ボンクラプログラマーの雑記帳

目を開けたまま夢を見るプログラマーの雑記です。

『正義』という幻想の終焉:劇場版PSYCHO-PASS SS case 1.罪と罰 考察

はじめに


 いよいよ始まった劇場版PSYCHO-PASSの映画シリーズ、Sinners of the System。

 

psycho-pass.com


 このPSYCHO-PASSシリーズが楽しみで仕方のなかった私は楽しみ過ぎて犯罪係数に関する考察記事をまとめてしまっていたという状況だった。

 

 

gckurabe.hatenablog.com

 

 また今回の脚本の人は、PSYCHO-PASS GENESISシリーズを書いた吉上亮さん。


 あの一家に一台ならぬ一部署ひとり絶対いてほしい「とっつぁん」ができあがるまでを強烈に描き、また血と硝煙と薬物まみれの百合百合赤ずきんちゃんを描いた人だ。大変誤解を招く紹介になってしまったがとても面白い作品なのでぜひ読んでほしい。というか読むと宜野座さんのいろいろな変化の起源を目にすることになり涙が止まらなくなる(個人の感想です)。

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 3 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 3 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 4 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 4 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

 ちなみにこのGENESISシリーズ作品を読んだ私は、ものすごく影響されて美術館に行くようになったり古めの本を読むようになったりした。通称エトワールの話がなければ国立西洋美術館など足を運ぶことはなかっただろうし、「異邦人」とか「カリギュラ」とかこの人が引用してなかったら絶対読んでなかったし、メレクタウスという概念が私に「失楽園」という本を読ませるきっかけになったりもした。難しいことのだいたいはPSYCHO-PASS、特にこの吉上亮さんの作品由来なわけだ。

 

 

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

 

 

 

カリギュラ・誤解 (新潮文庫)

カリギュラ・誤解 (新潮文庫)

 

 


 実際に今日映画を観に行ってみた。一時間きっかり。さながら相棒見てる感じで、しかも霜月監視官と宜野座執行官の成長を実感する楽しい映画だった。
 ということでふつうに観ていて大満足なわけだったのだが、今回取り上げられた題材もヘビーとかいう現実世界の時空になかった。完全にブラックホールだ。
 今回はこのブラックホールみたいな題材について、ネタバレオンパレードで考察を書いていく。なので映画を観に行っていない人は映画を見てから続きを読むことをオススメする。
 とはいえ、私自身はそのネタバレを見た上で作品を観に行ってしまうタイプなのだが。

 

 

 

 ではここからが本題だ。
 私はこのSFの物語を観ながらこう感じていた。


「彼らサンクチュアリのひとたちのやってることって、公安局がやっていることとどれくらい違うのだろうか?そして、霜月監視官や宜野座執行官の言う正義って本当に尊重されれば社会の存続や問題の解決をもたらしてくれるものなのだろうか?」


 これらの疑問は次のようにまとめられる。


「霜月監視官が最後に言った『正義の味方だから』という尊い言葉は、本当に信じていいのだろうか?」


 そしてこの物語から私が見た結論は、「正義などというまやかしの概念が歴史上初めて謳われた時点で、議論など不可能となったのではないか」というものだった。
 すなわち、この映画は 『正義』という幻想の終焉 の物語のではないか、と私は見て感じたのだった。

 

 

 

 PSYCHO-PASS版の「罪と罰」:シビュラ「核回収によるテロの未然防止の為ならば、潜在犯に事実を教えず危険作業させる権利を持つ」


 PSYCHO-PASSシリーズ作品の中でおそらく初めて文学の教養の豊かさを外に出した宜野座執行官。彼の口から出てきた「罪と罰」。

 

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

 これはタイトル名でもあるということで、あの著名な文学作品「罪と罰」の中心的なテーマをなぞっているようである。というのは「罪と罰」のWikipedia の記事を観た雑感となる。とはいえ面白そうだったのでこの記事を執筆中、Kindleで購入して読み始めた。まさか異邦人に続いてクラシカル文学作品を読むことになるとは……。


 もしもWikipediaの書いてある情報が正しく、かつ私の解釈が正しければ、今回のシビュラの主張はこんな調子になる。


 シビュラ「核回収によるテロの未然防止の為ならば、潜在犯に事実を教えず危険作業させる権利を持つ」


 これは相変わらず超人的、あるいは非人道的なシビュラらしい話だ。正義の議論を決して行わず、社会の損得勘定によって動くシビュラシステムからすれば、何一つ矛盾の発生しない話となる。


 文明が地獄の底に落ちているPSYCHO-PASSにおける地球において、核物質、そして特に核兵器はもっともコントロールができない代物だ。なぜならば、核兵器による抑止力を築き上げた現代社会の悉くが倒れて、抑止力が抑止力として働けない程度に文明がなくなっているためである。


 もとより全員が核兵器の恐ろしさを知っていて、自分が打ったら相手も打ってくる、という前提で成り立っていたものだったのが抑止力なので、こんな状態で核兵器やそれの材料となる核物質が転がっていたら砂上の楼閣のような状況となる。何度文明をつくっても、とあるゲームの中での核兵器大好きなガ◯ジーよろしくぼこぼこわけもわからず核が発射されることとなる。これではシビュラが文明の頂点に立てるわけがない。


 今回の物語は日本の国内、青森なので、核武装などは思考すればすぐ潜在犯認定だろうが、これが外国になると話は変わる。仮に前回の劇場版PSYCHO-PASSのシーアンのごとくシビュラシステムを輸出して文明を再構築するとしたら、新しくつくった文明で誰が核武装するかわかったものではない。それが核の廃棄物であったとしても、それを兵器として使用できる技術が盗まれる可能性がある。しかし単純なシャットアウトでどうにもならないのが情報社会だ。


 そこで必要になるのは、そもそも核という物理的なものを人間から遠ざける、ということだ。シビュラも先述のとおり核武装ガ◯ジーを生み出したくはない。そこで、核のある場所をきっちり嗅ぎ当てるということと、同時に核兵器や核廃棄物があった場合にはいかにして封印するか、ということがシビュラには必要になってくる。


 今回は後者、核の大元があった場合にはいかにして封印するか、ということについてサンクチュアリにおいて本格運用を行なわれていたわけだ。


 そして運用方法が、潜在犯に事実を教えず危険作業させる、というものだった。

 

「青い光」を見た者が朽ちゆく時

 事実を伝えないで作業させる方法は核廃棄とは異なるものの原子力に関連してすでに明確に前例が存在している。東海村JCO臨界事故である。

 

 

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

 

 

 今回のPSYCHO-PASSよりも無残な画像が出てくるため検索して閲覧する場合には注意していただきたい。


 概要を説明すれば、核分裂反応が起こりうる危険な作業中についに臨界事故が発生。核分裂反応を直に受けたある人物は、結果として死より悲惨な存命の闘いを行うこととなった。

 


 体の細胞を生み出すための設計図たる染色体。その悉くが中性子によって破壊されたことで、その人物の体の細胞の分裂活動は生きながらにして臨終を迎えた。白血球の製造も、皮膚の再生も、腸内細胞の製造元されることはなくなった。そうしてただ細胞活動が停止しただけで、重大な免疫力低下が発生した。


 たった10日ほどで、呼吸障害が引き起こされて呼吸器が挿管されて言葉を発することはできなくなり、言葉を発し、理解してもらうことで苦痛を取り除かれることは永遠になくなった。


 その人物の体の皮膚は失われ、その皮膚だったものから溢れる組織液が体すべてを満たし、永遠に続く出血状態となった。一ヶ月も経たないうちに、全身をガーゼで覆い尽くし、それを毎日のように張り替える作業が続けられた。放射線被曝したといえど、神経系は存命なままだ。何度も皮膚を剥がされ続ける痛みが続くため、全身麻酔のなかでの張替えが行われるが、寝ても覚めても体全体が燃え上がるような痛みを発していたことは想像に難くない。


 皮膚の問題が起きているのと同時に、腸からは永遠に人間が口から摂取できる水分量を凌駕する血液が流出した。痛みは皮膚だけでなく体内でも起き続ける。最終的には輸血によって、体内の血液が数日もすればまったく違う誰かの混合した血液に当然のように置き換わっていく状況が続いた。


 皮膚の移植も実行されたものの、その悉くが失敗。皮膚から止める方法もなければ、腸に至っては打つ手がなかった。


 心臓の負荷は、流出する血液を、それでも体が文句を言わないぶんを届けるべく永遠に続くマラソン状態という超高負荷状態となった。この状態では思考回路の整理も、寝ても覚めても行うことはできなかっただろう。そうしてついに二ヶ月過ぎて少し経過したころ、何度も心停止することとなった。


 そうして、現代の応急処置の発展によって三ヶ月近い存命をしたその人物は、多臓器不全により他界した。


 最後の姿は、たった三ヶ月満たない間に、赤く染まった即身仏と化していた。

 


 以上の放射線被爆者の記録が、今回の映画において潜在犯たちが外部被曝したさいの描写のベースとみられる。

 

アリの社会:青い光を凌駕するサンクチュアリの核物質、ロボットの代わりに使い捨てられる潜在犯、その管理者達


 ちなみに原子爆弾以外の外部被曝で即死するほどのケースの資料は、見つけられなかった。先ほどの東海村JCOの被曝事件では数名が臨界に入った際の「青い光を見た」ものの、即死者そのものは現れていないようである。そういう意味では、サンクチュアリで眠っていたあの核物質たちは、青い光を解き放ち続ける以上の被曝量を誇っていたこととなる。


 ここまで驚異的な被曝速度となれば、潜在犯たちが着ていたあの服ですら、何度も通えば被曝は避けられなかった可能性は高い。ここからは日本そのもの、官僚構造体であるシビュラとしても、この問題の影響度は非常に大きく早期解決をなんとしても実現したかったことが伺える。


 また、この核物質封印において、無人機導入をしなかった理由として考えられるのは、これだけ驚異的な被曝を食らうということは、半導体や絶縁体の構造を根本的に破壊、つまりすぐ稼働停止してもおかしくない状況となる。福島第1原発でロボットが帰ってこないとかいう話は時々取り上げられていたと思うが、おそらくこれが理由だろう。以下の記事はそれを示唆する内容が記載されている。


http://square.umin.ac.jp/J-RIDT/medical/engnrng8.htm


 なんだかんだで無線通信機によって話せていることから考えればすべて無人機で補うのはできなくはなかっただろうが、メンテナンスして取り替えが簡単であるに越したことはない。そこで換装するデバイスが防護服とそのセットの通信装置、そして人間だけで済むならばそれに越したことはない、などとシビュラは思いついたのだろう。
 そして換装可能で、すぐ補充が効く人間がいるとすれば。
 さらに現在は労働力として使用することもできなくなった人物を再利用しようとすれば。


 以上の理由から潜在犯を有効活用と言う名の使い捨てを敢行するのは、残念なことにシビュラの考え方的には自然な帰結だ。


 しかし隠し事が大好きでいろんなことをついでにやってしまいたいシビュラは、これらむごい真実を新たな文脈で覆い尽くすことで、最大多数の最大幸福を目指した。


 それが、経済省と厚生省の両方のプロジェクトである、色相浄化を謳い、集団洗脳によって無知のアリ集団を生み出し、回収するのは核物質ではなくレアメタルだとしたサンクチュアリの表立った姿だった。


 経済省はWikipedia曰く、『民間の経済活力の向上及び対外経済関係の円滑な発展を中心とする経済及び産業の発展並びに鉱物資源及びエネルギーの安定的かつ効率的な供給の確保を図ること」を任務とする』。


 ならば、経済省と厚生省がやっているというシナリオは非常によくできた隠れ蓑となる。色相回復やレアメタル採掘という目的があれば、一般人はそもそも中で何が起きていてもわかることはない。カウンセラーですらサンクチュアリが何をやっているかよくわからないのも仕方がない。なぜならば潜在犯すら、自分が何を運んでいるのか、自分の体を蝕むものが何なのか理解できないのだから。


 この官僚的な取り組みを完璧な形で細分化すれば、作業者が自分たちが何をしているかわからなくても物事が成立してしまう。それがアリの群体という言葉だったのだろう。責任分解が明快で、組織運営者からすれば理想郷そのものだ。


 ここで話を戻し、被曝を避けるために何分で交代だーと言っているのはシン・ゴジラを思い出して貰えると出てくると思う。


 しかしその何分以内で交代しろということすらサンクチュアリの管理者たちは実施していなかったか、あるいはこれが理由で厳密なスケジュール管理を敢行していたのか。どちらにせよ、被曝の速度は通常想定されるものの数段上であるため、潜在犯が放射線被曝をして再起不能になりかけるその前に、物語の終盤で出てきたあの魔女裁判のような調子で、助かる見込みのない人物を吊るし上げて殺させていた可能性は否定できない。


 そうしたアリ集団であったサンクチュアリという構造は、その一群である製薬会社の息子と、その育て親のカウンセラーを契機に、すべてが始まり、そして霜月監視官を筆頭に正義を遂行することで、このアリ集団は葬り去られた。


 霜月監視官の語る通り、シビュラの行いは罪深く、許されるものではない。
 東海村JCO臨界事故の現場を凌駕する過酷な環境下で人間を働かせる外道など、あってはならない。


 しかしこの許されるものではない、という基準は何を基にしているのだろうか?
 その起源を辿れば過去であり、つまり歴史であり、文明であり、正義という言葉に収束するだろう。


 この外道を否定する正義は、シビュラシステム統治が完成した時、いやそれ以前、正義という幻想が出てきたその時点から、まやかしでしかなかったのかもしれない。

 

 

『正義』という幻想の終焉


 正義への葛藤の物語がPSYCHO-PASSならば、この映画はその葛藤を極限まで描いているとも言える。
 なぜならば、社会至上主義的《ソーシャリズム》なシビュラシステムからすれば抑止力の概念なき世界においては核廃絶は絶対に完了しなければならないものだし、けれど人間至上主義《ヒューマニズム》な霜月監視官はじめとする公安局からすれば、核廃絶は必要であれど人の尊い命を使い捨てにするべきではないものである。


 どちらも重大な観点だ。
 シビュラからすれば、日本の文明が紀元前に戻ることは、なんとしても避けなければならないし、そのためにやることはいくらでもある。悠長に構えていたその瞬間に、だれがテロを起こしてすべてを終わらせるかわからないのだから。だからシビュラは、いかなる手段を用いたとしても、外道に堕ちたとしても、最大多数の最大幸福を目指し続ける。それが、守るべき市民を被曝させ、やがて殺すことになるとしても。


 いっぽうの霜月監視官たち公安局などの市民としては、なんとしても自分たちのあるべき姿、すなわち自由で、平等で、豊かな暮らしを実現するために実践を続ける。そこに誰かは犠牲にしていいという発想はほぼない。シビュラが決める決断に委ねるところはあるものの、潜在犯に厳しい霜月監視官すら、彼ら潜在犯を守るべき人間として迎えている。それが、霜月監視官の語る、正義というものなのだろう。


 今回霜月監視官は自分の事件として引き受け、無事解決に導いた。そして、シビュラに再考の機会を与えることとなった。


 しかし、これは本当の意味で解決したのだろうか?
 人間が核に怯えなければならないこと、それを解決しなければならないことには、解決できているわけではない。シビュラの言う通り、彼らシビュラ無くして、この文明は維持することは絶対にできないし、だからこそこの不祥事はもみ消されるだけでしかない。

 

 この正義を全うできるのは……つまり、本当の意味での核廃絶の解決と、シビュラの罪を問うことは、ずっと先の話でしかなく、もしかしたら、この正義を成すことはできないのかもしれない。


 ここで槙島聖護が引用していたパスカルの言葉が思い出される。


 正義は議論の種になるが、力は非常にはっきりしている。そのため人は正義に力を与えることができなかった。
 なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。  このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。

 

 


 今回のシビュラと霜月の衝突も、この言葉に帰結してしまう。


 私はこの映画で、ひどく正義というものが曖昧で、幻想でしかないものなのだと思い知らされることとなった。


 シビュラシステムが導入された時点で、旧時代の正義はすでに終了し、法的機能は失われている。いや、もとよりシビュラシステムの在り方は、正義というものがどれだけ無意味なものなのかを思い知らせただけでしかない。


 その具体的な事例として、今回の「罪と罰」は表出してきた。
 シビュラの言う「核回収によるテロの未然防止の為ならば、潜在犯に事実を教えず危険作業させる権利を持つ」と言う言葉は、今回は否定され、事件は解決した。


 しかしシビュラの騙る「罪と罰」は、これからも監視官たちの目の届かないところで続けられることとなる。その純粋な解決をするために事件に飛び出していくだけでは、限界が来るだろう。


 シビュラの社会における「罪と罰」の最後の結末のような救済は、おそらくずっと先になる。


 そのとき、霜月監視官にこの正義の心があるかどうか。
 そして宜野座監視官は猟犬で在り続けられるのか。
 私としては、そう在り続けてほしいと祈っている。

 

おわりに


 今回は見ていて楽しい映画だなあと思っていたわけだが、ここまでお話ししてきた通り題材が重い、ではなくブラックホールと同様になっている。つまりこの作品はこれまでのシビュラの在り方を再度、そしてえげつなく出してくる映画でもあった。


 それはそれとして、霜月監視官がかわいい&かわいい&しっかりしている監視官になっていて大変安心した。最近まで高校生で、王陵璃華子の事件で犯罪者と潜在犯を憎む人になって、PSYCHO-PASS2だとあまりいいところ出せていなかった。けれど、それを乗り越えてちゃんと自分の事件だよ!と自主的に言って、しかも解決してみせたのは単純にすごい。PSYCHO-PASS2と違い、シビュラにもちゃんと意見が言える子になっていたのも非常にポイントが高い。


 同時にぽにちかこと宜野座執行官は執行官伝統芸能である猟犬芸が板につき、性格と教養、そして身体能力がとっつぁんや狡噛に匹敵、あるいは凌駕しはじめているのを見て驚いた。まず飼い主霜月監視官をなだめ、信じるところからスタートし、不慣れそうではあるがちびっこに話しかけて安心させ、おまけにロボット兵器相手にほぼ素手で戦って勝つとか普通に頭おかしい。昔はかなりとっつぁんのことで自分を抑圧してきたのだろう。それがどんどん自由になって、むしろ側からみていれば守られてることが多かったガミガミメガネ時代よりずっと楽しそうだ。


 ……大量の感想を連ねてしまったが、とにかくこの作品、成長を感じられる大満足の作品だった。もう一度私は観に行こうと思っており、また購入した「罪と罰」も合わせて読んで行こうと思う。


 次回も劇場版PSYCHO-PASS、とても楽しみだ。