていただけの、ただファンネルを飛ばしたりするだけだったはずの遠隔操縦素材を、機体のフレームそのものに張り巡らせた。そして、ファンネルという不可視の領域から攻撃してくる兵器をジャックしてしまうという、ニュータイプの力そのものを否定し、支配する兵器が完成した。

 それが、ニュータイプを廃絶するためのシステム。NT-D (NewType-Destroyer)システムであり、それを正式に実装したRX-0、通称ユニコーンガンダムだった。その物語が、ガンダムUCだ。

 

www.youtube.com

 

 そして、RX-0は三機生み出されていた。
 そのうちの一機、フェネクスは、テストにおいて強化人間を搭乗させていた。

 そしてそれは突如として、ニュータイプではなく実験者達を殺しつくし、やがて宇宙のどこかに消え去った。
 その当時の搭乗者が、リタだった。

 そして、ユニコーンガンダムコロニーレーザーを受け止め、完全な覚醒に至り、時を操ってジェネレーターすら分解してしまう領域に突入した時、フェネクスはそれを感じ取ったのか、人類の生存圏に再び帰ってきた。

 原作の言葉を借りれば、以下のように表現される。

 ニュータイプの素養があるパイロットとの感応が進めば、サイコフレームは魂が集うフィールド── 我々には認識できない高位の次元と繋がり、時をも操る力を引き出す媒体となる。だがそれはこの世界の崩壊を招きかねない。

 だからフェネクスは遣わされた。
 魂が集う世界──あの世から。
 この世に生じた特異点を消し去るために。

 ユニコーンはシンギュラリティ・ワン、すなわち技術的特異点として描かれているが、これに関して私が純粋に驚いたのは、時を巻き戻すといった力の方ではない。
 ニュータイプは意識といった個の意識を超越している可能性が高いということだった。

 それはまるでコピーを繰り返す機械のようでもあり、事実ユニコーンサイコフレームを通して人の意思を模倣していて、自己同一性という概念を覆す脅威と見ることすらできる。「シンギュラリティは近い」のレイ・カーツワイルや「ホモ・デウス」のユヴァル・ノア・ハラリの示す、人と機械が融け合う未来を徹底的に再現するかのようだ。

 

 

シンギュラリティは近い[エッセンス版] 人類が生命を超越するとき

シンギュラリティは近い[エッセンス版] 人類が生命を超越するとき

 

 

 

 

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

 

 

 

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

 

 

 そもそも、「模倣と他者性」でマイケル・タウシグが示す民族の状況と歴史的な観点から見れば、この自己同一性に関する問題は既知の問題であり、避けようのない事実だったと認めるしかない(ちなみにこの本はガンダムNTを見て呆然としていた時に紀伊国屋書店本店で購入した本である)。

 

 

模倣と他者性: 感覚における特有の歴史 (叢書人類学の転回)

模倣と他者性: 感覚における特有の歴史 (叢書人類学の転回)

 

 

 

 確かに、ニュータイプは、この宇宙世紀の世界の社会には、そして今の我々の世界の社会には早すぎる。

 なぜならば、ニュータイプは個の意識ではなく集合意識として行動できるため、その集団で可能となる能力はすさまじいものになるからだ。

 現実でもそれを規制する手段はまだないが、宇宙世紀においても一年戦争以降に各種事件を発生させることとなっており、そういった煽動者、アジテーターである人間を対処できるだけの基盤がない今は、ニュータイプはあまりに危険すぎる。

 それをサイコフレームが破壊兵器として助長すれば、議論もないまま完全な意味での独裁社会が完成してしまう。それこそサイコパスのシビュラシステムをつくってその中に格納してしまったほうがマシな領域だ。

 だからこそ、フェネクス特異点を、その集合体であるものを消し去りに来たのだ。

 だがすでにユニコーンガンダムは解体されたと謳われていた。だから、特異点を消し去るために出現したフェネクスそのものに、時間すら支配する力がある可能性を見出した。不死鳥狩りと呼ばれた任務は、不死鳥の腑(はらわた)を斬り開くために行われる任務へと変貌した。

 そこに、ヨナはナラティブガンダムνガンダムの試作機に乗って出現した。ルオ商会に入り込んだミシェルに、半ば操られるように。

 だが、物語は誰もが意図していない流れへと入り込んでいく。
 不死鳥狩りをしていたはずが、不死鳥へと覚醒していく。
 今までテクノロジー負の遺産であった強化人間と、NTーDシステムを通して、連鎖反応によってニュータイプ、神々へ生まれ変わる新たな世界が始まったのだ。

 

3.人間がテクノロジーで神々《ニュータイプ》へ生まれ変わる時

 リタはフェネクスを通してニュータイプとして覚醒し、不死鳥そのものとして、負の遺産であるフェネクスサイコフレームのなかに入り込んだ。彼女は肉体を失っていた。だが、サイコフレームが引き合うという性質ゆえか、再び自らを切り刻んだ人類の生存圏に戻る。終わらせなくてはならない特異点を探し出すために。これが初期状況だった。

 そこに連鎖反応するように、ミシェルはヨナを連れて訪れる。時を操る力を手に入れるため、商会の全ての力を振り回して、戦場すらも生み出した。NT-Dシステムを搭載したナラティブガンダムと、セカンドネオジオングを流通させて、そこで膨大な争いを生み出してでも、彼女は必死に追いすがり、最後はサイコフレームを自分でばらまきにも向かってみせた。そして最後はサイコフレームによる結界を生み出し、果てた後も、リタのようにヨナを導き続けた。

 このふたりと比較すれば、ヨナは最も凡庸な人物だった。
 ミシェルのルオ商会にはいるための噓にも気づけず、リタを追いかけるだけの力もなかった。
 パイロットとしての腕も中の上といったところで、強化されていないと評価される(そもそも強化人間のイメージが先行し過ぎているのかもしれないが)。

 そんな彼はたくさんの挫折を味わう羽目になった。リタを切り刻ませてしまったこと。リタがどこにいったかもわからなくなってしまったこと。結局は捕獲任務を遂行できなかったこと。
 彼は葛藤し続け、心に聞こえた声を聞き、そして今まで全てのことを悩み続けた。

 だからこそ、彼は二人の女性がニュータイプとなって散っていく時、彼女達の言葉に怒ったのだ。
 それが、今までテクノロジー負の遺産であった強化人間と、NTーDシステムを通して、ニュータイプが連鎖反応によって生まれ変わる新たな世界が始まりだった。

<以下原作からの引用および記事執筆者による再解釈によるもの>

「なにもいいことなかったじゃないか。リタも、ミシェルも」
 彼女達の結末は、悲惨としか言いようがない。
「ずっとこわい思いして、いたいの我慢して」
 気づけば大人に脅されながら強化人間として実験され、やがて切り刻まれ続けた。
「なんでだよ。なんで、こんなに苦しまなくちゃいけないんだよ」
 果てはこうして命を散らしていく。人間の基準で語れば、彼女達は苦しむためにしか生まれなかったようなものだ。
「生まれなきゃよかったんだっ」
 生まれる時代も場所も、すべて間違えて、彼らはここにやってきた。
 彼らは、間違った社会に生まれた。
 テクノロジーは彼らを救うこともなく、社会は彼らを救わなかった。
 コロニー落としから街を救った彼女達は、結局こうして社会に押しつぶされ、そして消え去った。
「苦しむだけの命なら、最初から、俺たちは、なんのために──」

 彼の怒りは、世界への、そして自分への怒りだった。何度でも生まれ変わるリタをただ眺めていることしかできない自分。リタへと必死に手を伸ばして時には手を汚すことも厭わなかったミシェルにただ引っ張られるだけの自分。彼女達に、彼はなにひとつ手を差し出すこともできておらず──

「じゃ、あたしにくれる?」
 リタが語ったそれは、三つに分かたれたペンダントのことだった。意味をなさないと自分が言って切り捨てたもの。それでも、リタはその価値を認めてくれた。そして気づけばそれは三人が繋がるための契りへと変貌していた。
 そのペンダントはまるで、何度でも生まれ変わる、不死鳥のようでもある。
 そしてあの廃墟の中で駆けるリタは語る。
「次に生まれ変わるとしたら、あたし、鳥になりたいな。ヨナは?」
 その背中を見つめている時、ミシェルが語りかけてくる。
「行きなよ、伝えたいことがあるでしょ?」
 ニュータイプになれなかった実験体であり、サイコフレームでしかないものからの声。これまでに存在し得なかった負の遺産であるテクノロジーは、この時ついに反転する意味を手にしていた。
 時間を超越したニュータイプである二人は、ただ散るのではなく、サイコフレームを通して、彼を導く。
 そして彼は、フェネクスに乗り込んで、今一度そのペンダントをつなぎ合わせて、宣言する。その言葉が、壊れたペンダントを差し出すことと同じと──ただ前に進むことでしかないと理解した上で。
「君が鳥になるなら──俺も、鳥になる」
 それが、ニュータイプの誕生の瞬間だった。
 不死鳥《フェネクス》は生命力そのものである青い炎──感応波《サイコウェーブ》を機体のフレームから解き放ちながら、再誕を果たした。

 彼はどんなことになったとしても、歩む道は間違えなかった。
 だからこそ、彼は葛藤の果てに、フェネクスを真に制御するニュータイプへと生まれ変わった。テクノロジーを連鎖することで、彼女達と繋がり、神々のひとりとなったのだ。

 そして別れの時、リタはこう訊ねる。
「あたし、ヨナに会えてうれしかった。だから何度でも生まれ変わりたい。それがどんなものでも、出会うために。ヨナは?」
 テクノロジーの連鎖で完成した神々たるニュータイプは、フェネクスとともにもう一度飛び立つ。無限の宇宙に向かって。
 やるべきことはわからない。ただ、誤解なくわかりあうことを目指して、自分を通して、今が全部ではないと、何度でも生まれ変わり続けるしかないのだ。
 いつか、もう一度出会うために。
 人間の社会が、神々《ニュータイプ》を受け入れられるそのときまで。

<ここまで>


 誤解なくわかり合うために、何度でも生まれ変わる。それは、この物語が示したように、困難な道だ。それこそ、誤解なくわかりあうための力、ニュータイプの力がこの宇宙世紀の人々すべてに届かなければ終わらないだろう。だから、遠いのだ。

 しかし、今のこの世界も、核の抑止力以後、すでに銃で死ぬ人数よりも、糖尿病で死ぬ人数のほうが多い世界だと、ユバル・ノア・ハラリも語った。戦争は小さくなり続け、飢餓もますます減り、疫病は未然に対策されるこの世界は、かつて人が信じられなかったほどの世界だ。

 それがもたらされたのはなぜか?
 幾多のテクノロジーの集結であり、なによりも誤解なくわかりあうための懸命な努力があったからこそだろう。

 だから、我々はいずれ現実で出現するニュータイプを武力にしなくてもいいかもしれない。それは、現実世界でリタやミシェル、そしてヨナのような悲しみを抱えさせないためにも必要だ。

 彼らの悲しみをこの映画を通して観た私は涙を流すしかなかった。
 だからこそ、彼らの苦痛をなくせる、なんとかできる道を探そう。ニュータイプをはじめとした多くを受け入れられる世界を、この現実からつくっていこう。
 純粋にそう思えた作品だった。

 

おわりに

 この考察は、ガンダムNTが広範囲にわたる歴史を描く作品であったことが影響して、かなり広範囲にわたったものになった。もしかしたら宇宙世紀におけるニュータイプ考察に近いものになってしまったかもしれない。

 とはいえ、ニュータイプとは何なのかを考えられるきっかけの記事をこうして提供できることができたと前向きに捉えるしかない。

 ニュータイプに関してはありとあらゆる記事があり、今回のこの記事はガンダムNTからみたニュータイプについての考察だった、と位置付けられるかもしれない。私は正しい定義より、その考察や解釈によって人の苦痛を取り除けるものにしたいと思いながらこの記事を書いているので、正しい定義についてお探しの方は他の記事やガンダムのファンブック等を参照して楽しんでいただければと思う。

 ガンダムナラティブはまだ上映されているので、各自見てもらって、自分なりに考察していただければ楽しいことはまちがいない。それは考察記事を書く私が保証する。

 私にとってこれほどまでに刺さる作品だったのは、ヨナの叫びがあまりにも胸に打たれることだったこともあるかもしれない。ニュータイプの彼の思いにドライブできてしまうほど、この神話の行き着く先は納得できる、素晴らしい作品だった。

 この物語《ナラティブ》を観ることができて、本当によかった。

 

虐殺器官考察:虐殺(わたし)のことばを阻むことは、誰にもできないー虐殺器官の真の特性について―

(2022/06/20追記)この考察を2022年版にアップデートしました。こちらもよろしくどうぞー
虐殺器官再考察:ジョン・ポールのことばを阻むことは、(権威主義へ回帰させてしまう力があるからいまは)だれにもできない? - ボンクラプログラマーの雑記帳 https://gckurabe.hatenablog.com/entry/2022/06/18/214125 
---
 
 虐殺の言語。それは特定の言語を、特定の法則によって表現することにより、内戦を発生させ、虐殺をもたらすというもの。
 
 ではその虐殺の言語とは一体どういうものだったのか。
 
 そして、それを使用可能とした"彼ら"は本当に虐殺の言語に汚染されていなかったのか。
 
 これらの状況を精査することで判明したのは、虐殺の言語の、隠された特性だった。
 
虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

この考察の目的

 「虐殺の言語」の特性を理解することにより、ジョン・ポールとクラヴィス・シェパードをはじめとする人物たちの行動の真の理由を予測し、虐殺器官という物語の真実に近づくことを目的とする。そして、そこから見える世界から、虐殺器官という作品の良さを再認識してもらう。
 
 

はじめに

 さて、ハーモニー考察に引き続き、虐殺器官の考察をしていこうと思います。ハーモニー考察はこちら。
 この虐殺器官考察もネタバレ全開で行きますので、これまた作品を読みきった人向けの記事となってます。映画までは時間もありますし、ぜひ書店でお買い求めいただいてガッツリ読んでいただければと思います。僕はこれで小説にハマりました。驚きに満ち溢れた、ものすごい作品ですのでとてもおすすめです。
 
 では、本題に入っていきましょう。
 
 
 
 
 

 

「虐殺の言語」の動作の具体性は必要ない

 虐殺器官とは、虐殺の言語とは一体何だったのか。それはこれまで数多くの議論がなされてきていると思いますが、具体的に考察された記事は多くない、ということで、僕もそのひとりになってみよう、という思いでこの考察を書いています。
 
 実際のところ、虐殺の言語が具体的じゃないだとか、もっと詳しく説明して、とかはよく言われてることですが、そもそもこの虐殺の言語には作品そのものとして具体的な説明が必要とされていないから、あまり説明がない。と考えるのが妥当だと僕は感じています。
 
 というのも、すんごいネタバレしますが、引き継いだ"彼"が虐殺の言語を使えるようになるまでがグダグダになるわ、そしてそのあたりの説明しても作品としての面白さにはならないわ、ということで、作品としては相当無駄な部分が多くなるからです。
 
 あの結末を迎える点においては、そしてそれまでの過程全てを考えるのならば、虐殺の言語の動作は説明が十分に行われているのです。
 
 そりゃどーいうことだ、という話になるのですが、ジョンは次のような説明を行っています。
 
『言語の違いによらない深層の文法だから、そのことばを享受するきみたち自身にはそれが見えない』
 
 早い話が、ぼくらパンピーには絶対にわからへんで、と説明されててそれで終了してるのです。というわけで、動作の説明はこの作品においては一切ありません。
 
 それはさしずめパソコンのソフトがどう動いてるのかを事細かに説明せずともぼくらユーザーが使えるのとよく似ています。虐殺言語ソフトを作ったのがジョン・ポールで、虐殺言語ソフトのユーザーがクラヴィス・シェパード。この作品においてはそれ以上でもそれ以下でもありません。
 
 じゃあ虐殺の言語のすべてが解き明かされているのか、というとそれは全く違います。この作品においては、ある程度の推測を立てられるようにいろいろな仕掛けがつけられているのです。それが謎としてバラバラになっている状態ですが、それぞれがある程度線で繋げられる状態になっているのです。
 
 ……という前提をおいてお話をさせていただきます。それぞれの謎には意味がない、と一蹴されてしまえばおしまいですが、それでもつなげられるものであるとして、十分考察になり得るものだと判断したため、ここに示したいと考えています。
 
 
 謎といういくつもの点を、一本の線でつなげるためのひとつの解。
 
 それこそが、虐殺の言語がジョン・ポールとクラヴィス・シェパードにも汚染していた、というものです。
 
 それはつまり、虐殺のオルガンの演奏者そのものも、虐殺の言語に染め上げられていたということです。
 
 
 
 
 

「虐殺の言語」の特性

 この超常的な話には、大きな理由があります。それは、ジョン・ポールの虐殺の動機と、彼の挙動です。
 
 彼の挙動はどこまでも正気なように見える、と作品では語られていますが、その静かさは本当に正常なものなのでしょうか。なぜ虐殺を続けてきたんだろう?と語る虐殺の言語の被害者と、それほど違いがあるのでしょうか。
 
 アメリカのために、数多くの虐殺の世界を作り出すということは、本当に正常な動機だったのでしょうか。
 
 ではその前に、「虐殺の言語」の特性について考えてみようと思います。
 
  ジョンは「虐殺の言語」の特性について次のように語っています。
 
『この文法による言葉を長く聴き続けた人間の脳には、ある種の変化が発生する。とある価値判断に関わる脳の機能部位の活動が抑制されるのだ。それが、いわゆる『良心』と呼ばれてるものの方向づけを捻じ曲げる。ある特定の傾向へと』
 
 ですがこの作品においては、虐殺の言語は、被害者になぜ殺したのかを他の国の人たちがたずねると、理由が一気に霧散してなぜ殺してきたのかわからなくなるようです。それは開幕の元准将とか、ペンタゴンでの犯人の映像からも判明していることです。
 
 ということで、『方向性を捻じ曲げる』というのは一時的なもので、虐殺の言語に汚染していない外国人さえいれば解けるものだといえます。
 
 つまり、長く「虐殺の言語」を聞き続ける状況、いわゆるムードが必要だということです。集団の中で虐殺のムードが形成されていなければ、虐殺の言語は自然と解除されるようになっているのです。本来であれば全員が同じ文法によってしゃべり、反芻を続けることによって『良心』を抑制するはずですが、部外者の深層文法はさすがに違うので維持が不可能になるのです。
 
 なら、どうしてジョンはしきりにクラヴィスに虐殺をしてまわったのかを聞かれても正常でいられたのか。
 
 それは、有り体で言えばジョン・ポールが最も虐殺の言語に触れている時間が長かったためです。
 
 
 
 

 

虐殺の言語はジョンに感染し、潜伏し、発症し、最悪の汚染をした

 集団での虐殺のムードの形成というのは、一気に内戦が繰り広げられるようになるところから、非常に即効性の高いものといえます。つまり、汚染するまで、発症するまでの時間自体は比較的かからないと言えるのです。だからこそ、他者との虐殺の意思の共有、つまりはムードというもので共鳴を続ける必要があります。
 
 しかし、ジョン・ポールの場合は話が大きく変わります。
 
 ジョンはアメリカから研究費を捻出される前に、虐殺器官の存在に気づいています。しかもその後、地獄の観光スポットを作り続けていくわけですが、その時に現地人の言葉を使っていたのは間違いないことですし、嫌でも虐殺器官コンパイルのためには文字を見続けなければなりませんでした。よって、ジョン・ポールが最も虐殺の言語に触れている時間が長かったと言えるわけです。
 
 ですが、一番長かったといえども世界虐殺観光スポット作成の前に、すでにジョンは虐殺の言語によって虐殺の方向へと発症し、汚染されきっていたと言えます。
 
 それは、世界を巡っているときに、現地人の虐殺の列には絶対に加わらなかったというところに理由があります。それは終盤でクラヴィスに銃を持ったことは一度もないのではないか、と訊かれ、『実は今夜初めて手にしたよ』と回答しているところから判明しています。
 
 普通だったら、ムードのせいで虐殺に傾いてしまうのに、ジョンは傾かない。それはつまり、虐殺の方向性が完全に一方向に固まっているからこそ、汚染されきっているからこそ、なびかなくなっていると考えられるのです。その汚染のためには、発症のためには、ジョンには「時間」が必要とされていました。
 
 ではどのタイミングで完全に汚染が、というよりは「感染」が完了していたかといえば、国防総省にプレゼンをしにいけと言われる前、つまりは学術研究をしているその段階だったと考えるのが自然です。その時点で大量の「虐殺の言語」を見続けていたといえるわけですから。
 
 ですが、ジョンがおかしくなったのが、研究をしている段階だったわけでは決してありません。これはいわば、ウイルスの「感染」だけが完了した状態で、「潜伏」の状態に入っていたといえるのです。
 
 というのも、彼のこのあとのふるまいが大きな問題となるからです。
 
 では、何がトリガーとなってジョンが虐殺の言語が「発症」し、虐殺の言語に汚染されたのか。
 
 それは、サラエボに核が投下され、妻子が死亡したことを知ったタイミングです。
 
 彼はサラエボに一度訪れたあとに、『MITを辞め、半年のあいだ家にとじこもっていた』ようです。その後『突然有名PR会社』に入り、「虐殺の言語」をばらまきはじめました。
 
 この行動履歴はこのあと使う相当重要なものなのでよく覚えておいてください。
 
 で、「虐殺の言語」をばらまきはじめたのは、「アメリカのためだ」とジョンは語ってはいたのですが、最後の最後でルツィアが死んだ段階で、『ルツィアが望んだことを、自分はしようと思う。それが彼女へのわたしなりの贖罪だ』と語っています。たしかにルツィアは巻き込まれただけに過ぎなかったのは事実ですし、彼の言いたいこともすごくわかるのですが、心理の転換の早さはこうして検証してみると奇妙に見えてくるのです。
 
 これ、どこかでみたことありませんか。
 
 そうです、元准将のときとそっくりなのです。
 
 元准将の場合はなぜ殺してきたんだ、と問うていますし、内容こそ違います。ですが僕がいいたいのはそこではなく、心理の反転の速度が異常に早いところがそっくりだといいたいのです。
 
 憎きテロリストが完成し攻撃してくる前に殺し尽くす。ジョンはそれを決意していました。にも関わらず、ルツィアが撃たれてしまい、逃げている時、そこには固執を見せませんでした。アメリカの協力がなくなってなお、虐殺を続けようとしなかったのです。それは目の前に殺し屋のクラヴィスがいるから適当なことを言っている、といった感じもありません。もし適当なことを抜かして、とりあえずクラヴィスに協力してもらってるだけならもう少し行動に穴ができたり不審なふるまいが増えたりするものです。
 
 この状況から、ジョン・ポールの虐殺の真の理由が虐殺の言語によるものだといえます。他にあげられるものがあればよかったのですが、実際のところはジョンについてはほかはあまりありません。どちらかといえば「別の人物と行動が合致している」からこそ、この説に説得力がもたせられている状態です。なので、ジョンの行動の流れはなおのこと覚えておいてください。
 
 では今度は、そんなジョンを支えることにしたアメリカの『院内総務』は一体どういう理由でジョンを手伝わせていたのか、どうしてジョンに虐殺の動機を与えていたのかを考えてみようと思います。
 
 
 
 

切迫した世界のために動く院内総務の狙いとアメリカ内部での対立

 アメリカにおいて、ジョンの活躍はなくてはならないものでした。それはテロ行為の抑止のためではありましたが、なぜまだテロ攻撃もしてきていない国に対しての攻撃を行うことができていたのでしょうか。
 
 この手の巨大な国家は、だれかの意志ひとつでなにかがまかり通るような世界ではありません。必要だと判断され、発生するリスクや損害についてまで納得されている状態でなければ、人を動かすことは不可能ですし、ただの野蛮人として組織内部で干されたりするはずなのです。ですが、そんなことは起きることなく、内紛のコーディネートを続けられるようにジョンに支援を続けることができました。つまりそれだけ、状況が切迫していたといえるのです。
 
 この虐殺器官でのアメリカでは、情報社会が高いレベルで完成していました。それはテロの対策のためでしたが、ルーシャスは『現状の個人情報追跡によるセキュリティは意味がない』と語っており、ジョンによる虐殺めぐりが開始するまでは『セキュリティを高めていけばいくほど、世界の主要都市でのテロは増加』していました。
 
 つまり、テロはすでに制御不可能な領域に達した状況にあったのです。何としてでも止めようという決死の努力はセキュリティだけに留まらなかったはずでしたが、それらもすべてうまくいっていなかった、あるいは効果が薄かった状態にあったと考えていいでしょう。
 
 その根本的な対策として、MITのジョンの研究が、アメリカにとって殊更輝いて見えたのでしょう。ジョン曰く『政治的、民族的に不安定な地域のトラフィックを分析することで、残虐行為の発生を予測できる』研究として、解析が可能なものとして扱えると考えるようになったのです。
 
 ですが、解析できただけでは意味がなく、根本的にテロを起こしてきそうなところを「浄化」する必要が出てきていました。それも虐殺という、最悪の方法で。
 
 そんなとき、サラエボに核が落とされ、ついに根本的な対策を取る必要がでてきたのでしょう。
 
 サラエボの核がテロによるものだったのか、それは結局のところ不明なままでしたが、テロの象徴となったのは間違いなく、実際にインドにも核が落とされていたのが確認されています。よって、本当の本当に「浄化」に乗り出さなければ核戦争によって終末が訪れかねないと考えたのでしょうか、院内総務は本気でジョンへの支援を開始しました。それに対して虐殺の言語になびかれつつあったジョンも承諾し、ついに「浄化」はスタートしました。
 
 実際のところ、成功しました。『世界中で内戦や民族紛争が頻発するようになってから』、ついに世界からテロは消え失せたのです。
 
 しかし、アメリカも一枚岩ではありません。院内総務はさすがにこの事実をアメリカの内部にもたらすわけにもいきません。なので対立者として、軍があり、CIAもあり……といった状況は当然ながら発生しました。
 
 最終的にはジョンも追いつめられていきました。そしてジョンに関する情報も、どんどん更新を続けていきました。作戦を追うごとに、パズルのピースが埋められていくように。
 
 ですが、そんなさなかに死んでいった重要な人物がいたのを僕らは忘れてはいけません。
 
 アレックス。彼は院内総務のスパイだった可能性があります。
 
 
 
 

アレックスの死は自殺ではあったが別の理由があった?

 アレックスの死はこの作品において強い印象を与えるものとなっています。『地獄はここにあります。頭のなか、脳みそのなかに』というセリフはクラヴィスにとって強い印象となって出ています。
 
 ですが、その死がただの自殺だったのかどうか、それはよくわからない部分が多いです。
 
 アレックスの死因は、『車のなかでガス自殺』ということで、どうあがいても他殺が不可能な自殺方法です。ということで、暗殺ではなかったのは間違いないのですが、彼がなぜ死ぬことにしたのか、それは不明なままです。
 
 というのも、遺書が見つかることがなく、ウィリアムズもまた『相談くらい、してくれても良かったんじゃないか』といったように、誰にも語ることなく旅立ってしまっているためです。
 
 ですが、この院内総務のお話をここで取り出してみると、案外すんなりと答えが出てきてしまうのです。
 
 
『ぼくらは地獄に堕ちるのでしょうかね』
 
 これは冒頭、住人たちを見殺しにしていたときにアレックスの語ったことばです。
 
 彼自身、この状況下に相当悩んでいる描写とはいえるのですが、そうではありませんでした。彼は地獄がこの頭の中にあり、逃れることはゆるされないのだと語っていたのです。それはアレックス自体が地獄を形成し続けたから、というだけではなかったんじゃないか、と考えられるのです。
 
 それは、クラヴィスやウィリアムズ、リーランド同様に脳のマスキングを施されていて、この3人は結局自殺するまでには至っていないところに理由があります。
 
 つまり、自殺をするにも、なかなか決心がつけられないようになっているはずなのです。にも関わらず自殺をしたというのには、もっと別の理由も必要なはずです。
 
 よって、アレックスの自殺自体が院内総務に関連付けられた何かを隠蔽するために、自殺をしなければ逃れられないような状況下にあったと考えられるのです。
 
 
 アレックス本人から、別の理由による自殺だったんだと示唆させる描写はほとんどないのですが、ジョンは次のようにクラヴィスに語っています。
 
『きみたちがわたしを殺し損なうたびに、情報漏れ候補はすこしずつ絞りこまれてきたはずだ。わたしを殺すというよりまずリーク現特定のために立案された作戦だってあったかもしれんよ』
 
 実際、ジョンの神がかり的な逃走劇は協力者あってのことでしたし、しかも、アレックスが自殺したその段階で、ジョンが目撃されるとすべて発見されるようになっています。
 
 偶然が重なっただけなのかもしれませんが、アレックスがこの茶番の何かしらに関わっていて、だからこそ自殺を選ばなければならなくなったと考えるのが妥当です。
 
 そう考えると、アレックスは多くを背負い込んで、挙句の果てにはキリスト教において最悪の、「裏切りの罪」すらも背負うことになったのですから、彼にとってはより辛いことだったんじゃないかと僕は感じるのでした。
 
 ではこうして脱線気味にアレックスに関する憶測を展開したところで、元に戻って、アレックスの死がどんなものだったのかを結局知ることのできなかった、この物語の語り手であるクラヴィスについて考えていこうと思います。
 
 
 
 

ラヴィスこそが後継者となれた理由

 クラヴィス・シェパード、彼は最終的にジョン・ポールから虐殺の言語を引き継いできたのですが、どうしてあれほどまでにスムーズに引き継ぐことができたのか。
 
 それは、彼が『言語愛者』であった部分にあります。
 
『ぼくには、ことばが単なるコミュニケーションのツールには見えなかった。見えなかった、というのは、ぼくはことばを、リアルな手触りをもつ実体ある存在として感じていたからだ』
 
『ぼくは、ことばそのものがイメージとして感じられる』
 
 彼は異常な領域で言語を理解しています。それは日本語をはじめとした言語にも精通した文学部卒というだけでは言い表せないレベルのものです。
 
 そして、彼はその言語愛者であるがゆえに、「元准将」を殺すタイミングですでに「感染」していた描写が見られました。
 
『数分にわたって体を密着させているうちに、元准将の第一種軍装の色を、その色とりどりの勲章を、ぼくの体の迷彩が追従しはじめた。まるで相手の狂気がぼくの体に乗り移ってくるように思え、』
 
 
『男から漏れてくる言葉はまるで呪文のようで、それを聴いているぼくの正気にまで侵食してきそうな勢いだった』
 
 彼の言語愛者の力が本領発揮したのは、この部分にあったと考えられます。彼は言語の中からイメージを抽出可能な存在であるがゆえに、誰よりも速やかに感染した可能性があります。
 
 というのも、おなじ虐殺地帯を回り続ける他のメンバーは、クラヴィスのように強い変化が見られなかったためです。
 
 クラヴィスのように、ウィリアムズもまた悪夢を見がちになったのですが、ウィリアムズはクラヴィスの如く強烈なイメージで死者の国のような夢は構築できていないと語っています。
 
 また、クラヴィスが他の人物たちと大きく異なっているのは、最後の最後の行動の遷移です。
 
 クラヴィスは、ルツィアを殺され、果てにはジョンすらも殺されます。
 
 そして最終的に彼は家にひきこもりきりになって、その後世間に引きずり出されて公聴会の大舞台で繰り返し語る機会に恵まれたと語っています。
 
 これ、ジョン・ポールと同じなのです。
 
 大切な人を殺される(トリガー)→職をやめて引きこもる→外に出て「虐殺の言語」を語り出す(発症)
 
 これが虐殺の言語を語る者たちの「発症」までの遷移です。そしてそのトリガーとなるのは、大切な人が殺されるという部分にあります。
 
 クラヴィスは図らずもこの条件を踏んでしまったことで、ジョン・ポールの後継者となってしまったのです。
 
 クラヴィスにとっての大切な人の死というのが、ルツィア、ジョン、そしてエリシャ・シェパード、つまりはクラヴィスの母です。
 
 どうしてこうなるのかというと、引きこもりがスタートしたのはルツィアとジョンの死で、虐殺を開始する後押しとなったのが、クラヴィスにとっての母の死だったためです。クラヴィスは実際に出力されてきた母の伝記を読んだのちに、『作戦が終わって、ぼくはからっぽになったと思い込んでいたけれど、そこが真空ではなかった。真の空虚がぼくを圧倒した』と語っています。
 
 母に関する部分は謎につつまれているもののひとつです。しかし、クラヴィスはここで次のように語っています。
 
『そんな空虚にジョン・ポールのメモは実にぴったりと嵌った。もしくは、ジョン・ポールのメモのほうが、ぼくの空虚を見出したのかもしれない』
 
 つまり、クラヴィスにとっての母の死は、この出力されてきた伝記を読んだ時に起きたと考えるのが妥当でしょう。そうしてついに、クラヴィスはジョンと同じ道をたどることになったのです。
 
 エピローグで、クラヴィスアメリカ以外のすべての国を救うべく英語によって虐殺の物語をもたらしました。ですが、そこには罪を背負うとかいう動機はなかったと考えていいです。それこそが、虐殺の言語による人殺しなのですから。
 
 
 
 

「ことば」は意味をバイパスし、虐殺をもたらした

 ジョン・ポールの虐殺の動機は、「アメリカを救うため」。
 
 クラヴィスの虐殺の動機は、「アメリカ以外の国を救うため」。
 
 このふたつに、一体どれくらいの違いがあるのか、正直僕にはよくわかりません。ジョン自体もまた院内総務に促されてやってだだけな感じなのですし、クラヴィスに至っては『ジョン・ポールのメモのほうが、空虚を見出したのかもしれない』とすら語っています。
 
 つまり、クラヴィスの動機も、果てにはジョンの動機すらも、本当に空虚なものだったといえます。ジョンは次のように語っています。
 
『スローガンの直線的な『響き』が伝えているのは、憎め、守れ、そんなプリミティブな感情を伝えるための音楽なんじゃないか、そういう妄想だよ』
 
 彼の発言は、最終的には虐殺のオルガンの演奏者自身の動機にすらなっています。彼らは言語に汚染されていた以上、その虐殺の言語そのものの持つ『響き』に共鳴することしかできませんでした。
 
 結局のところ、虐殺の言語は、誰にも制御のできなかった呪いだったのです。
 
 
 
 

おまけ:考察者、倉部贋作の虐殺器官感想

 僕が小説にはまった最大の理由となっているのがこの作品です。永遠に書架に残し続ける、そんなすごい作品でした。これまでいろんな人たちにおすすめし、貸していき……と繰り返していくうちに、そしていろんなところに持ち歩いて読み返しまくっているうちに、たった一年半でものすごい年季の入ったかのようなボロボロ状態となっています。今度ハーモニーとか屍者の帝国みたいに新しい表紙版が出たら保存版として新しく購入しておかなきゃ……と感じているくらいです。いや、小説で保存用を買うことを決意することになる日が来ようとは……
 
 作品を読み返す、とかいうことは僕はさしてしないほうでしたし、そもそも本って媒体は好きじゃなかったんですよね。映像にしてくれよ、そう感じてしまうだめなティーン・エイジャーだったわけです。この虐殺器官は、そんなどーしようもないダメ人間の意識をガッツリ変えちゃうような、そんな作品でした。
 
 まずはじめに完全一人称というシステムに、これほどまでに魅力を感じた作品ははじめてでした。ああ、これは小説でしかできないことをやってるんだ、と無知な僕にすらも理解させる力というものが、そこにはありました。まずその語り口のうまさというか、さらさらと頭の中に入り込んでいくような文体に驚いたことは、今でもすぐに思い出せます。本ってこんなものもあるんだ!という驚きを、まず序文の時点で感じさせられるってなかなかないことですよね。
 
 そしてその語りだけが面白さの秘訣じゃなかったのがすごく印象的です。いろんなものについて説明がなされていくのですが、その何もかもに新鮮さを感じました。ハーモニーを読んでいた時もそうだったのですが、この話は知らなかった!とか、その視点の発想はなかった!とか、この話詳しく聞かせて!というふうに、知的好奇心がものすごく刺激されたのはいい思い出です。そうして僕は引用された作品に興味を持ち、購入していくようになって、やがて本が好きになっていったのでした。
 
 あとミステリー的な最後の展開にはやっぱりびっくりして、どうしてなんだろ……と考え続けてはや一年半、ようやく答えに近そうなのがでてきたなあ、という印象です。よぼよぼになって他界したあと、向こう側で伊藤計劃さんに会えたら虐殺器官とハーモニーのエピローグの答え聞きたい、めっちゃ聞きたい。そしてご本人の解答にまたびっくりしたい。
 
 
 そして、この作品がなければ本当にギルクラ改変作品をつくりだすことなんてできなかったので、感謝してもしきれないです。この作品から生み出された設定や、この作品の持っていた特性は、改変作品のなかで、全く違う、新しい形にして組み上げられています。それがいいことなのか悪いことなのか、それは僕にはわかりえませんが、それでも小説なんて書いたこともなかった僕に力をくれた、すごい作品であることは違いありません。
 
 
 私事はこのへんにしましょう。
 
 虐殺器官で好きなところはクラヴィスの「ぼく」語りにあります。ハーモニーでもそうでしたが、能力としては優秀なんだけど、なんだか頼りない感じが常に出ているのがいいんですよね。なんだかすごく人間らしい語り口が、よりすらすらと話を読ませていく、のめり込ませていく感じです。
 
 更にいいのが、ぎっしりつめこまれた説明の文にあります。どれもこれもストライクなんですよね、学生の僕にとっては。やれ認証社会だ、やれ罪と罰だ、やれ筋肉素材だ。見たことない世界を見せつけられて、それでいてかっこいいんですよ。
 
 うーん難しいなあ、どう伝えればいいんだろう。とにかく世界自体が有機的な感じなのがいいんでしょうか。思想も相当おもしろかったので手を出しまくりましたし、筋肉素材についてはびっくりしました。ああ、こういうのもSFなのかってなりましたね。初出なのかどうかはさっぱりわかりませんでしたが、なかなか映像でも見たことがなかったので読んでてわくわくしました。
 
 もともと人間に近いデザインのサイボーグとか、有機的なデザインが大好きな僕にとっては、この作品を読んでるだけで、見てるわけでもないのにすごく楽しく感じるんですよね。で、実際に映画版の映像を見た時は驚愕しました。
 
 結局映画版は延期にはなっちゃいましたけど、イントルード・ポッドが落下しながらガトリング撃ちまくってるのを見て呆然としました。そしてなにこれめちゃめちゃカッコイイ!!ってなったんですよね。ハーモニーのときのマンタ飛行機とか山羊ちゃんもすごく好きだったので映画がとっても楽しみでしょうがないです。小説で僕が見逃していた部分が映像となって出力されてくる感じってほんと好きなんですよねえ。
 
 映画版も今年中に公開になる?という話を風のうわさで聞いてますので、僕はそれをたのしみに待っていようと思います。ハーモニーや屍者の帝国で、映画としての作品の良さを引き出してきた3作品の最終作がどんなものになって出てくるのか、わくわくしますね。
 
 では今回はここまで。この考察が虐殺器官の良さを探るためのひとつの手がかりとなってくれることを祈っています。

ハーモニー考察:イデオローグより愛を込めて ―「男の子」から見えてくるミァハの物語―

 
 ハーモニー、それは「私」、トァンの物語。
 
 そして、その「私」という物語を見せられた僕が見出した物語を、今回はここに示そうと思う。
 
 それは、トァンのイデオローグ、ミァハの物語。
 自殺した男の子を思い、世界に復讐を果たした、ミァハの物語。

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

この考察の目的

 ハーモニーでの重要人物であるミァハ。この作品で明言されていなかった彼女の思考を、数々の行動と発言の中から抽出していくことで、ミァハがどんな人物だったのかを考え、この記事を読んだ人に、作品の良さを再認識するきっかけとしてもらう。

 

 

はじめに

 では序文を小説らしく書き、目的をレポートらしく書いたところで、今度はブログらしい書き言葉に変えて、ネタバレ全開で語っていこうと思います。なので作品を読み終わった、見終わった人向けの記事となります。とはいえこれを見てからハーモニーに触れるのもおもしろいかもしれませんので、その判断はお任せします。
 
1/23更新 虐殺器官も考察行いました。こちらからどぞー
 
 ハーモニーの小説はお持ちですか?映画の記憶はありますか?どちらもない方は書店か映画館に直行しましょう。もしくはBDポチって届いたらすぐ鑑賞しましょう。僕はこの記事を投稿するにあたって原作を読み直し、そして更に吉祥寺まで映画をまた見に行きましたが、やはりどちらもいいものでした……。1月某日までは吉祥寺で映画やってるようなのでぜひ関東マンな方は見に行っていただければ。
 
 では本題に入りましょう。
 
 
 
 
 

ミァハのすべては、自殺した男の子がはじまり

 小説、つまり原作においても、そして映画版ハーモニーにおいても、エピローグ直前に、ミァハが珍しく自分のことを語るシーンがあります。
 
 
『わたしが十二歳のとき、隣に住んでた男の子が死んだ。首を吊っていた。この世界を憎んで、この世界に居場所がないって言って、その子は死んでいった』
 
 
 この語り、初めて読んだ時の僕の印象は、唐突だな、というものでした。それは至極当然の理由で、語り手であるトァンは、ミァハに対して、なぜ集団自殺をしようと決心するに至ったのか、生命主義を否定しようとした、その「理由」を根掘り葉掘り訊ねたことがなかったためです。
 
 トァンにとって、ミァハは理想に過ぎなくて、そしてかつて自分が過食という道を歩んだ自分をついに連れてってくれるすごい人、という具合でした。ミァハに対しては強い疑念を持つことなく、とりあえず見てきた印象だけを模倣して、結局は僻地でタバコと酒のために働いていたぐらいですから。そりゃもうすごい能力ですよ。要するにただの学生から世界のエージェントへと変貌を遂げたくらいなんですから。ですが、トァンには、ミァハになりきるための、「理由」は必要なかった。そこに、「自分のことしか考えてない」トァンという存在の物語である部分が強調されて、鮮烈に浮かび上がっている印象が、今の僕にはあります。
 
 では、ミァハが生命主義を否定しようとした「理由」とはなんだったのか。そしてなぜ、今度はひるがえって真のハーモニーを目指したのか。相反する、あまりに極端すぎる選択をなぜミァハは行えたのか。
 
 
 それは、「男の子」の存在で、すべてが解決されます。
 
 
 この直感は僕の中で急に訪れたものです。つい何日か前、ハーモニーに関する面白いつぶやきをする方のツイートを見ていたのですが、ミァハって自分じゃ結局自殺できてなかったよな、というのを思い出し、そこから、以前から引っかかっていた「男の子」の文の唐突さを思い出したのがはじまりです。
 
 その部分を考えていくうちにミァハの奇妙な部分に気づいていき、そうして最終的に、このめっちゃんこ長い考察文が完成しました。
 
 僕はたいてい、ものをかきながら(絵やデッサン、小説、レポート、おついったーどれでも)、手を動かしながら、そのディティールの深さに気づいていくタイプなので芋づる式にこんなものができてしまうのです。長いと思うのでうまいこと読み分けるなり、暇な時間をつかってしっぽり読むなりするのがおすすめです。
 
 
 この考察を書くにあたって、さすがに直感だけじゃマズイでしょってことで前後関係を精査してたところ、原作においてすごく面白い一文を発見しました。それは、ミァハのおかあさんとお話した時のものです(映画版ではこのセリフはありませんでした、説明不足にならない程度にカットされてる感じです)。
 
『最初はよかったんです。けれど、中学に入ってからあの子は何かに取り憑かれたように、自分自身を傷つけはじめました』
 
 中学に入ってから……そして十二歳。つまり、「男の子」が自殺した段階で、彼女の自傷がスタートしたことが確認されています。
 
 ただの顔見知りが自殺した程度で、こんな感じになるのかどうかといったら、少し違うように感じますよね。だってこの世界ではセラピーとかその手の対策が異常に多いのですから、大したことがなければすぐに立ち直れると考えてもいい。自殺というものが比較的よくあることならば、誰かが死ぬたびに、みんながみんな自殺にひた走っちゃうんですから。なのでどちらかといえば、仲の良かった男の子が死んじゃって、絶望して、というのが自然な気はします。
 
 しかし、どうも果たしきれていない部分が、この辺りで確認されます。ミァハのおかあさん曰く(これも映画版ではありませんでした)、
 
『とりわけ手首と首は何回も傷つけたものです』
 
『過食で死のうとしたり、拒食で死のうとしたこともありました』
 
 しかも、結局は薬による拒食を選びましたが、死に切ることができませんでした。怖くなってしまって薬を止めて、大人たちに報告したキアンも、必死になって果たしきろうとしたトァンも、結局はミァハも、死ぬことはありませんでした。
 
 ここで疑問が出てきます。キアンもトァンも、ミァハに導かれて、死をもって、世界に攻撃を果そうとしていましたが、なぜミァハは、「男の子」と同じように、首を吊って自殺しちゃえとは考えなかったのか。なぜ一番バレやすそうな拒食という選択肢をとったのか。
 
 彼の道に続けば、より首吊りという共通の印象を併せ持つことで強力なメッセージになったはずです。それもすぐ実行すればよかった。ですが、彼女は結局ずるずると、高校生になっていきました。
 
 そこに、ミァハの、「男の子」への"執着"を、そしてミァハの先天的な特性を、僕は感じ始めました。
 
 
 
 
 
 

ミァハが本を知ったのは「男の子」から以外考えづらい

 僕がこうして作品を一連で見返していて、気になった部分がありました。
 
 それは、ミァハが本を知っていたところです。
 
 トァンは、本の存在を、ミァハに話しかけられるまで知ることはありませんでした。それはつまり、天才科学者である父ヌァザすらも、本を家では使うことがなかったことを意味しています。つまり、紙の本が驚くほど希少なものだったことがわかります。
 
 となれば、養女として、日本にやってきた意識を手にしたミァハは、見ることもろくにない、希少な本をどうやって知ったのでしょうか。
 
 そして、彼女は、なぜ本という媒体に固執し続けたのでしょうか。
 
 重たくてかさばるから持っている、孤独になりたいから持っている。
 
 トァンの目線としては非常に納得のいく話です。不快感を取り払うものを、社会と繋がり続けるものを、本はその質量によって、デッドメディアであるからによって、排斥することが可能な存在なのですから。
 
 しかし、ミァハクラスの読書家となれば、それはびっくりするほどお金のかかる話になるのは間違いありません。時代的に考えても、電子書籍で読んだほうが相当早いはずです。ですが、それをしない。
 
 そこに、唯一物語の中に存在する文でつなげることが可能なのが、「男の子」の存在なのです。
 
 「男の子」が、もし紙の本を持っていたのならば、そして自殺した「男の子」になびくほどに影響されていたのなら、そこで覚え、固執したと考えるのが妥当でしょう。でなければ、彼女は知るよしもないものだったのですから。
 
 では、そんなすごい「男の子」のディティールを、そしてこのハーモニーの社会のディティールを詰めていきましょう。
 
 
 
 
 
 

「憎しみ」が「違和感」にしか発展しない社会

  僕は、次のような文がすごく気になっています。先ほど引用した、「男の子」についての内容です。
 
『この世界を憎んで、この世界に居場所がないって言って、その子は死んでいった 』
 
 これ、ハーモニーを読みきった方ならば、映画を見た方ならば、すごく違和感を感じるものかもしれません。
 
 トァンはかつて、ミァハに会う前に、過食という方式によって、自殺をしてしまおうとしている描写がありました。しかし、彼女のそのきっかけは、セッションにありました。その時以降、トァンが感じていたのは、
 
『この世界にはわたしの居場所がない』
 
 「男の子」の文と、同じ文が引用されているように見えるかもしれませんが、実態はまるで違います。それは意味的にも、ということです。
 
 世界を憎んだのか、否か、という部分です。
 
 トァンは憎しみになるべきものを、違和感としか認識できていませんでした。その違和感を見出したのが、ミァハだった、つまり、社会への憎しみを認識するようになったのは、ミァハのおかげだったというわけです。
 
 
 トァンパパ、ヌァザはすごく久々に娘に会った時、こんなことを語っています(映画版ではありませんでした)。
 
『年々増加する若者の自殺――特に過食や拒食のような、自身の体の衰弱を見つめながら死んでいくようなやり方を試みた若者を集めてね』 
 
 ここで、なぜ過食や拒食の人間を集めたのか、それは、おそらくは自殺の方法のトップに近いものだったためだと考えられます。というのは、メジャーな死に方に対しての対策を取らなければ、大きな効果が期待できないからです。
 
 で、なぜ過食や拒食に走るのか、僕はとても気になりました。ミァハが主導したのもまた、拒食という手段でした。決して直線的、暴力的とは言えない、ゆるやかな死に方です。
 
 それは、ハーモニーという世界ゆえに、人間に憎悪が宿らないためではないか、と考えられました。
 
 自殺について僕なりに調査をしたのですが、拒食、過食による直接的な自殺に関しては、現在の自殺の中ではメジャーなものとは言いがたいです。自殺の動機にはなるけど、自殺方法ではない、ということです。こちらのサイトより。
 
平成23年版 自殺対策白書(HTML)
 
 これによれば、現代の自殺のメジャーは首に縄をくくる類で、次が飛び降りとか入水って感じです。つまり過食・拒食による自殺は現代社会ではほとんどないケースです。それはこのデータの中に過食・拒食による自殺という項目が出てきていないことからすぐにわかることです。あったとしても「その他」に吸い込まれちゃうくらいに非常に稀なケースです。
 
 ということで、ハーモニーの社会は、現代社会とは自殺というディティールが、そして自殺にも繋がりやすい社会の状況が、相当かけ離れていると考えるのが妥当でしょう。映画版でもトァンは過食で一回失敗した、というお話があります。しかし、現代における「その他」枠レベルでの稀有なことを二度もやることはありえないですし、トァンがミァハに過食のことを伝えた描写は確認されていませんから過食・拒食がメジャーになっていると考えていいでしょう。
 
 では、今の社会とハーモニーの社会の、何が違うのか。
 
 そこに、思いやりで人を締め付ける、という社会のあり方が出てくるように感じます。
 ここでは、思いやりの逆の力として、他者をはじめとする特定の何かを感情的に否定する力、わかりやすく言うと、憎しみを表現できるか否か、というのを重要視してみます。
 
 さきほどのトァンの違和感の話がありますが、普通だったら、思春期に社会に対して興味を持ち始めれば、ちょっと怒りっぽくなるのは、憎しみたらたらになるのは、否定的になるのは、今の世界ではよくあることです。だって僕らの世界のテレビじゃみんなぷりぷりしてますもんね。しかし、ハーモニーの世界では、何かを感情的に否定するという、憎しみに一切つながらない。それどころか違和感にしかならない。
 
 ということは、憎しみというものすら、何かを感情的に否定する力すら、生起しないものと見て間違いありません。
 
 となると、「男の子」の存在がことさら輝き始めるのです。
 
 彼は、旧世界の人たち同様に、憎しみを表現することができる、何かを感情的に否定できるからです。
 
 
 
 
 

憎しみを表現できる男の子とはどんな存在か

  「男の子」は、どんな人間だったのか。
 
 それをしっかり考えようとした時、最大の手がかりになるのは、その影響下にあったミァハの行動や発言のみとなっています。
 
 ですが、先ほどの項目とミァハの発言から、おおよそのイメージは掴めつつあります。
 
・紙の本をミァハに見せたことがある存在
・トァン同様の憎しみを表現できる存在
・首吊り自殺をした存在
 
 で、一番下の項目が、すごく重要な部分になります。
 
 先ほど示したように、この世界での自殺においては、過食・拒食がメインなわけです。にも関わらず、「男の子」が首吊り自殺を選んだことは、すごく重要なポイントになります。
 
 ここで考えられる仮説が、「男の子」は限りなく僕らの時代の人たち、現代社会人に近い存在だというものです。だって過食も拒食もしないのですから(後述でも首吊りが異常な理由がわかります)、変な話なんですよ。しかも現代では首吊りが最もポピュラーなため、そこには何かしらの意味も含まれていると考えるのが妥当でしょう。
 
 もし現代人に近いなら、憎しみを表現出来るのにも納得できます。憎しみをどうやって、生府の中にいながら獲得できたかは流石にわかりませんが、紙の本づくりに躍起になってるミァハにおこづかいをあげられて、孤児を引き取る程度にはお金持ちだった御冷家のおとなりに住んでいたとなれば、ある程度お金持ちの家の男の子で、外部に関する情報、あるいは昔の情報をみやすい存在だったと考えるのが妥当でしょう。これならば本を作る要因となっててもおかしくはないですね。
 
 しかし、「男の子」には怒った顔が、おそらくできなかったと考えていいと思います。
 
 それは、ミァハが怒った表情をしないところにあります。
 
 これはミァハの意識が、大脳でエミュレートされたものであるが故の欠陥である可能性がありますが、仮にそうであったとしても、自殺した「男の子」のことをずっと覚えていられるような女の子が、ほんの少しでもしぐさを真似しないのは奇妙なのです。自傷の原因となり、世界への憎しみを訊いたのに、その憎しみを模倣してるのに、一番近いしぐさを真似しないのはどうも変なのです。
 
 なので、憎しみの語り口はミァハのものに少し似ていると考えるのが妥当でしょう。
 
 ということで、「男の子」は、次のような存在だと考えられます。
 
・紙の本をミァハに見せたことがある存在
・ミァハの振る舞いに近い存在
・憎しみを表現できる存在
・首吊り自殺をした存在
・現代人に限りなく近い存在
・怒りの表情はできない存在
 
 ここで気になってくるのです。じゃあミァハはどうして天才になっていったのか、という部分です。ただこの「男の子」を模倣できただけでは、メディモルをいじれるようになるだとか、博学になれるとはとても考えられません。てかそうまでして無尽蔵に知識を貯めこんで何がしたいのか、という話です。彼にならってただ自殺するのであれば、知識なんて特に必要ないはずですし、ミァハ自身が勉強に精を出す理由にはならないからです。
 
 そこで考えられるのが、「男の子」の自殺を合理化するための、知識の吸収というものです。
 
 
 
 
 

ミァハの博学さは、「男の子」の自殺の合理化のため

 「男の子」が死んだ時、ミァハは、『どうしたらいいか、わからなかった』ようです。顔見知りの子が自殺したということなら、悲しい気持ちになるとかでしょう。しかし、彼女は、どうしたらいいかわからないというくらいに、動揺していたことがここでわかります。
 
 それは、悲しみとしては最大のものでしょう。涙の前に、ただただ立ち尽くすしかないような、そんな感覚を、エミュレートされた意識は不完全ながらも感じていたのでしょう。
 
 めちゃめちゃにされるなかで意識を手にして、日本に連れてこられて、少なくとも最後の最後に憎しみを表現してきた「男の子」が死んだことで、二度目の死が彼女に訪れた、だからこそ、動揺するほかなかった。それは急なものだったから、動揺するしかなかったのかもしれません。ですが、急なものだったかどうか、それは語られてはいません。
 
 残されたミァハは考えました。
 
『そのときは、わたしは単純に思ったの。この社会が、この生府社会が、この生命主義圏の仕組みがおかしいんだって』
 
 そうして、彼女は、この世界がいかにしておかしいのか、理由を追い求めはじめたのでしょう。それも、紙の本を駆使することで。そして、憎しみを表現した彼に近づくために、リストカット、拒食・過食をはじめとした自傷行為をはじめたのでしょう。そうして自殺へと駆り立てられていったのでしょう。
 
 「男の子」の自殺を無駄にしないために、「男の子」が憎み、「男の子」を奪った世界に復讐するために、公共の敵(パブリック・エネミー)となる。
 
 それこそが、この考察における、十二歳のとき――中学に入ってから、何かに取り憑かれたように、自分自身を傷つけはじめた理由であり、そして彼女の根本的な行動理念です。
 
 
 しかし疑問は残ったままです。それは、ミァハが首吊り自殺ではなく、拒食によって、復讐を成そうとした点です。
 
 
 
 
 

ミァハもまた、「男の子」のように強くなれなかった

  トァンは、ミァハのように強くなれなかったことを後悔していますが、ミァハもまた、そんなひとりだと考えられます。
 
 それは、首吊り自殺を選択しない部分にあります。
 
 集団で首を吊ればいいのにやらない、サリンまがいのものをばらまくこともできるのにやらない。
 
 それは、ミァハが臆病だったから、と考えてもいいのですが、僕はこう考えています。
 
 憎しみを表現できても、真の意味では憎しみの感情を持ち続けられない、何かを感情的に否定する力を継続できないため、というものです。
 
 ミァハは、大脳でエミュレートされた意識を持ち、そこで感情を把握している状態です。そしてかつてミァハは意識を必要としない存在でした。
 
 エミュレートとは、つまりは模倣に過ぎず、本来の機能すべてを獲得しているわけではありませんし、意識のエミュレートなど前例のあるものでもありません。そこに、答えがあったのでしょう。
 
 ヌァザは、娘のトァンにこう懺悔しています。
 
『模擬的な意識が絶望し、死を選ぼうとすることに、わたしは深い感動と、落胆を覚えた。自殺とは、自ら命を断つというのは、逡巡する意志を持った存在にしか為し得ぬ、高度に意識的な行為だという事実に――』
 
 自殺へと駆り立てられるミァハは、所詮はワンオフ品のまねごとの意識しか持ち合わせていません。なので、本当に自殺の可能な意識を保つことができていたのか、それは懐疑的です。ヌァザも脳の反応を見ていたのでしょうが、ミァハは結局、首吊りをせず、飛び降りもせずにいたのですから。そして、首吊りという一番印象の強い自殺方法を取らなかったのですから。
 
 故に、ミァハが根本的に、『高度に意識的な行為』である、自殺が不可能だった、と考えるのが、一番機械的な答えでしょう。
 
 それは、ミァハもまた、首を吊って死んだ「男の子」のように強くなれなかったともいえるわけです。
 
 だからこそ、同じ生府の自殺者同様の道を歩むのがやっとだったのでしょう。先天的に意識を必要とせず社会と調和できる特性によって、無自覚に社会に馴染んでいたからでしょう。
 
 でなければ、集団自殺を選択しないのです。3人だけの、すごく小さな社会の中で合意がなければ自殺へと足を踏み出せない、ミァハは意識を手にしても、先天的にそういった存在だったから、と考えるのが自然です。『一緒につるんでくれそうな人を探してたんじゃないかな』というキアンの意見は的を射ていますし、同時に『きっと、友だちじゃなくて同志を探してたんだよ』というトァンの意見も、これならば的を射た意見になります。
 
 かくして集団拒食を計画し、まわりにわかりづらくするために、メディモルをいじって拒食の道を選択するのが妥当な線となりました。このあたりはミァハの才能が伺えますね。すごい……
 
 ですが、そこでもまた懐疑的な部分があります。ここに、『高度に意識的な行為』が不可能だったという理由があるように感じます。
 
 全員が全員、拒食から助かっている部分です。キアンどころか、トァンも、ミァハも。
 
 これは三人にとっての事故だと考えてもいいかもしれませんが、先ほどと同様に、ミァハの無意識の行動が影響を及ぼしたと踏むのが順当でしょう。
 
 毒を飲ませて一発他界とか、そういうのだって簡単にできたはずなのに、選んだのは拒食だった。それは、助かる可能性を求めていたからなのでは?と僕は考えています。だって、まわりでいつも誰かが見つめるような世界では、すぐに助けが飛んで来るのは必然だったからです。それに、メジャーな自殺方法ならば対策は多く取られていたと踏むのが妥当ですし。
 
 そしてなによりも、自殺というものが、どれだけ無意味なのかを、ミァハは生得的に、動物的に、更には論理的にも理解しているからです。でなければ、終盤に、
 
『自殺なんて人間として最低の行為をしたって』
 
 というふうな発言は厳しいものです。彼女は無意識の人間だったからこそ、自殺という方法を、根本から否定することしかできない存在だったというわけです。
 
 そんな彼女は、ヌァザの実験を知ったことで、大きな転機を得たことになります。
 
 
 
 
 

改:毎年無為に命を落としていく何百万の魂のために、魂のない世界をつくる

 「男の子」の自殺、というすべてのはじまりは、結局はミァハにとって理不尽な暴力と大差がなかったのは間違いないでしょう。だからこそ、彼女はこれまで、自殺を合理化して、死ぬ道を探し続けてきた。でも生来的にミァハには自殺が不可能で、だからこそ助かってしまった。
 
 そんな彼女が、自殺の次に成せることとはなんなのか。それは、ハーモニーというトァンの物語からはとてもわかりづらいことではありましたが、こうして追ってみれば、最終的な結論は出ていました。
 
 自殺した「男の子」の死を無駄にしないために、毎年無為に命を落としていく何百万の魂のために、魂のない世界をつくること。
 
 そう考えれば、彼女もヌァザの研究を元に、ハーモニクスプログラムを書き上げきるという恐ろしいことを成し遂げてしまっても、全く不思議ではありません(映画版ではこのあたりは明言されていませんが、集団自殺のためのバックドアを持っていたというのはこれが理由です)。ただ彼女が賢かったから、その程度で済むほど、このハーモニクスプログラムは簡単に完成させられるものではなかったはずですから。何年にも及ぶ研究によって、ようやく完成させられたものだったのでしょう。
 
 ですが原作では、その心情は、彼女の中では上手く構築できていなかった、というよりは、トァンの読みが外れていたような具合が確認されています。終盤のやりとりが特にそれを助長させていますね。
 
『じゃあ、ミァハは戻りたかったんだ、あの意識のない風景に。自分の民族が本来そう在ったはずの風景に』
 
『そう、なのかもしれない。ううん、きっとそうなんだね』
 
 少し含みのある返答ですよね。たしかに戻りたかったけど、そんな程度の問題ではなかったんじゃないかと思います。映画版ではうん、とすぐに頷いていますが、それはそれで後述するのですが、すごく意味が強いです。
 
 ですが、天才である彼女にもたったひとつだけ、誤算がありました。
 
 
 
 
 

天才のただひとつの誤算:主流派の反対

 ミァハのただひとつの誤算は、ヌァザをはじめとする主流派が反対を表明したこと。
 
 きっと彼女にとっては、強い悲しみがこみ上げてきたことでしょう。これまでのすべてが、今死んでいき、そして取り残されるすべての人たち――かつての自分と同じ存在を、助けてあげることが出来ないということを。そのためにつくりあげたのに、結局は使われないということを。
 
 だからこそ、彼女はあえて集団自殺を導き、一者一殺を世界に要求しました。主流派を動かすために、彼女は大量殺戮者の道を歩み始めました。そうしてヌァザを拘束し、最悪は殺すことを心に誓い、ヴァシロフを仕向けました。ヌァザに憎悪を持っていたのは、まちがいないです。
 
 自殺を促せるのは、WatchMeを体内に入れた大人のみです。つまり、彼女には子供には手をかけることはできなかったことになるでしょう。
 
 ですが、本当にそうなのでしょうか。
 
 すべての人間を調和の世界へと導くならば、少なくとも子供にも、脳の恒常性を確認するWatchMeが実装されているのは確定的です。
 
 このため、子供にもその気になれば自殺を導いたり、一者一殺をしはじめるようにさせるのは容易だったはずです。
 
 ですが、それを明言することは、ありませんでした。
 
 子供が一斉自殺の犠牲者の中にいたかどうか、それは一切確認がされませんでした。そのあとで怖くなって子供たちが殺しあってしまう、は考えられますが、ミァハは子供に対しては実行していなかったのは確定でしょう。それは、WatchMeが子供の体内にもあるということはバラしたくなかったからなのか、それともかつての自分を重ね合わせているのか。
 
 いずれにせよ、彼女はついに、ここにきて、自殺ではなく、ほとんど直接的に、大人たちの社会への復讐を果たしたことになります。
 
 
 その時の心境は不明ですが、少なくとも実行できた以上は、自分を含めた大人たちへの復讐の念が多かれ少なかれ混じっていたのかもしれません。
 
 ですがそこに、更にミァハの誤算かと思われた部分がありました。
 
 キアンが犠牲となったことです。
 
 
 
 
 

天才の誤算ではない?:集団自殺者の中にキアンがいたこと

 どう考えても、たまたま集団自殺者の中にキアンが混じってしまう、だなんてことは普通有り得ませんし、もしそんなことがあってもターゲットを変えてもいいわけです。原作によれば『ランダムに選ばれた結果』と語ってはいますが、詭弁で逃れた可能性というのが濃厚な気がします。でなければ最後の最後でキアンに対して語りかけたりするものでしょうか。
 
 よって、彼女には明確な殺すべき理由があったと考えるのが妥当でしょう。
 
 その理由は、手がかりをトァンに指し示すことが一番結果論的な話で理に叶ってますが、あれほど少ない手がかりのなかで、トァンが音声ログに気づけるかどうか、というのはほとんど賭けに近かったはずです。そして、ヴァシロフという仲間をトァンに接触させてヒントを与えているとなれば、キアンを殺した理由は招待状的な意味合い以外にもあったと考えるべきでしょう。
 
 殺したさいの音声を残したという行動は、確かにトァンの答えである『自己正当化』も線としては考えられますし、先ほどの招待状的な意味合いも考えられますが、この考察において更に深く探るのならば、重箱の隅をつつくならば、かつての自殺を止められなかった自分、さらに「『高度に意識的な行為 』 である自殺の思考」そのものの否定、という線も考えられると感じています。
 
 音声ログによれば、『いまわたしにその勇気を見せてくれればそれでいい気がする』とまで語っているわけですが、実際に敢行されるのはキアンの自殺で、以前同様のミァハ自身も行った3人での自殺とは様相が大きく変質しています。これを昔の再現だ、というのは流石に無理があるわけですね。つまり、本当に殺すための言葉だった、ある種の勝利宣言だったわけです。
 
 ではキアンが一体何者だったのか、それを考えていくと、至極まっとうな結論が出ます。
 
 キアンは、自らをバランサーと語っていました。そうして、自殺しようとするミァハを止めようと必死になっていました。
 
 ミァハがそれに目ざとく気付いたとしたら。この辺りは憶測ですが、ミァハもまた、キアンをバランサーだと気づいていたとすれば、驚くべき結論が見えてきます。
 
 バランサーの破壊。社会そのものの1人で、心の根底では調和を目指し続けた存在の破壊。
 
 それは、かつて男の子の自殺を止めることができなかった、ミァハそのものだと考えられるのです。
 
 
 
 
 

キアン=十二歳のミァハ

 この説の構築のためには次のふたつの憶測が正しいものであるとして考えなければなりません。
 
・ミァハがキアンをバランサーとして捉えていた
・ミァハと男の子の関係が、ミァハとトァンの関係と一致していた、つまり男の子はミァハによく世界のおかしいところを語り聞かせるなどのことをしていた
 
 このあたりはこのハーモニーの中にある文やシーンからの確認が、僕には取れませんでした(´・ω・`)
 
 なので相当ゴリ押しな説ではあるのですが、そこから見える結論は、結果としてミァハがキアンを見出した理由も、ミァハがキアンを殺す理由としても原作や映画からすぐに読める内容よりは補強されたものになり得ると判断したため、ここに示したいと思います。
 
 ミァハがなぜキアンを見出したのか。トァンはミァハが『同志を探してた』とは言いますが、どちらかといえば「自分とそっくりな人間」を追い求めていたと言う方がこの考察においては近い気がします。
 
 というのも、ハーモニーのなかでは、ミァハがキアンを見出す理由が不明なままだからです。もしこの説を適応すると、次のような理由が考えられるようになります。
 
 
 
 キアンが12歳のときのミァハと同一だとミァハに判断され、キアンを見出し、集団自殺へと勧誘する。
 
 それは、共に死ぬことで、自らの男の子を止められなかった過去と共に逝こうとしたから。
 
 そして、集団自殺を外部的な力によって、再び止めて欲しいという、かつての自分にできなかったことを、かつての自分によく似たキアンに再びしてもらいたかったから。
 
 
 
 ミァハが集団自殺をするときにおいて、最大の障害となったのは、キアンの存在でした。ですが、なぜかミァハはキアンを加えたままに、集団自殺を敢行しました。
 
 それは、ミァハが身勝手な女の子だったから、といって片付けるのは容易ですが、そもそも小説まみれのミァハが、それくらいの人間の感情の動きを読み取れない、行動の中から人を分析できない、というのは奇妙な話なのです。彼女は、少数派のなかでのイデオローグでした。それはヴァシロフというおじさんすらも動かせるくらいに求心力があった存在ということを意味しています。もとより自分のことしか考えていないとトァンを分析できるのに(これは原作のみですが)、キアンだけは分析できないってのもまた変な話なのです。
 
 そして、彼女の意識は『高度に意識的な行為 』を行えているわけではありません。そのため、無意識的に外部への助けを要請し続けるような行動が散見されているありさまです。
 
 
 
 
 

憶測からできた仮説から見えてくる、ミァハの「自殺の思考」の正体

 この憶測によって成り立つ「キアン=十二歳のミァハ」 説を適用すると、見えてくるものがあります。それは、キアンに自殺させるときのミァハの思考です。
 
 あの時の音声ログ、どう見ても、かつてのハーモニー社会を憎悪した人の言葉になってますよね。ですが、それをすらすらと語れる、というのは、二重人格でもなければ相当きついわけで、更にはキアンを殺すという理由が薄すぎて(トァンへ手がかりをあげる程度)、罪悪感に囚われてしまうはずなのです。なのにエピローグ寸前の時、逡巡などに該当するブレはまるで見えない。
 
 ミァハは、過去の自分、つまり「『高度に意識的な行為 』 である自殺の思考」と「自殺を止められなかった自分 」を殺そうとした、そのためにキアンを殺したと考えるのが、いちばんそれらしい殺害の動機となるでしょう。
 
 どうしてこう考えるのかというと、自殺をしたいが安全策を無意識にかけ続けさせてしまうミァハが、かつての自分の言葉をかけながら生きているキアンを殺すことで、過去の自分を弔おうとしているように見えるからです。
 
 真のハーモニクスを望む、大人になったミァハにとって、過去の自分とは、意識と行動を正しく制御できない存在です。それは自殺と生存という脳内の競合(コンフリクト)によるものでした。ですが、自殺をしたかったのは事実で、今の自分もまた、自殺をすることは絶対にできない。そこで、キアンを用いて自殺をさせることで、自らの未完成の「自殺の思考」と、「自殺を止められなかった自分」を殺した。
 
 集団自殺をさせたのは、まさに世界への復讐のためでしたが、こう考えると、集団自殺はミァハにとって、より強い意味合いのものになります。
 
 「『高度に意識的な行為 』 である自殺の思考」 ――ミァハの中にいる不完全な「男の子」の亡霊と、「自殺を止められなかった自分」を、たくさんの人とともに生け贄に捧げることで弔い、「男の子」を奪った世界へと復讐を遂げる。
 
 ミァハもまた、トァンがミァハの亡霊に怯え続けたように、「男の子」の亡霊に怯え続けていたと考えられるのです。「男の子」のとった行動こそが、彼女を自殺へと駆り立て続けさせる最大の要因となったのですから。
 
 それ故に、過去の自分、というよりは、「男の子」の亡霊、つまりは「自分自身の自殺の衝動」を殺そうとしていた、だからこそ、「自殺を止められなかった自分」そのものであるキアンにその「男の子」から模倣できた思考を、つまりかつての自殺衝動に駆られていたかつての自分をぶつけさせ、仮想的に集団自殺を完遂したように"演出"することで、「男の子」の亡霊を、ミァハの意識から完全に殺して、自らもまた集団自殺を完遂できたように思考した、と捉えるのが妥当でしょう。
 
 つまるところはキアンは本当に巻き込まれただけで、キアンには何の罪もなかったのです。ただ、ミァハに見出されたばかりに、ミァハを救いたいと願ったばかりに、こんなことに巻き込まれてしまった。
 
 キアンが最後にポツリと言った、「ごめんね、ミァハ」という言葉の意味が相当重たいものに、僕は見えるのでした。キアンは、とても『強い』人だったんですね……。
 
 

 

トァンを見出した理由

 こうしてキアンを見出した理由を、そして殺した理由を憶測で語ってきたのですが、今度はミァハが、なぜトァンを見出したのかを考えていこうと思います。
 
 トァン本人はどうしてミァハが自分を見出したのかわからなかったと語ってはいましたが、
 
『結局いちばん気になるのは自分のこと。調和(ハーモニー)なんてどうでもいいんだ。だから本を読むなんてわたしの奇行も目に入らなかった』
 
 とミァハが指摘していたように、この『調和(ハーモニー)なんてどうでもいい 』という身勝手さが、見出した最大の理由なようです。『あなたはやっぱりわたしの見こんだとおりの女の子』だなんて言ってますし(このあたりは原作のみの描写です)。
 
 では、なぜミァハがそんな身勝手な子を見出してきたのか。
 
 それは、「男の子」に似た身勝手さだったからではないか、という風に考えることができます。
 
 

トァン=「男の子」

 この説を示すために、先ほどの男の子の特徴を見てみようと思います。
 
・紙の本をミァハに見せたことがある存在
・ミァハの振る舞いに近い存在
・憎しみを表現できる存在
・首吊り自殺をした存在
・現代人に限りなく近い存在
・怒りの表情はできない存在
 
 ここでミァハに見出される前のトァンに共通するのは、実はたったひとつだけです。
 
・現代人に限りなく近い存在
 
 ではトァンのどこに現代人に近い部分があったのかといえば、主にその身勝手さが由来しています。
 
 トァンは自覚的ではないですが(後々自覚的にはなっていくけど)、本当に他人をどうでもいいと考えている部分が多いです。それもミァハが本を読んでることを知らないというレベルにまで。現代人であったとしても無関心にもほどがあります。それがハーモニーの世界では、調和を重んじるように教育されているのですから、余計に際立つ特徴となるわけです。
 
 さらに現代人にそっくりだった理由はもうひとつあり、原作のみの描写ではありますが、「セッション」のさいに違和感を感じたという部分にあります。ハーモニーの世界であるならば、あの会話の流れで、カフェインは禁止すべきなんだ、と思考するのが基本ですが、トァンはそんなことはなく、父の言おうとした文脈に気づいて、そして父のことを深く思っている描写が見られます。僕ら現代人からすれば、トァンや父ヌァザの気持ちはすごくわかると思いますが、この世界では害あるものは避けるべき、という教育が徹底されているため、なおのこと気づくのが難しいはずなのです。ゆえにトァンは現代人に近しい存在だったと言えるわけです。
 
 なお映画版においては「セッション」があったことを匂わせるシーンが存在しています。あのコーヒーのシーンです。
 
 そして、比較対象である「男の子」が憎しみを表現できたことは間違いないです。じゃあ男の子が憎しみを表現するようになった、その原動力は一体何だったのか。
 
 それは、「男の子」自身の身勝手さ故ではないかと考えることができます。それは、ミァハに自殺の理由を伝え、自殺したのが最大の理由です。
 
 これ、調和を重んじるハーモニーの世界ではなかなか行わないことではないかと考えられます。このあたりは男の子が現代人に近いと言える理由にもなるのですが。
 
 この世界では危険な情報はフィルタリングされていると考えていいでしょう。どちらかといえば自殺がしたくなってしまったけど、止めたい、止めさせたいんだという理由でのセッションの方が考えやすいです。そして、セッションの外でそういう会話をするのはタブーと見なされ、そういうように教育され、更にはSAも下降しやすいはずです。
 
 にも関わらず、「男の子」は自殺の理由を伝え、死んでいった。それはつまり、社会の調和よりも、自分の意思を優先したということになり、つまりは我が強いとか、身勝手な行動と言って差し支えないのです。現代人の僕らになら、我が強い行動はいくらか見られるものではありますがね。
 
 彼がどのような生活をしていたのかは詳しくはわかりませんが、現代人相応に強い自我を持ち、自殺とその直前のことばによってミァハを呪って去っていったとなれば、トァンの身勝手さに匹敵するような身勝手さを持っていたことは間違いありません。
 
 故に、ミァハは、男の子に似た身勝手さをトァンに見出した、と言えるわけです。
 
 で、先ほどキアンのところで「自分と似た人を探していた」という話と、ミァハが「男の子」の幽霊に囚われていたのではないか、という話をしましたよね。
 
 つまり、ミァハは、かつて死んでいった「男の子」の身勝手さを、今は自分と同化しつつある「男の子」の身勝手さを、トァンの身勝手さの中に見出した、と言えるのです。
 
 早い話が、トァンが、ミァハの関心を持ち続けてた「男の子」とすごくそっくりだった。
 
 もっとチープで誤解を招く言い方をすれば、
 
 好きだった「男の子」にトァンがそっくりだった。
 
 関心を寄せていた相手にそっくりだったのならば、トァンに対してのみスキンシップが少し多かったのにもうなずけますね(映画版はもっとすごい)。それが「男の子」にされたことだったのか、それとも「男の子」にしたかったことなのか。この辺は妄想が捗りそうです。「男の子」……羨ましい……。
 
 よって、ミァハはバイセクシャルだった可能性が濃厚です。
 
 僕はこの可能性に気づいて腰を抜かしましたね。そうか……たしかにミァハがレズであることを明言したけりゃ「男の子」ではなく「女の子」にすれば良かったんですもんね。一文だけしかないんですし。僕はとことんトァンの思い込みに流されていたんだとようやく気付いたのでした。そしてバイセクシャルであろうとも、百合は成立する。そうして僕は百合の深みに驚嘆するしかないのでした。
 
 では、なぜミァハがトァンを集団自殺に誘おうとしたのか。といえば、もうここまで来るとわかりやすくなりますね。
 
 ミァハは男の子と似たトァンと共に死ぬことで、共に向こう側に行きたかったのが大きいのでしょう。男の子を思いながら続けてきたこれまで失敗してきたすべてを、集団自殺によって完結させたいと考えたのでしょう。とはいえ、キアンを加えていたことで失敗に終わることは確定的でしたが……。
 
 
 
 

ふたりに与えていた知識は、すべてはふたりの罪悪感を減らしてあげるため

 ではなぜミァハがトァンやキアンに知識を延々と与え続けていたのか。
 
 それは、罪の認識を軽減させてあげたかったから、と考えられます。
 
 男の子と同じように自殺をしきれるようにしてあげたい、できれば男の子よりももっと罪悪感のないようにしてあげようとしたのではないかと感じています。自分が踏み切れるように蓄えた知識を提供することには、その点大きな意味があったと言えます。
 
 しかし、それに効果があったのかどうかと考えると、ほとんどなかったと言っていいでしょう。キアンはふたりの自殺を止めるためにがんばっていたんですし、トァンにはもうミァハさえいればどうにかなるんだ、と強く感じていたように見られるからです。なにせ、トァンは理由を要請するような子でもなかったのですから。
 
 

トァンを導いて最後の場所に至らせたのは、報告のためだった?

 こうして物語を追ってきましたが、なぜミァハがトァンを導いてきたのか、それは疑問としては強く残るものでした。ですが、この考察をここまで見てきた方ならば、もうすでに答えがわかっていると思います。
 
 「男の子」そっくりだったあなたを救うことができた。
 
 ただそれだけを報告するために、トァンを導いてきたと考えるのが、一番でしょう。
 
 実際のところ、トァンもまた、世界のことなんかどーでもいい、ということを認めている始末で、ただ復讐のためだけに、真実を知るためだけに、最後チェチェンへと向かっている有様です。
 
 ある意味で相思相愛の関係だったとも言えるわけです。片方は来て欲しくて仕方なくて、片方は真実を知るためだけに、自分の友だちと父を殺した根源に向き合いたくて。
 
 そうしてふたりはついに再開するのですが、そこで行われたやりとりこそが、ハーモニーの最大のポイントとなっています。
 
 

トァンの最後の行動こそが、人類史上最後で、最大の、意識の弊害(わがまま)

 トァンとミァハは、最後の最後で邂逅します。しかし、そのときのやりとりは、すごく面白い状況になっているといえます。
 
 はじめに、すでに引用している、トァンが訊ねた、『意識のない風景』にもどりたかったのかという質問に対する、ミァハの反応。
 
『そう、なのかもしれない。ううん、きっとそうなんだね』
 
 ここまでの考察におけるハーモニクスを目指した真の理由が「自殺した男の子の死を無駄にしないために、毎年無為に命を落としていく何百万の魂のために、魂のない世界をつくること」なのですから、ミァハの本質とは少し違います。しかし、結果的にはトァンの言ったとおり、『意識のない風景』をつくるのが最善のことなんだだと判断して実行したのですから、『きっとそうなんだね』というのは自然です。映画版においては『うん』とすぐに頷いていますが、あながち間違いでもないことを、映画版のミァハが見出したと考えればそれほど違和感はありません。
 
 つぎに、キアンを殺したことに関する『自己正当化』の会話のときの、ミァハの反応(原作のみ)。
 
『そう……、なのかな』『そうなのかな』
 
 ミァハのセリフは、確かに自分が正当化していたことに疑問視しているに見えますが、ここまで考察を読んできた方ならば、そうではないな、と感じているかもしれません。
 
 この考察においては、キアンを殺した理由は(憶測も含めた内容でしたが)『過去の自分を葬るため』なのですから、正当化も何もないのです。完全に受け入れた状態で臨んでいるのですから、新しい解釈を聞かせられればそれはたしかに聞き返したくもなります。
 
 そして、トァンがミァハを撃つときのシーン。
 
 原作では、「あなたの望んだ世界は、実現してあげる。だけどそれをあなたには、与えない」
 
 映画版では、「私の好きだったミァハのままでいて!」「愛してる……ミァハ……」
 
 これ、実はこの考察においてどちらも筋の通った答えになっています。
 
 というのは、トァンは「身勝手」な存在であるというのが、この作品においてもっとも重要だったからです。それはこの身勝手さが、「男の子」と同じものであり、そして意識の最大の弊害であるのですから。トァンはここで身勝手なセリフを吐いてしまうのが、最高なわけです。
 
 
 なぜならば、トァンにとってのミァハと、いや、ハーモニーを読んだ人にとっての、映画を見た人にとってのミァハと、この考察が見出したミァハは、大きく違っていたのですから。
 
 
 映画版においては原作に比べスキンシップが多かったのもありましたから、こういうふうにしゃべるのも必然なのです。別にあれは脈絡のない話では全然ありません。そして原作の場合においても、ミァハがどんな人間で、どんなことを望んでいたのか。それはこの考察の如く明言されていたわけではなく、さきほどのようにトァンの思い込みが強く出ている部分が散見されています。
 
 ぼくら聞き手はトァンの思考にバイアスをかけられて、トァンの最後の言葉に同意してしまう。そういう、ある種の皮肉めいたギミックを、僕は感じてしまうのでした。
 
 この考察の領域にまでトァンがミァハを知ることができていたら、たぶん結末は大きく変わっていたと考えられます。憎しみというのはわからないからこそ募るのであって、ここまで見えてしまうと、つまりは模倣できてしまうと、納得してしまって怒りが増長することもできなくなってしまうので、ぽかぽか殴っておしまいになってしまいます。
 
 それは久々にヌァザに会った時のトァンの反応から十分に考えられることです。自殺しかけた娘を置いて、同じように自殺しかけた少女を連れて行くような『ろくでなし』の話を、前々の人の話を聞いていくことで納得しているからでもあります。トァンは身勝手ではありますが、理由さえあれば止まることのできるのです。
 
 しかし、ミァハがろくでなしのパパと違ったのは、彼女がどんなことを考え続けていたのか、本人が説明しようとしなかった部分にあります。それも、こんな膨大な考察を書かないと見えてこないような理由を示そうと一切していなかったのです。それがせいぜい、「男の子」の話がやっとだったのです。
 
 つまり、ミァハはそもそも、トァンに自分のことをわかってもらう気はなかったのです。
 
 原作での撃たれたシーン、どこか穏やかですよね。どうしてわかってくれないの、といったような、そんな具合が一切見えません。そして映画版においても、トァンが銃口を突きつけてきているのをわかっていながらも微笑み続けていましたよね。それもすごく優しそうに。
 
 ミァハは、トァンのわがままで、かつて「男の子」の持っていたわがままによって死ぬのなら、それでもいいと思っていたからこそ、そうして穏やかでいることができたのではないでしょうか。
 
 結局のところ、大人になれていなかったのは、わがままだったのは、ミァハを理解していなかったのは、トァンと、そしてトァンという語り手によって紡がれた物語の聞き手であるぼくらだったのです……
 
 
 
 
 

おまけ1:Ghost of a smileは「男の子」の幽霊の歌だった?

 この考察を進めている最中に気づいたことです。
 
 この作品の主題歌となっているEGOISTの曲「Ghost of a smile」ですが、なぜか歌詞の一人称「僕」ですよね。
 
 え、つまりこれって、ミァハが自分の行動を模倣しちゃってすごく困ってる、幽霊になっちゃった「男の子」の話じゃないの?と感じるようになりました。するとびっくりなことにすんなりマッチする部分が多いのです。いや、考え過ぎなのかな……。気づいた時、僕はその気味の悪い一致具合に呆然としてました。ぜひ歌詞を書いたryoさんに直接訊ねてみたいですね。
 
 そして映画版において流されたものは、「あのさ 僕は」~「いつか幸せになれると願おう」までカットされてるんですよ。これ、ミァハ宛だったらわかりますよね。ですが、こう考えることができるんです。
 
 この物語は、トァンの物語。つまり、ミァハの物語ではなく、すべてがトァンから生起されるもので語られている。
 
 つまり、トァンに、ミァハを通じて乗り移ってきた「男の子」の言葉だったんじゃないか、と考えられるのです。
 
 わかりやすくいえば、トァンに「男の子」が乗り移っちゃったと言えるんですよ。で、男の子がトァンに対して語りかけてきてくれている。ミァハに伝えていた言葉を多少いじったものを。
 
 そして、この考察において、キアンの集団自殺によって「ミァハの中にいる不完全な「男の子」の亡霊と、「自殺を止められなかった自分」を、たくさんの人とともに生け贄に捧げることで弔い、「男の子」を奪った世界へと復讐を遂げ」たと僕は語りましたが、弔った先で「男の子」がミァハから離れて、トァンに乗り移ってしまったのではないか、と考えられるのです。
 
 だからこそ、「Ghost of a smile」でカットされた部分があった。おまけ2に続きます。
 
 
 

おまけ2:映画版を見返しててビビった話ートァンがえうってやるところー

 この考察を書くにあたって再び映画を見に行ったのですが、トァンがキアンの行動を模倣しちゃうシーンがありますよね。ナイフのやつ。
 
 あれをこの考察から推測してみてみると、あのとき語っていたのはミァハというよりは、「ミァハの模倣した男の子」で、男の子そっくりだったトァンに語りかけてきていたように、というよりは自分自身の内なる声だとトァンが誤認した、と考えられます。
 
 つまり、トァンはあの時、ミァハを通して「男の子」の身勝手さをごくごく自然に模倣していたと言えるわけです。
 
 もっとチープな言い方をしていいならば、おまけ1で書かれたように、「男の子」の幽霊がトァンに完全に取り付いちゃった、と言えるわけです。
 
 トァンはキアンと違って自殺を促されていたわけじゃないんですし、如何に「男の子」とそっくりな存在だったのかを証明するものとしてはものすごい説得力があります。音声なしのときは比較的涼しい顔で見ていたトァンでしたが、あのときだけ、感じが大きく違いましたよね。
 
 実際のところ、集団自殺の中で唯一自殺を敢行できたのはトァンのみであったりする点を考えると、そして、その後最後の最後の結末のトァンの行動を見てみると、トァンは男の子の身勝手さに囚われ過ぎていたとも言えるわけです。
 
 あのときのシーンは本当に必要とされていたシーンだったんだなと、深読み考察者である僕はビビるしかないのでした。
 
 
 

おまけ3:映画版を見返しててビビった話ーCGになっている人は生府の人だけー

 僕、この作品でキャラでのCGがやけに多用されているところが目に付きました。実際のところ、楽園追放を見たあとだと不自然だな……とか思っちゃう、作品の聞き手としてはダメなことをしちゃってたんです。あ、これが楽園追放です。
 
 なにぶん、のぺっとしてるし、人間味がないし、動きがどこか機械的だし。人間的な動きがすごくそれらしかった楽園追放とは感じが違うぞ、と思っていたんです。
 
 ですが、これ狙っていたのかどうかは不明なんですが、CGによって動いていたのは、生府の人だけでした。
 
 バクダットの生府の外に出た時、色んな人が動いていましたよね。ですが、あれ全部手描きのものなんですよ。どのシーンを見ても、CGキャラがいない。
 
 ああいう人がすごい多いシーンこそ、CGを使うのにはコスト面的にもメリットがあるのですが、それをしなかったことには、ある種のこだわりを感じたのでした。
 
 実際のところ、生府のCGキャラは生府のキャラの手描きの場合以上にマネキンの感じが強調されてて、すごくのぺっとしてるし、人間味がないし、動きがどこか機械的でした。意図があったのかはわかりませんでしたが、こうして着目してみると逆に良さになっていて、これまたビビったのでした。
 
 
 

おまけ4:考察者、倉部贋作の<harmony/>感想

 僕はこの作品が好きというか、なんだか言葉でうまく言い表せない感じですね。とにかく圧倒される作品のひとつ、という感じで、一生書架に残す作品、と言えばいいんだろうか。
 
 この作品の扱った内容はどれもこれも強烈なものでありまして、本好きというか、いろんなことに感心を持つということに火がついたのも、虐殺器官とこのハーモニーあってこそでしたから、人生を変えた本、と言っても過言じゃないです。
 
 実際ハーモニーがなかったら僕のやってた二次創作小説(ギルクラ改変小説です、URLはリンクのpixiv、ハーメルンというボタンからいけます)も絶対に書けなかったというくらいに、書かれていることが先鋭的だった作品です。
 
 僕的に好きなのは、調和のためには最終的には意識が消失するという話そのものの部分にありまして、この時に想像力を刺激され、ものすごく考えさせられたのはいい思い出です。
 
 ロジカルすぎて辛い、けどなら僕はどういうふうに調和を考えるんだ?と言った具合に、自分なりのハーモニクスとは何なのかをすごく考えさせてくれた、そんなきっかけになった作品です。その答えをいちおう二次創作で示すこともできたので、本当にこの作品に会えてよかったな、と感じています。
 
 映画版も常に緊張感を感じる作品で、色んな考察ができて、とにかく圧倒された、という感じで大好きな映画です。百合百合してるのが映像で見れたのもよかったですねえ。恋愛モノは全般的にろくに見ないのでこういうのは主眼でなくてもシーンがあるだけで心が浄化されます。
 
 個人的にまだ書いてなくてびっくりしたのは、あの血管のようなものが張り巡らされたピンクのビル群。
 
 嗚呼……この世界の人たちは調和することによってヘモグロビンをはじめとした血となっていくんだな、とふと感じさせられてビビりました。結構僕がまだまだ見いだせていない情報がありそうなので、またぜひ観たい……と考えるのでした。BDポチるのも悪くないかも……。
 
 そして、こうして考察を構築してみると、このハーモニーという作品はすごいものだったんだな、と更に強く感じさせられました。まさかこれほどまで直感が本文に追随してくれるとは思いませんでした……。そしてこんな文字量になるなんて思ってなかった……。
 
 この考察はあくまで解釈のひとつに過ぎませんし、長すぎ、深読みしまくり、ところどころ憶測込みの考察かもしれません。
 
 ですが、誰かの中で、「ミァハとはどんな子だったのか」、「ハーモニーで語られなかった数々のものが何だったのか」というものを探る、ひとつの手がかりとなってくれるといいな、と思います。
 
 では今回はここまで。ここまで2万3千文字。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。