PSYCHO-PASS(サイコパス)犯罪係数考察:犯罪すなわち利己心という世界で
はじめに
その銃口《システム》は、正義を支配する。
PSYCHO-PASSを一言で語るとしたら、この公式が打ち出したキャッチフレーズが最もわかりやすい。
神託の巫女《シビュラ》の名を擁するその機構《システム》は、犯罪係数と呼ばれる独自判定に基づき、人間に黙示録の如き審判を与え続ける。その毒麦か否かを常に監視する目は国中に張り巡らされているが、中には緊急で対処しなければならない存在も出現する。
この毒麦を処分するために使用されるのが、支配者を意味し、主天使《ドミニオン》の名前をも意味する、電子兵器、ドミネーター。これは現行犯という緊急時にシステムの目として犯罪係数を判定し、その如何によって使用者に雷の権限を与え、即時量刑を実現する。
ドミネーターを握る人間には、いや、シビュラを享受するほぼすべての人間には、正義の思考など必要ない。
その人間の思考過程を吟味し、理解し、判断する必要などない。
ただ、銃口《システム》の謳う言葉に身を委ねるだけでいい。
では、思考過程すら見えないならば、こう訊ねてみたくなるものだ。
犯罪係数とは何か。
色相と正義は同一ではないのに、なぜ犯罪係数によって審判を下すのか、と。
この作品を何度も見てきて、それでもわたしの中で答えは出なかった。偶然の一致と思う他ない、先天的な特質だと捉えるしかない、と。
しかし、つい最近わたしの中で答えが突然訪れた。
それが、犯罪係数とは利己心の係数である、ということだった。
それは、シビュラの正義すなわち利他心ということも意味していた。
今回は「シビュラの正義すなわち利他心」ということと、その概念が、シビュラの世界が終わるときについて考察したことを書いていこうと思う。
ちょうど劇場版の公開が今年からスタートする。その機運にのって、そもそも犯罪係数とはなんなのか、ということについての振り返りができればとも考えている。
(2018/1/27「罪と罰」の考察記事も書きました)
本音を言えば、私自身がこのPSYCHO-PASSシリーズが大好きなので、その考察記事を何としても書きたかった、というのもある。今まで思考がまとまらず記事にできていなかったが、ようやくその時がきたとウキウキしながら書いているので、読みにくいところがあっても「こいつなに言っているかよくわかんないけどPSYCHO-PASS好きなんだな」とやさしさをもって読んでいただければ幸いである。
今回参考にする作品は以下のものとなる。
・PSYCHO-PASS1,2
劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス Blu-ray Premium Edition
- 出版社/メーカー: 東宝
- 発売日: 2015/07/15
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・PSYCHO-PASSジェネシス1,2,3,4
PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)
- 作者: 吉上亮,サイコパス製作委員会
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/03/06
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PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)
- 作者: 吉上亮,サイコパス製作委員会
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/06/24
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PSYCHO-PASS GENESIS 3 (ハヤカワ文庫JA)
- 作者: 吉上亮,サイコパス製作委員会
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2016/02/24
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PSYCHO-PASS GENESIS 4 (ハヤカワ文庫JA)
- 作者: 吉上亮,サイコパス製作委員会
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2017/01/31
- メディア: 新書
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そして、今回は以下の項目に沿ってお話ししていく。
1.犯罪係数すなわち利己心の係数
犯罪係数は、色相という言葉に置き換えられるケースがままある。色相がクリアだとか、色相が濁っているとか、そういった表現がされる。
色相が濁ると、大抵の場合ろくでもないことを始める輩が多い。逆に、ろくでもないことを始めたばかりに色相を濁らせる者もいる。あるいは、色相の濁りは伝染すると、自警団のように殴り殺す連中も出現し、結局全員色相を濁らせる。
このあたりはPSYCHO-PASS1において槙島聖護が中心となって起こした事件と、それによる市民の反応を見ればよくわかるだろう。
彼らを総括すると、犯罪係数とは利己心の係数ではないか、という仮説が立てられる。
これは先ほどの事例から見ればなんとなく想像がつく。
色相が濁って社会復帰ができなくなったので女性を誘拐する記念すべき1話で出現する中年男性。槙島聖護がパトロンとなったことで行動を開始した、鬱憤を晴らそうとする者たち。大規模サイコハザードのさいの市民のあまりに利己的な反応。
たしかにこれら利己的な存在はシビュラからすれば審判を下さなければならない対象そのものだ。彼らは放置すればサイコハザードを引き起こすからだ。
そもそも、PSYCHO-PASSの世界における住民は非常に脆弱な対ストレス性と、幼少期から終わらない動作の模倣、つまり真の意図でなく表層の動作のみ伝染する事象によって、世界的な虐殺が起きてしまった、というのが、PSYCHO-PASSジェネシス2において明言されている。
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虐殺器官の言葉を借りれば、『まるである日突然、虐殺が内戦というソフトウェアの基本仕様と化したかのようだった』。
(考察記事です)
つまりこの世界においてシビュラシステムを停止するには、このサイコハザードという問題を避けて通ることができない状況になっている。このサイコハザードという問題を未然に防ぐために、シビュラシステムの存在は不可欠となってしまった。
そういった意味ではシビュラを擁する日本が地球上で唯一、その運用スタイルによって文化的な体制を維持することに成功しているというのは劇場版PSYCHO-PASSで明言されている通りだ。ゆえにシビュラは、利己的な存在を許すことなく隔離する手法をとり続けているとみられる。
しかし、正義を執行しているのに犯罪係数が高い者たちの存在はどうなのか?という言葉が出てくる。その最たる例が、執行官達や、免職目前の監視官達だ。彼らはその体制上シビュラシステムに最も忠実な存在と思われがちだが、彼らの思考が結局のところ等しく利己的だと判定されるのは止むを得ない状況だと私は考える。
槙島聖護の深淵に囚われた狡噛慎也は、自らの正義を振りかざして槙島聖護を殺害した。
己の正義と、シビュラの正義の違いに苦悩した征陸智己《まさおかともみ》は、PSYCHO-PASSジェネシス1,2のなかで、自らが定義する「かつての刑事のように在り続ける」「家族を守る」という旧時代の正義の両方を選んだが、帰るべき家族のもとに辿り着いたそのときには、全てが終わっていた。
征陸智己の息子である宜野座伸元は、父の在り方と元同僚の狡噛慎也の変化に囚われ、やがて父を殺されたことを契機にその寂しさの心情を爆発させ、ついに執行官となり、事件という異常地帯の中での平穏を獲得した。
他の人物達も、自らの経歴に悩み、苦悩し、その果てに利己的な心情を選んでいる。
故に、執行官として機能するにふさわしい力を獲得した、とシビュラが判定している可能性は否定できない。
彼らは独自の正義を貫く。ただしその独自の正義の強さゆえに、周囲の犯罪になびくことはほぼなく、忠実に職務を遂行することができる。獣を狩るための獣として、その権能を発揮し続けることができるのだ。
そうすると、こうした最も厳しい環境下でもエリートを監視官として送り込むシビュラの手法が一層特異な状況であるようにも見える。監視官として放り込まれる人物は、先ほど挙げた人物達のように、間違いなく特別な才能を発揮している。しかし、あまりにも危険すぎる上に、執行官とは潜在犯であるのだから、社会的な地位もこの世界では消え去るに等しい。シビュラは何を望んでこうしてエリートを送り込んでいるのだろうか。
その答えは正義の在り方を考えるため、というわけではない。
常守朱のような最も素晴らしいシビュラ市民のモデルケースを生み出すことと、何よりもシビュラそのものである免罪体質者を発見する、という重大な使命を抱えているためである。
免罪体質者は、発見ができないのが基本だ。
ただし、特例がひとつだけ存在する。
免罪体質者が犯罪を行い、それでも犯罪係数が上がらず、シビュラの判定にかからなければ、逆に公安局刑事課を通して捜索の糸口とできるのだ。後述するが、彼らは槙島聖護のような人物を取り込むことで社会に平穏をもたらそうとするため、事件の犯人確保については非常に関心が高い。
しかし、先ほどまで犯罪者および潜在犯は利己的な存在である、と仮定したわけだが、そうすると理屈としてはおかしい。彼ら免罪体質者は犯罪を行う。しかし、色相は、犯罪係数は、クリアなままなのだ。システムの欠陥と一笑に付すのはたやすいが、そこには明確な共通点がある、と私は更に仮説、というよりは憶測を立てた。
その仮説こそが、「シビュラにとっての正義すなわち利他心」という概念である。
あるいは、こう表現することもできるであろう。
「シビュラにとっての幸福すなわち愛」という概念である。
2.「幸福すなわち愛」の個体を飲み込む神託の群体《クラスタ》
シビュラは、最大多数の最大幸福を掲げる。
それは個体としての思考法ではなく、社会として、群体《クラスタ》としての調和を目指しているといえる。
ゆえに、シビュラが最も歓迎する概念とは、「幸福すなわち愛」の実践者たちであり、そのために「正義すなわち利他心」を、犯罪係数の主要な指標に組み込む手法を展開しているのではないか、というのが私の考察である。
ケースから考えてみよう。
例えば常守朱は、シビュラの一員として迎えられることをPSYCHO-PASS2においてシビュラから提案を受けるほどに至っている。
彼女は、「正義すなわち利他心」の実践者だ。具体的には、PSYCHO-PASS1の最初の回では、シビュラに殺害判定された女性を救い出すため、その執行者になろうとした狡噛慎也をドミネーターで撃ち抜いている。PSYCHO-PASS2においても捜査の一環としてその実践は続いている。また、槙島を殺すのではなく、狡噛慎也を含めた全員を納得させて全てに決着をつけるため、これまでの法の手法で裁くために逮捕を選択してもいる。
また、免罪体質者である槙島聖護も、非常に利己的に見えながらも実は大きなところでは非常に利他的な振る舞いをしている。自由意志を失った世界での「贖う魂の輝き」を命題にして、犯罪によって啓蒙を遂行していたのだ。シビュラはこの観点について明言してはいないため、この考察に該当するかは不明だ。
鹿矛囲桐斗によって啓蒙された人物達もまた、シビュラシステムからは犯罪係数が劇的に落ちるという状況が確認されている。最終的に彼らもまた集団PSYCHO-PASS計測という手法によって終焉を迎えたが、貢献の対象がシビュラでなく鹿矛囲桐斗であろうと、つまり献身の対象が何であろうとも色相がクリアになる可能性が示唆されてしまった、という特殊な状況でもある。
彼ら免罪体質者および色相が濁らない者たちは根本的に潜在犯とも、あるいは薬物によって精神を浄化するしかない一般市民からも逸脱する。
PSYCHO-PASSの総集編で、槙島聖護はシビュラ統制社会の人間を家畜と評しているが、これはかなり正確な見解だと私は考えている。シビュラによって正義も葛藤も未来も委託された未来において、人間はこれまでのように悩み、葛藤する必要は一切存在しない、つまり今までのようにわざわざ人間らしく葛藤したり悩んだりしなくていい、家畜の時代に到達できたのだ。
今の社会ですら悩み、葛藤したとしてもあまり意味はない。戦争は消え去り、食糧問題は解決し、病気のない世界において、悩みも葛藤も、死に関わる事情ではなくなった。もはや葛藤は不要な概念であり、娯楽と利益を楽しむための道具に変わった。その悩みや葛藤がサイコハザードを起こし、虐殺へと転換する時代が訪れたならば、シビュラがその葛藤を一身に受け入れるというのは、むしろありがたいことだ。
その人間すべての葛藤を受け入れることができるような精神体が、もしも人間の脳という超並列計算装置によって実行されるならば、その脳もまた人間の葛藤という野蛮なものを受け止められるような、強烈な利他心を構築した脳の回路を必要とするというのはおかしな話ではない。
利他心は基本、人に情報を手渡すという手続きを必要とする。そこに、利己的なだけの脳の回路の役に立つ場所は、ない可能性がある。スマートフォンと同様の役目を、メインフレームに担わせるのと同じだ。メインフレームは非常に計算処理は高速だが、スマートフォンのような情報入力機構はない。入力を工夫しない場合、計算機はその本来の出力を発揮することはできない。
入力を受け入れるだけの能力をすべての脳が持っていなければ成り立たない並列処理機構は、メインフレームのような潜在犯の在り方を受け入れることはできない。
ただし、そのメインフレームの役目を潜在犯に担わせるという方法はある。それが、市民という在り方であり、槙島聖護の語る家畜の在り方でもある。完全に個体である市民は、外から導くだけでいい。そのインターフェースがサイマティックスキャンと薬物とドミネーターであり、これを通して人間は貧弱な入力機構を解決することができる。
かくして、脳を並列につなぎ合わせた群体《クラスタ》は利他心の調和《ハーモニー》を奏でることで、家畜へと至ることのできた人間達を導く。
愛の実行のためならば人々を導き、利己心を芽生えさせた者の剪定を薬物とドミネーターで行い、愛を必要としない存在を見つけ出し、自らの一部に付け加えていく。
人間を導く時に、家畜を相手にした正義の議論など、存在しようがない。
だから人間を超え、導く名前のない怪物にとっての正義とは、愛でしかないのだ。
ゆえにシビュラは、犯罪者であろうともシステムに加えることを目指す。
その脳が活性化する動機は彼らの幸福であり、それが他者への献身、愛であるならば、システムは人間が家畜であるうちは、共存し続けることになるだろう。
しかし、この考察はまた別のことを意味する。
シビュラの行っていた並列処理機構を市民に適用できるようにすることができれば、シビュラは中央集権的処理を不要とすることができる。
つまり、人間の脳をすべてシビュラに適用できる存在、常守朱のような人々が世界に広がるようにテクノロジーで解決できれば、シビュラの役目は終了することとなる。
だがそこには、もはや我々が考える意識といった個の概念は存在しなくなってしまうだろう。
3.個の概念は消え去り、正義は終わる
シビュラの電源を常守朱が切りに行く時、個の概念が消えてしまう。
これが意味するのは、完全な意味での正義の終焉だ。
常守朱は正義を、どこかのタイミングで捨てるしかなくなってしまうだろう。
具体的に話していこう。
シビュラの配下において、犯罪とはすなわち利己心だ。それは、我々の時代における正義の存在しない世界だ。
常守朱や狡噛慎也、征陸智己《まさおかともみ》の目指す正義は、旧時代的なものとしてシビュラから扱われ、市民達も彼らのような思考をすることはほとんどない。だからこそ、シビュラの世界には正義の源泉である歴史も思想も存在しない。だから歴史を、哲学を学ぶ必要もない。学問は除け者たちが利己心を強化するために使用する薬物と大して違いはない状態だ。
学問が薬物の世界で、それでもシビュラの電源を切りに行くとしたら。
学問によって個を強化するのではなく、群体としての在り方を強化するしかない。
だが先ほど示した通り、群体としての在り方を極めれば、シビュラのような在り方を進んでいくしかない。
その行き着く先には、人間全てがシビュラと同等となるしかなくなる。
そこには学問も、その配下にある歴史も、そして正義すらも邪魔となり、不要となる。
つまり、個の概念は消え去り、常守朱は自らを育てた正義を、シビュラのようにどこかで捨てるほかないのだ。
かつて、人間社会を運用するためには社会性のない者を裁くしかなかった。その源泉に、正義という共通幻想を与えて、それを逸脱し、害を与えた者をさばき続けてきたわけだが、テクノロジーが発展すれば、その逸脱すら計測し、解決できる。それを体現したのがシビュラだった。
もとより意識だとか、個だとかという概念は、技術の発達によって暴かれ、迷信となった。
魂と呼べるものは存在せず、我々の脳はネットワーク接続された端末との違いを、構成物質とアルゴリズム以外で語ることはできなくなっている。
そうして見て見ぬふりをしてきたものすべてを──犯罪係数がなくなり、それまでに積み上げられた死体の数の計り知れないシステムのすべてを──解決した時に広がるシビュラなき世界は、きっと見た目は何一つ変わることなく、人間は暮らし続ける。そして、おそらくきっと美しい世界だろう。
意識を全員が喪失した、ハーモニーにおける最終局面のように。
(こちらはその考察記事です)
しかしそこに、我々の想像する個の概念はない。
常守朱の目指す世界とは、そうした真実を全ての人間が理解し、そのうえで平穏を獲得するという世界だ。
その道は非常に険しく、不可能に近い。幾多もの事件が起きて、多くの犠牲を払い、最後は手にした正義すら、捨てることになる。
しかし彼女ならば。
正義の執行者達の意志を継ぎ、シビュラの寵愛を受けた常守朱ならば。
きっと、PSYCHO-PASSの物語は、そうして自分たち正義の終わりに向かって、ひた走っていくこととなるだろう。
おわりに
おわりにで今更ではあるが、この作品は「紙の本を読みなよ」と、私に本の虫の習性を与えてくれた作品であり、そのおかげでほとんどのもの(思想、科学、システムなど)をだいぶ独学でも学習できるようにしてくれた。平たく言えば、人生に多大な影響を与えてくれた作品だった。紙の本よりもKindleの良さに目覚めてしまうことになったが。
なのでPSYCHO-PASSの年である今年も、いろいろなものが吸収できるのではないかと楽しみにしている。
3本の映画の中で、きっとこのように犯罪係数に関して問うものが現れてくる。そんな犯罪係数に関して、ただ吸収するのではなく、考察にできればいいのではないか、と思っていたが、気づけばPSYCHO-PASSの行き着く先について書いていた。
PSYCHO-PASSの先に見える未来は、我々からすれば想像を絶する世界だ。
だがらこそ、その最果てに彼らが何を見出すのか、私はとても楽しみで仕方ない。
ガンダムNT考察:人間がテクノロジーで神々《ニュータイプ》へ生まれ変わる時
はじめに
ガンダムナラティブ。ガンダムUCファンの皆さんはもうご覧になったことだろう。
なにせ正式な続編であり、音楽は澤野博之氏であり、なによりもPVから心を揺さぶられるからだ。
私はこの作品で主題歌のためにYoutube Musicの加入を決断し、オフライン再生で聞き続けた。そして何度もYoutubeでオフライン保存されたPVを見ていた(Youtube Musicに入ってさらにプレミアムに入るとこの機能が使えた)。
サントラと主題歌は出たその日に購入し、その音楽を聴きながらKindleで原作版を読み、そして映画に三回観に行っていた。そして作品でほぼ泣いたことなど一切なかった私が、トータル九回涙をこぼす羽目になった。
機動戦士ガンダムNT オリジナル・サウンドトラック(特典なし)
- アーティスト: 澤野弘之
- 出版社/メーカー: SACRA MUSIC
- 発売日: 2018/11/28
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【早期購入特典あり】narrative/NOISEofRAIN(期間生産限定アニメ盤)(オリジナルB2ポスター付き)
- アーティスト: SawanoHiroyuki[nZk],LiSA,西川貴教
- 出版社/メーカー: ノーブランド品
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私は、それだけこのガンダムNTは素晴らしい作品だと考えている。
なぜならばこの作品は、人間がテクノロジーで神、つまりニュータイプへと生まれ変わる物語であり、その葛藤を描き切った物語だったからだ。
上の言葉でどうして?と思った方や、この作品がわけがわからないと思った方、そもそも観に行っていないんだけど口コミがすごいので考察でもまず観てみるかと思った方に、その理由をお伝えしたい。それがこの記事の目的だ。
そして、可能であるならばこの記事を読んだ人がもう一度ガンダムNTを反芻していい物語だったなあと回想していただける、よすがとできればいいと考えている。
今回の記事においては物語の時系列と合わせ、以下の三点を通してお話ししていく。
では、この物語《ナラティブ》の本題に入ろう。
1.早過ぎた神々《ニュータイプ》の到来
宇宙世紀0079。初代機動戦士ガンダムの舞台、一年戦争の時代。
ニュータイプとは、宇宙戦争という極限状態において生まれた、選択と淘汰の産物だった。
当然の帰結だった。何度も戦いを繰り返すうちに英雄が生まれるということは、今までの時代もなかったわけではない。そこに人の意思がわかるもの、エスパーが現れたとしても、偶然だったと一笑するほかない。進化とは、そうした出来合いの産物でしかないのだから。
しかしこれまでと根本的に違ったのは、彼らを規定するニュータイプという言葉に、彼らエスパーの力は、誤解なくわかりあうための力である、という思想が入り込んだことだった。
思想とは力の方向性を定めるものだと、私は考えている。ただの電気にコミュニケーションという概念が入り込んだその時、電気信号という概念が生まれ、やがてはネットワークによる多重通信とそれによるコミュニケーション産業時代の到来したことが、そのわかりやすい例だ。
それと同じように、ニュータイプは、ただのエスパーで終わることができなくなった。
ガンダムNTの三人の主人公達も、ただの子供ではなかった。
一年戦争におけるグランドゼロ、コロニー堕としを事前に察知、街を救った奇跡の子供達だったのだ。
それは、最初期のニュータイプの誕生の瞬間ではあったかもしれない。
しかし、奇跡を起こす神々《ニュータイプ》として出現するには、あまりにも早過ぎた。
宇宙世紀において、彼らニュータイプを受け入れていく社会の変革はほとんど起きないほど、形骸化した未熟な社会だったからだ。
それはガンダムUCにおける連邦政府とネオジオンの状況が、よく示している。
連邦政府は何度ニュータイプの出現する戦争をやっても自浄が働いて革命が起きることもなかった。
ネオジオンは結局ザビ家およびニュータイプのシャアの影を追うだけの、ただ群れるだけの集団に成り果てた。
それだけ進化に適応できない、未熟な社会のままだったのだ。もっと言えば、社会を生み出す人間そのものが、ニュータイプを受け入れるには早過ぎたし、そんな受け入れる力も変わる力も持ってはいなかった。制度の革命は起きず、旧い政府による支配体制が維持され、それは終わることがなかった。核兵器を抑止力にできたこの支配体制は、あるべき姿を考えようとしない思考停止ゆえに、ニュータイプを抑止力の領域に引き上げることに失敗した。
社会が未熟なばかりに、人間の若さゆえの過ちのばかりに、ニュータイプは抑止力ではなく、戦場の悪魔として権能を発揮するしかなくなった。
ニュータイプの力は、戦場という状況下において一騎当千をするのに都合が良過ぎたし、おまけに核兵器やコロニー堕としのような強力かつ再現可能な力では、決してなかった。
だから、ニュータイプを解析し、使えるものにしたいと考えた組織が出現した。社会の在り方を別の方法で問う前に、一騎当千という禁断の果実に向かって手を差し出してしまった。
かくしてニュータイプへの祈りは呪いに変わり、新しい時代の悪夢は始まった。
その果てに生み出されたのが強化人間と、NT-Dだった。
2.機械仕掛けの神殺し── 強化人間とNT-Dシステムの完成
一年戦争の後から出現した、強化人間という人工のニュータイプ。
今回のガンダムNTの三人の主人公達も、その強化人間の研究所に送り込まれていた。
ニュータイプの再現ができれば、戦場の外側において抑止力として機能して、戦争そのものを調停できる。私ならばそう考えるが、残念ながらニュータイプ研究所はそう捉えた取り組みはなかったか、あるいは失敗したようだ。
なぜならば、作品においても投薬、トレーニング、脳波テストといった、過負荷をかけること以外まともに行っていた形跡が見られないからだ。戦場に出すことそのものを目的としていたきらいもあるほどで、結局のところ何一つ目的を達成することはできていなかった。
彼らの取り組みは、スウィフトの描くガリヴァー旅行記、そのなかのバルニバービの科学者達のくだらない目的意識と取り組みによく似て、偶然生き残った強化人間を出荷することしかできなかった。
そうして最終的にリタはコロニー堕としを察知した張本人、すなわち本物のニュータイプとして、大量に、何度も体を切り開かれるだけの運命を背負った。だが、彼女ですら、コロニー落としを察知したこと以外、ニュータイプとしての力を発揮することはなかった。つまり、本当に当時もニュータイプだったかどうかは不明なままだ。だからそうしてリタが切り開かれても強化人間のひとりもまともに生み出せなかった。それはスウィフトの言葉並みに皮肉なものである。
そして、悪夢はもうひとつあった。工場出荷された彼ら強化人間の力を最大限に発揮するために用意された、サイコフレームと呼ばれる新たな物質とサイコミュ兵器の、戦場における流通だった。
強化人間といえども、攻撃の予測できないファンネルなどのサイコミュ兵器を使いこなすことそのものが戦場での最たる役目であり、一騎当千ではあっても本物のニュータイプをいつも超えることはできなかった。それは本質的な役割の与え方の軍の失敗であり、結局は強化人間を使おうが否が、戦争で勝つという矮小な目標すら叶うこともなかった。
だからこそ、連邦は本物のニュータイプを根絶するための準備が必要になった。自らを守ったかもしれないニュータイプは制御できないものであるとして、つまりすっぱい葡萄だと切り捨てにかかることしか、もはや宇宙世紀の政府にはできなくなっていた。
そして、強化人間によって加速したとみられるサイコフレームの量産は、ガンダムUCにおけるアナハイムと連邦政府の結託によって、新しい悪魔を誕生させた。コックピットに載せられていただけの、ただファンネルを飛ばしたりするだけだったはずの遠隔操縦素材を、機体のフレームそのものに張り巡らせた。そして、ファンネルという不可視の領域から攻撃してくる兵器をジャックしてしまうという、ニュータイプの力そのものを否定し、支配する兵器が完成した。
それが、ニュータイプを廃絶するためのシステム。NT-D (NewType-Destroyer)システムであり、それを正式に実装したRX-0、通称ユニコーンガンダムだった。その物語が、ガンダムUCだ。
そして、RX-0は三機生み出されていた。
そのうちの一機、フェネクスは、テストにおいて強化人間を搭乗させていた。
そしてそれは突如として、ニュータイプではなく実験者達を殺しつくし、やがて宇宙のどこかに消え去った。
その当時の搭乗者が、リタだった。
そして、ユニコーンガンダムがコロニーレーザーを受け止め、完全な覚醒に至り、時を操ってジェネレーターすら分解してしまう領域に突入した時、フェネクスはそれを感じ取ったのか、人類の生存圏に再び帰ってきた。
原作の言葉を借りれば、以下のように表現される。
ニュータイプの素養があるパイロットとの感応が進めば、サイコフレームは魂が集うフィールド── 我々には認識できない高位の次元と繋がり、時をも操る力を引き出す媒体となる。だがそれはこの世界の崩壊を招きかねない。
だからフェネクスは遣わされた。
魂が集う世界──あの世から。
この世に生じた特異点を消し去るために。
ユニコーンはシンギュラリティ・ワン、すなわち技術的特異点として描かれているが、これに関して私が純粋に驚いたのは、時を巻き戻すといった力の方ではない。
ニュータイプは意識といった個の意識を超越している可能性が高いということだった。
それはまるでコピーを繰り返す機械のようでもあり、事実ユニコーンはサイコフレームを通して人の意思を模倣していて、自己同一性という概念を覆す脅威と見ることすらできる。「シンギュラリティは近い」のレイ・カーツワイルや「ホモ・デウス」のユヴァル・ノア・ハラリの示す、人と機械が融け合う未来を徹底的に再現するかのようだ。
シンギュラリティは近い[エッセンス版] 人類が生命を超越するとき
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そもそも、「模倣と他者性」でマイケル・タウシグが示す民族の状況と歴史的な観点から見れば、この自己同一性に関する問題は既知の問題であり、避けようのない事実だったと認めるしかない(ちなみにこの本はガンダムNTを見て呆然としていた時に紀伊国屋書店本店で購入した本である)。
模倣と他者性: 感覚における特有の歴史 (叢書人類学の転回)
- 作者: マイケルタウシグ,Michael Taussig,井村俊義
- 出版社/メーカー: 水声社
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確かに、ニュータイプは、この宇宙世紀の世界の社会には、そして今の我々の世界の社会には早すぎる。
なぜならば、ニュータイプは個の意識ではなく集合意識として行動できるため、その集団で可能となる能力はすさまじいものになるからだ。
現実でもそれを規制する手段はまだないが、宇宙世紀においても一年戦争以降に各種事件を発生させることとなっており、そういった煽動者、アジテーターである人間を対処できるだけの基盤がない今は、ニュータイプはあまりに危険すぎる。
それをサイコフレームが破壊兵器として助長すれば、議論もないまま完全な意味での独裁社会が完成してしまう。それこそサイコパスのシビュラシステムをつくってその中に格納してしまったほうがマシな領域だ。
だからこそ、フェネクスは特異点を、その集合体であるものを消し去りに来たのだ。
だがすでにユニコーンガンダムは解体されたと謳われていた。だから、特異点を消し去るために出現したフェネクスそのものに、時間すら支配する力がある可能性を見出した。不死鳥狩りと呼ばれた任務は、不死鳥の腑(はらわた)を斬り開くために行われる任務へと変貌した。
そこに、ヨナはナラティブガンダム、νガンダムの試作機に乗って出現した。ルオ商会に入り込んだミシェルに、半ば操られるように。
だが、物語は誰もが意図していない流れへと入り込んでいく。
不死鳥狩りをしていたはずが、不死鳥へと覚醒していく。
今までテクノロジーの負の遺産であった強化人間と、NTーDシステムを通して、連鎖反応によってニュータイプ、神々へ生まれ変わる新たな世界が始まったのだ。
3.人間がテクノロジーで神々《ニュータイプ》へ生まれ変わる時
リタはフェネクスを通してニュータイプとして覚醒し、不死鳥そのものとして、負の遺産であるフェネクスのサイコフレームのなかに入り込んだ。彼女は肉体を失っていた。だが、サイコフレームが引き合うという性質ゆえか、再び自らを切り刻んだ人類の生存圏に戻る。終わらせなくてはならない特異点を探し出すために。これが初期状況だった。
そこに連鎖反応するように、ミシェルはヨナを連れて訪れる。時を操る力を手に入れるため、商会の全ての力を振り回して、戦場すらも生み出した。NT-Dシステムを搭載したナラティブガンダムと、セカンドネオジオングを流通させて、そこで膨大な争いを生み出してでも、彼女は必死に追いすがり、最後はサイコフレームを自分でばらまきにも向かってみせた。そして最後はサイコフレームによる結界を生み出し、果てた後も、リタのようにヨナを導き続けた。
このふたりと比較すれば、ヨナは最も凡庸な人物だった。
ミシェルのルオ商会にはいるための噓にも気づけず、リタを追いかけるだけの力もなかった。
パイロットとしての腕も中の上といったところで、強化されていないと評価される(そもそも強化人間のイメージが先行し過ぎているのかもしれないが)。
そんな彼はたくさんの挫折を味わう羽目になった。リタを切り刻ませてしまったこと。リタがどこにいったかもわからなくなってしまったこと。結局は捕獲任務を遂行できなかったこと。
彼は葛藤し続け、心に聞こえた声を聞き、そして今まで全てのことを悩み続けた。
だからこそ、彼は二人の女性がニュータイプとなって散っていく時、彼女達の言葉に怒ったのだ。
それが、今までテクノロジーの負の遺産であった強化人間と、NTーDシステムを通して、ニュータイプが連鎖反応によって生まれ変わる新たな世界が始まりだった。
<以下原作からの引用および記事執筆者による再解釈によるもの>
「なにもいいことなかったじゃないか。リタも、ミシェルも」
彼女達の結末は、悲惨としか言いようがない。
「ずっとこわい思いして、いたいの我慢して」
気づけば大人に脅されながら強化人間として実験され、やがて切り刻まれ続けた。
「なんでだよ。なんで、こんなに苦しまなくちゃいけないんだよ」
果てはこうして命を散らしていく。人間の基準で語れば、彼女達は苦しむためにしか生まれなかったようなものだ。
「生まれなきゃよかったんだっ」
生まれる時代も場所も、すべて間違えて、彼らはここにやってきた。
彼らは、間違った社会に生まれた。
テクノロジーは彼らを救うこともなく、社会は彼らを救わなかった。
コロニー落としから街を救った彼女達は、結局こうして社会に押しつぶされ、そして消え去った。
「苦しむだけの命なら、最初から、俺たちは、なんのために──」
彼の怒りは、世界への、そして自分への怒りだった。何度でも生まれ変わるリタをただ眺めていることしかできない自分。リタへと必死に手を伸ばして時には手を汚すことも厭わなかったミシェルにただ引っ張られるだけの自分。彼女達に、彼はなにひとつ手を差し出すこともできておらず──
「じゃ、あたしにくれる?」
リタが語ったそれは、三つに分かたれたペンダントのことだった。意味をなさないと自分が言って切り捨てたもの。それでも、リタはその価値を認めてくれた。そして気づけばそれは三人が繋がるための契りへと変貌していた。
そのペンダントはまるで、何度でも生まれ変わる、不死鳥のようでもある。
そしてあの廃墟の中で駆けるリタは語る。
「次に生まれ変わるとしたら、あたし、鳥になりたいな。ヨナは?」
その背中を見つめている時、ミシェルが語りかけてくる。
「行きなよ、伝えたいことがあるでしょ?」
ニュータイプになれなかった実験体であり、サイコフレームでしかないものからの声。これまでに存在し得なかった負の遺産であるテクノロジーは、この時ついに反転する意味を手にしていた。
時間を超越したニュータイプである二人は、ただ散るのではなく、サイコフレームを通して、彼を導く。
そして彼は、フェネクスに乗り込んで、今一度そのペンダントをつなぎ合わせて、宣言する。その言葉が、壊れたペンダントを差し出すことと同じと──ただ前に進むことでしかないと理解した上で。
「君が鳥になるなら──俺も、鳥になる」
それが、ニュータイプの誕生の瞬間だった。
不死鳥《フェネクス》は生命力そのものである青い炎──感応波《サイコウェーブ》を機体のフレームから解き放ちながら、再誕を果たした。
彼はどんなことになったとしても、歩む道は間違えなかった。
だからこそ、彼は葛藤の果てに、フェネクスを真に制御するニュータイプへと生まれ変わった。テクノロジーを連鎖することで、彼女達と繋がり、神々のひとりとなったのだ。
そして別れの時、リタはこう訊ねる。
「あたし、ヨナに会えてうれしかった。だから何度でも生まれ変わりたい。それがどんなものでも、出会うために。ヨナは?」
テクノロジーの連鎖で完成した神々たるニュータイプは、フェネクスとともにもう一度飛び立つ。無限の宇宙に向かって。
やるべきことはわからない。ただ、誤解なくわかりあうことを目指して、自分を通して、今が全部ではないと、何度でも生まれ変わり続けるしかないのだ。
いつか、もう一度出会うために。
人間の社会が、神々《ニュータイプ》を受け入れられるそのときまで。
<ここまで>
誤解なくわかり合うために、何度でも生まれ変わる。それは、この物語が示したように、困難な道だ。それこそ、誤解なくわかりあうための力、ニュータイプの力がこの宇宙世紀の人々すべてに届かなければ終わらないだろう。だから、遠いのだ。
しかし、今のこの世界も、核の抑止力以後、すでに銃で死ぬ人数よりも、糖尿病で死ぬ人数のほうが多い世界だと、ユバル・ノア・ハラリも語った。戦争は小さくなり続け、飢餓もますます減り、疫病は未然に対策されるこの世界は、かつて人が信じられなかったほどの世界だ。
それがもたらされたのはなぜか?
幾多のテクノロジーの集結であり、なによりも誤解なくわかりあうための懸命な努力があったからこそだろう。
だから、我々はいずれ現実で出現するニュータイプを武力にしなくてもいいかもしれない。それは、現実世界でリタやミシェル、そしてヨナのような悲しみを抱えさせないためにも必要だ。
彼らの悲しみをこの映画を通して観た私は涙を流すしかなかった。
だからこそ、彼らの苦痛をなくせる、なんとかできる道を探そう。ニュータイプをはじめとした多くを受け入れられる世界を、この現実からつくっていこう。
純粋にそう思えた作品だった。
おわりに
この考察は、ガンダムNTが広範囲にわたる歴史を描く作品であったことが影響して、かなり広範囲にわたったものになった。もしかしたら宇宙世紀におけるニュータイプ考察に近いものになってしまったかもしれない。
とはいえ、ニュータイプとは何なのかを考えられるきっかけの記事をこうして提供できることができたと前向きに捉えるしかない。
ニュータイプに関してはありとあらゆる記事があり、今回のこの記事はガンダムNTからみたニュータイプについての考察だった、と位置付けられるかもしれない。私は正しい定義より、その考察や解釈によって人の苦痛を取り除けるものにしたいと思いながらこの記事を書いているので、正しい定義についてお探しの方は他の記事やガンダムのファンブック等を参照して楽しんでいただければと思う。
ガンダムナラティブはまだ上映されているので、各自見てもらって、自分なりに考察していただければ楽しいことはまちがいない。それは考察記事を書く私が保証する。
私にとってこれほどまでに刺さる作品だったのは、ヨナの叫びがあまりにも胸に打たれることだったこともあるかもしれない。ニュータイプの彼の思いにドライブできてしまうほど、この神話の行き着く先は納得できる、素晴らしい作品だった。
この物語《ナラティブ》を観ることができて、本当によかった。
虐殺器官考察:虐殺(わたし)のことばを阻むことは、誰にもできないー虐殺器官の真の特性について―
この考察の目的
はじめに
「虐殺の言語」の動作の具体性は必要ない
「虐殺の言語」の特性
虐殺の言語はジョンに感染し、潜伏し、発症し、最悪の汚染をした
切迫した世界のために動く院内総務の狙いとアメリカ内部での対立
アレックスの死は自殺ではあったが別の理由があった?
クラヴィスこそが後継者となれた理由
「ことば」は意味をバイパスし、虐殺をもたらした
おまけ:考察者、倉部贋作の虐殺器官感想
ハーモニー考察:イデオローグより愛を込めて ―「男の子」から見えてくるミァハの物語―
この考察の目的
ハーモニーでの重要人物であるミァハ。この作品で明言されていなかった彼女の思考を、数々の行動と発言の中から抽出していくことで、ミァハがどんな人物だったのかを考え、この記事を読んだ人に、作品の良さを再認識するきっかけとしてもらう。
はじめに
ミァハのすべては、自殺した男の子がはじまり
ミァハが本を知ったのは「男の子」から以外考えづらい
「憎しみ」が「違和感」にしか発展しない社会
憎しみを表現できる男の子とはどんな存在か
ミァハの博学さは、「男の子」の自殺の合理化のため
ミァハもまた、「男の子」のように強くなれなかった
改:毎年無為に命を落としていく何百万の魂のために、魂のない世界をつくる
天才のただひとつの誤算:主流派の反対
天才の誤算ではない?:集団自殺者の中にキアンがいたこと
キアン=十二歳のミァハ
憶測からできた仮説から見えてくる、ミァハの「自殺の思考」の正体
トァンを見出した理由
トァン=「男の子」
ふたりに与えていた知識は、すべてはふたりの罪悪感を減らしてあげるため
トァンを導いて最後の場所に至らせたのは、報告のためだった?
トァンの最後の行動こそが、人類史上最後で、最大の、意識の弊害(わがまま)
おまけ1:Ghost of a smileは「男の子」の幽霊の歌だった?
おまけ2:映画版を見返しててビビった話ートァンがえうってやるところー
おまけ3:映画版を見返しててビビった話ーCGになっている人は生府の人だけー
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