ボンクラプログラマーの雑記帳

目を開けたまま夢を見るプログラマーの雑記です。

ハーモニー考察:イデオローグより愛を込めて ―「男の子」から見えてくるミァハの物語―

 
 ハーモニー、それは「私」、トァンの物語。
 
 そして、その「私」という物語を見せられた僕が見出した物語を、今回はここに示そうと思う。
 
 それは、トァンのイデオローグ、ミァハの物語。
 自殺した男の子を思い、世界に復讐を果たした、ミァハの物語。

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

この考察の目的

 ハーモニーでの重要人物であるミァハ。この作品で明言されていなかった彼女の思考を、数々の行動と発言の中から抽出していくことで、ミァハがどんな人物だったのかを考え、この記事を読んだ人に、作品の良さを再認識するきっかけとしてもらう。

 

 

はじめに

 では序文を小説らしく書き、目的をレポートらしく書いたところで、今度はブログらしい書き言葉に変えて、ネタバレ全開で語っていこうと思います。なので作品を読み終わった、見終わった人向けの記事となります。とはいえこれを見てからハーモニーに触れるのもおもしろいかもしれませんので、その判断はお任せします。
 
1/23更新 虐殺器官も考察行いました。こちらからどぞー
 
 ハーモニーの小説はお持ちですか?映画の記憶はありますか?どちらもない方は書店か映画館に直行しましょう。もしくはBDポチって届いたらすぐ鑑賞しましょう。僕はこの記事を投稿するにあたって原作を読み直し、そして更に吉祥寺まで映画をまた見に行きましたが、やはりどちらもいいものでした……。1月某日までは吉祥寺で映画やってるようなのでぜひ関東マンな方は見に行っていただければ。
 
 では本題に入りましょう。
 
 
 
 
 

ミァハのすべては、自殺した男の子がはじまり

 小説、つまり原作においても、そして映画版ハーモニーにおいても、エピローグ直前に、ミァハが珍しく自分のことを語るシーンがあります。
 
 
『わたしが十二歳のとき、隣に住んでた男の子が死んだ。首を吊っていた。この世界を憎んで、この世界に居場所がないって言って、その子は死んでいった』
 
 
 この語り、初めて読んだ時の僕の印象は、唐突だな、というものでした。それは至極当然の理由で、語り手であるトァンは、ミァハに対して、なぜ集団自殺をしようと決心するに至ったのか、生命主義を否定しようとした、その「理由」を根掘り葉掘り訊ねたことがなかったためです。
 
 トァンにとって、ミァハは理想に過ぎなくて、そしてかつて自分が過食という道を歩んだ自分をついに連れてってくれるすごい人、という具合でした。ミァハに対しては強い疑念を持つことなく、とりあえず見てきた印象だけを模倣して、結局は僻地でタバコと酒のために働いていたぐらいですから。そりゃもうすごい能力ですよ。要するにただの学生から世界のエージェントへと変貌を遂げたくらいなんですから。ですが、トァンには、ミァハになりきるための、「理由」は必要なかった。そこに、「自分のことしか考えてない」トァンという存在の物語である部分が強調されて、鮮烈に浮かび上がっている印象が、今の僕にはあります。
 
 では、ミァハが生命主義を否定しようとした「理由」とはなんだったのか。そしてなぜ、今度はひるがえって真のハーモニーを目指したのか。相反する、あまりに極端すぎる選択をなぜミァハは行えたのか。
 
 
 それは、「男の子」の存在で、すべてが解決されます。
 
 
 この直感は僕の中で急に訪れたものです。つい何日か前、ハーモニーに関する面白いつぶやきをする方のツイートを見ていたのですが、ミァハって自分じゃ結局自殺できてなかったよな、というのを思い出し、そこから、以前から引っかかっていた「男の子」の文の唐突さを思い出したのがはじまりです。
 
 その部分を考えていくうちにミァハの奇妙な部分に気づいていき、そうして最終的に、このめっちゃんこ長い考察文が完成しました。
 
 僕はたいてい、ものをかきながら(絵やデッサン、小説、レポート、おついったーどれでも)、手を動かしながら、そのディティールの深さに気づいていくタイプなので芋づる式にこんなものができてしまうのです。長いと思うのでうまいこと読み分けるなり、暇な時間をつかってしっぽり読むなりするのがおすすめです。
 
 
 この考察を書くにあたって、さすがに直感だけじゃマズイでしょってことで前後関係を精査してたところ、原作においてすごく面白い一文を発見しました。それは、ミァハのおかあさんとお話した時のものです(映画版ではこのセリフはありませんでした、説明不足にならない程度にカットされてる感じです)。
 
『最初はよかったんです。けれど、中学に入ってからあの子は何かに取り憑かれたように、自分自身を傷つけはじめました』
 
 中学に入ってから……そして十二歳。つまり、「男の子」が自殺した段階で、彼女の自傷がスタートしたことが確認されています。
 
 ただの顔見知りが自殺した程度で、こんな感じになるのかどうかといったら、少し違うように感じますよね。だってこの世界ではセラピーとかその手の対策が異常に多いのですから、大したことがなければすぐに立ち直れると考えてもいい。自殺というものが比較的よくあることならば、誰かが死ぬたびに、みんながみんな自殺にひた走っちゃうんですから。なのでどちらかといえば、仲の良かった男の子が死んじゃって、絶望して、というのが自然な気はします。
 
 しかし、どうも果たしきれていない部分が、この辺りで確認されます。ミァハのおかあさん曰く(これも映画版ではありませんでした)、
 
『とりわけ手首と首は何回も傷つけたものです』
 
『過食で死のうとしたり、拒食で死のうとしたこともありました』
 
 しかも、結局は薬による拒食を選びましたが、死に切ることができませんでした。怖くなってしまって薬を止めて、大人たちに報告したキアンも、必死になって果たしきろうとしたトァンも、結局はミァハも、死ぬことはありませんでした。
 
 ここで疑問が出てきます。キアンもトァンも、ミァハに導かれて、死をもって、世界に攻撃を果そうとしていましたが、なぜミァハは、「男の子」と同じように、首を吊って自殺しちゃえとは考えなかったのか。なぜ一番バレやすそうな拒食という選択肢をとったのか。
 
 彼の道に続けば、より首吊りという共通の印象を併せ持つことで強力なメッセージになったはずです。それもすぐ実行すればよかった。ですが、彼女は結局ずるずると、高校生になっていきました。
 
 そこに、ミァハの、「男の子」への"執着"を、そしてミァハの先天的な特性を、僕は感じ始めました。
 
 
 
 
 
 

ミァハが本を知ったのは「男の子」から以外考えづらい

 僕がこうして作品を一連で見返していて、気になった部分がありました。
 
 それは、ミァハが本を知っていたところです。
 
 トァンは、本の存在を、ミァハに話しかけられるまで知ることはありませんでした。それはつまり、天才科学者である父ヌァザすらも、本を家では使うことがなかったことを意味しています。つまり、紙の本が驚くほど希少なものだったことがわかります。
 
 となれば、養女として、日本にやってきた意識を手にしたミァハは、見ることもろくにない、希少な本をどうやって知ったのでしょうか。
 
 そして、彼女は、なぜ本という媒体に固執し続けたのでしょうか。
 
 重たくてかさばるから持っている、孤独になりたいから持っている。
 
 トァンの目線としては非常に納得のいく話です。不快感を取り払うものを、社会と繋がり続けるものを、本はその質量によって、デッドメディアであるからによって、排斥することが可能な存在なのですから。
 
 しかし、ミァハクラスの読書家となれば、それはびっくりするほどお金のかかる話になるのは間違いありません。時代的に考えても、電子書籍で読んだほうが相当早いはずです。ですが、それをしない。
 
 そこに、唯一物語の中に存在する文でつなげることが可能なのが、「男の子」の存在なのです。
 
 「男の子」が、もし紙の本を持っていたのならば、そして自殺した「男の子」になびくほどに影響されていたのなら、そこで覚え、固執したと考えるのが妥当でしょう。でなければ、彼女は知るよしもないものだったのですから。
 
 では、そんなすごい「男の子」のディティールを、そしてこのハーモニーの社会のディティールを詰めていきましょう。
 
 
 
 
 
 

「憎しみ」が「違和感」にしか発展しない社会

  僕は、次のような文がすごく気になっています。先ほど引用した、「男の子」についての内容です。
 
『この世界を憎んで、この世界に居場所がないって言って、その子は死んでいった 』
 
 これ、ハーモニーを読みきった方ならば、映画を見た方ならば、すごく違和感を感じるものかもしれません。
 
 トァンはかつて、ミァハに会う前に、過食という方式によって、自殺をしてしまおうとしている描写がありました。しかし、彼女のそのきっかけは、セッションにありました。その時以降、トァンが感じていたのは、
 
『この世界にはわたしの居場所がない』
 
 「男の子」の文と、同じ文が引用されているように見えるかもしれませんが、実態はまるで違います。それは意味的にも、ということです。
 
 世界を憎んだのか、否か、という部分です。
 
 トァンは憎しみになるべきものを、違和感としか認識できていませんでした。その違和感を見出したのが、ミァハだった、つまり、社会への憎しみを認識するようになったのは、ミァハのおかげだったというわけです。
 
 
 トァンパパ、ヌァザはすごく久々に娘に会った時、こんなことを語っています(映画版ではありませんでした)。
 
『年々増加する若者の自殺――特に過食や拒食のような、自身の体の衰弱を見つめながら死んでいくようなやり方を試みた若者を集めてね』 
 
 ここで、なぜ過食や拒食の人間を集めたのか、それは、おそらくは自殺の方法のトップに近いものだったためだと考えられます。というのは、メジャーな死に方に対しての対策を取らなければ、大きな効果が期待できないからです。
 
 で、なぜ過食や拒食に走るのか、僕はとても気になりました。ミァハが主導したのもまた、拒食という手段でした。決して直線的、暴力的とは言えない、ゆるやかな死に方です。
 
 それは、ハーモニーという世界ゆえに、人間に憎悪が宿らないためではないか、と考えられました。
 
 自殺について僕なりに調査をしたのですが、拒食、過食による直接的な自殺に関しては、現在の自殺の中ではメジャーなものとは言いがたいです。自殺の動機にはなるけど、自殺方法ではない、ということです。こちらのサイトより。
 
平成23年版 自殺対策白書(HTML)
 
 これによれば、現代の自殺のメジャーは首に縄をくくる類で、次が飛び降りとか入水って感じです。つまり過食・拒食による自殺は現代社会ではほとんどないケースです。それはこのデータの中に過食・拒食による自殺という項目が出てきていないことからすぐにわかることです。あったとしても「その他」に吸い込まれちゃうくらいに非常に稀なケースです。
 
 ということで、ハーモニーの社会は、現代社会とは自殺というディティールが、そして自殺にも繋がりやすい社会の状況が、相当かけ離れていると考えるのが妥当でしょう。映画版でもトァンは過食で一回失敗した、というお話があります。しかし、現代における「その他」枠レベルでの稀有なことを二度もやることはありえないですし、トァンがミァハに過食のことを伝えた描写は確認されていませんから過食・拒食がメジャーになっていると考えていいでしょう。
 
 では、今の社会とハーモニーの社会の、何が違うのか。
 
 そこに、思いやりで人を締め付ける、という社会のあり方が出てくるように感じます。
 ここでは、思いやりの逆の力として、他者をはじめとする特定の何かを感情的に否定する力、わかりやすく言うと、憎しみを表現できるか否か、というのを重要視してみます。
 
 さきほどのトァンの違和感の話がありますが、普通だったら、思春期に社会に対して興味を持ち始めれば、ちょっと怒りっぽくなるのは、憎しみたらたらになるのは、否定的になるのは、今の世界ではよくあることです。だって僕らの世界のテレビじゃみんなぷりぷりしてますもんね。しかし、ハーモニーの世界では、何かを感情的に否定するという、憎しみに一切つながらない。それどころか違和感にしかならない。
 
 ということは、憎しみというものすら、何かを感情的に否定する力すら、生起しないものと見て間違いありません。
 
 となると、「男の子」の存在がことさら輝き始めるのです。
 
 彼は、旧世界の人たち同様に、憎しみを表現することができる、何かを感情的に否定できるからです。
 
 
 
 
 

憎しみを表現できる男の子とはどんな存在か

  「男の子」は、どんな人間だったのか。
 
 それをしっかり考えようとした時、最大の手がかりになるのは、その影響下にあったミァハの行動や発言のみとなっています。
 
 ですが、先ほどの項目とミァハの発言から、おおよそのイメージは掴めつつあります。
 
・紙の本をミァハに見せたことがある存在
・トァン同様の憎しみを表現できる存在
・首吊り自殺をした存在
 
 で、一番下の項目が、すごく重要な部分になります。
 
 先ほど示したように、この世界での自殺においては、過食・拒食がメインなわけです。にも関わらず、「男の子」が首吊り自殺を選んだことは、すごく重要なポイントになります。
 
 ここで考えられる仮説が、「男の子」は限りなく僕らの時代の人たち、現代社会人に近い存在だというものです。だって過食も拒食もしないのですから(後述でも首吊りが異常な理由がわかります)、変な話なんですよ。しかも現代では首吊りが最もポピュラーなため、そこには何かしらの意味も含まれていると考えるのが妥当でしょう。
 
 もし現代人に近いなら、憎しみを表現出来るのにも納得できます。憎しみをどうやって、生府の中にいながら獲得できたかは流石にわかりませんが、紙の本づくりに躍起になってるミァハにおこづかいをあげられて、孤児を引き取る程度にはお金持ちだった御冷家のおとなりに住んでいたとなれば、ある程度お金持ちの家の男の子で、外部に関する情報、あるいは昔の情報をみやすい存在だったと考えるのが妥当でしょう。これならば本を作る要因となっててもおかしくはないですね。
 
 しかし、「男の子」には怒った顔が、おそらくできなかったと考えていいと思います。
 
 それは、ミァハが怒った表情をしないところにあります。
 
 これはミァハの意識が、大脳でエミュレートされたものであるが故の欠陥である可能性がありますが、仮にそうであったとしても、自殺した「男の子」のことをずっと覚えていられるような女の子が、ほんの少しでもしぐさを真似しないのは奇妙なのです。自傷の原因となり、世界への憎しみを訊いたのに、その憎しみを模倣してるのに、一番近いしぐさを真似しないのはどうも変なのです。
 
 なので、憎しみの語り口はミァハのものに少し似ていると考えるのが妥当でしょう。
 
 ということで、「男の子」は、次のような存在だと考えられます。
 
・紙の本をミァハに見せたことがある存在
・ミァハの振る舞いに近い存在
・憎しみを表現できる存在
・首吊り自殺をした存在
・現代人に限りなく近い存在
・怒りの表情はできない存在
 
 ここで気になってくるのです。じゃあミァハはどうして天才になっていったのか、という部分です。ただこの「男の子」を模倣できただけでは、メディモルをいじれるようになるだとか、博学になれるとはとても考えられません。てかそうまでして無尽蔵に知識を貯めこんで何がしたいのか、という話です。彼にならってただ自殺するのであれば、知識なんて特に必要ないはずですし、ミァハ自身が勉強に精を出す理由にはならないからです。
 
 そこで考えられるのが、「男の子」の自殺を合理化するための、知識の吸収というものです。
 
 
 
 
 

ミァハの博学さは、「男の子」の自殺の合理化のため

 「男の子」が死んだ時、ミァハは、『どうしたらいいか、わからなかった』ようです。顔見知りの子が自殺したということなら、悲しい気持ちになるとかでしょう。しかし、彼女は、どうしたらいいかわからないというくらいに、動揺していたことがここでわかります。
 
 それは、悲しみとしては最大のものでしょう。涙の前に、ただただ立ち尽くすしかないような、そんな感覚を、エミュレートされた意識は不完全ながらも感じていたのでしょう。
 
 めちゃめちゃにされるなかで意識を手にして、日本に連れてこられて、少なくとも最後の最後に憎しみを表現してきた「男の子」が死んだことで、二度目の死が彼女に訪れた、だからこそ、動揺するほかなかった。それは急なものだったから、動揺するしかなかったのかもしれません。ですが、急なものだったかどうか、それは語られてはいません。
 
 残されたミァハは考えました。
 
『そのときは、わたしは単純に思ったの。この社会が、この生府社会が、この生命主義圏の仕組みがおかしいんだって』
 
 そうして、彼女は、この世界がいかにしておかしいのか、理由を追い求めはじめたのでしょう。それも、紙の本を駆使することで。そして、憎しみを表現した彼に近づくために、リストカット、拒食・過食をはじめとした自傷行為をはじめたのでしょう。そうして自殺へと駆り立てられていったのでしょう。
 
 「男の子」の自殺を無駄にしないために、「男の子」が憎み、「男の子」を奪った世界に復讐するために、公共の敵(パブリック・エネミー)となる。
 
 それこそが、この考察における、十二歳のとき――中学に入ってから、何かに取り憑かれたように、自分自身を傷つけはじめた理由であり、そして彼女の根本的な行動理念です。
 
 
 しかし疑問は残ったままです。それは、ミァハが首吊り自殺ではなく、拒食によって、復讐を成そうとした点です。
 
 
 
 
 

ミァハもまた、「男の子」のように強くなれなかった

  トァンは、ミァハのように強くなれなかったことを後悔していますが、ミァハもまた、そんなひとりだと考えられます。
 
 それは、首吊り自殺を選択しない部分にあります。
 
 集団で首を吊ればいいのにやらない、サリンまがいのものをばらまくこともできるのにやらない。
 
 それは、ミァハが臆病だったから、と考えてもいいのですが、僕はこう考えています。
 
 憎しみを表現できても、真の意味では憎しみの感情を持ち続けられない、何かを感情的に否定する力を継続できないため、というものです。
 
 ミァハは、大脳でエミュレートされた意識を持ち、そこで感情を把握している状態です。そしてかつてミァハは意識を必要としない存在でした。
 
 エミュレートとは、つまりは模倣に過ぎず、本来の機能すべてを獲得しているわけではありませんし、意識のエミュレートなど前例のあるものでもありません。そこに、答えがあったのでしょう。
 
 ヌァザは、娘のトァンにこう懺悔しています。
 
『模擬的な意識が絶望し、死を選ぼうとすることに、わたしは深い感動と、落胆を覚えた。自殺とは、自ら命を断つというのは、逡巡する意志を持った存在にしか為し得ぬ、高度に意識的な行為だという事実に――』
 
 自殺へと駆り立てられるミァハは、所詮はワンオフ品のまねごとの意識しか持ち合わせていません。なので、本当に自殺の可能な意識を保つことができていたのか、それは懐疑的です。ヌァザも脳の反応を見ていたのでしょうが、ミァハは結局、首吊りをせず、飛び降りもせずにいたのですから。そして、首吊りという一番印象の強い自殺方法を取らなかったのですから。
 
 故に、ミァハが根本的に、『高度に意識的な行為』である、自殺が不可能だった、と考えるのが、一番機械的な答えでしょう。
 
 それは、ミァハもまた、首を吊って死んだ「男の子」のように強くなれなかったともいえるわけです。
 
 だからこそ、同じ生府の自殺者同様の道を歩むのがやっとだったのでしょう。先天的に意識を必要とせず社会と調和できる特性によって、無自覚に社会に馴染んでいたからでしょう。
 
 でなければ、集団自殺を選択しないのです。3人だけの、すごく小さな社会の中で合意がなければ自殺へと足を踏み出せない、ミァハは意識を手にしても、先天的にそういった存在だったから、と考えるのが自然です。『一緒につるんでくれそうな人を探してたんじゃないかな』というキアンの意見は的を射ていますし、同時に『きっと、友だちじゃなくて同志を探してたんだよ』というトァンの意見も、これならば的を射た意見になります。
 
 かくして集団拒食を計画し、まわりにわかりづらくするために、メディモルをいじって拒食の道を選択するのが妥当な線となりました。このあたりはミァハの才能が伺えますね。すごい……
 
 ですが、そこでもまた懐疑的な部分があります。ここに、『高度に意識的な行為』が不可能だったという理由があるように感じます。
 
 全員が全員、拒食から助かっている部分です。キアンどころか、トァンも、ミァハも。
 
 これは三人にとっての事故だと考えてもいいかもしれませんが、先ほどと同様に、ミァハの無意識の行動が影響を及ぼしたと踏むのが順当でしょう。
 
 毒を飲ませて一発他界とか、そういうのだって簡単にできたはずなのに、選んだのは拒食だった。それは、助かる可能性を求めていたからなのでは?と僕は考えています。だって、まわりでいつも誰かが見つめるような世界では、すぐに助けが飛んで来るのは必然だったからです。それに、メジャーな自殺方法ならば対策は多く取られていたと踏むのが妥当ですし。
 
 そしてなによりも、自殺というものが、どれだけ無意味なのかを、ミァハは生得的に、動物的に、更には論理的にも理解しているからです。でなければ、終盤に、
 
『自殺なんて人間として最低の行為をしたって』
 
 というふうな発言は厳しいものです。彼女は無意識の人間だったからこそ、自殺という方法を、根本から否定することしかできない存在だったというわけです。
 
 そんな彼女は、ヌァザの実験を知ったことで、大きな転機を得たことになります。
 
 
 
 
 

改:毎年無為に命を落としていく何百万の魂のために、魂のない世界をつくる

 「男の子」の自殺、というすべてのはじまりは、結局はミァハにとって理不尽な暴力と大差がなかったのは間違いないでしょう。だからこそ、彼女はこれまで、自殺を合理化して、死ぬ道を探し続けてきた。でも生来的にミァハには自殺が不可能で、だからこそ助かってしまった。
 
 そんな彼女が、自殺の次に成せることとはなんなのか。それは、ハーモニーというトァンの物語からはとてもわかりづらいことではありましたが、こうして追ってみれば、最終的な結論は出ていました。
 
 自殺した「男の子」の死を無駄にしないために、毎年無為に命を落としていく何百万の魂のために、魂のない世界をつくること。
 
 そう考えれば、彼女もヌァザの研究を元に、ハーモニクスプログラムを書き上げきるという恐ろしいことを成し遂げてしまっても、全く不思議ではありません(映画版ではこのあたりは明言されていませんが、集団自殺のためのバックドアを持っていたというのはこれが理由です)。ただ彼女が賢かったから、その程度で済むほど、このハーモニクスプログラムは簡単に完成させられるものではなかったはずですから。何年にも及ぶ研究によって、ようやく完成させられたものだったのでしょう。
 
 ですが原作では、その心情は、彼女の中では上手く構築できていなかった、というよりは、トァンの読みが外れていたような具合が確認されています。終盤のやりとりが特にそれを助長させていますね。
 
『じゃあ、ミァハは戻りたかったんだ、あの意識のない風景に。自分の民族が本来そう在ったはずの風景に』
 
『そう、なのかもしれない。ううん、きっとそうなんだね』
 
 少し含みのある返答ですよね。たしかに戻りたかったけど、そんな程度の問題ではなかったんじゃないかと思います。映画版ではうん、とすぐに頷いていますが、それはそれで後述するのですが、すごく意味が強いです。
 
 ですが、天才である彼女にもたったひとつだけ、誤算がありました。
 
 
 
 
 

天才のただひとつの誤算:主流派の反対

 ミァハのただひとつの誤算は、ヌァザをはじめとする主流派が反対を表明したこと。
 
 きっと彼女にとっては、強い悲しみがこみ上げてきたことでしょう。これまでのすべてが、今死んでいき、そして取り残されるすべての人たち――かつての自分と同じ存在を、助けてあげることが出来ないということを。そのためにつくりあげたのに、結局は使われないということを。
 
 だからこそ、彼女はあえて集団自殺を導き、一者一殺を世界に要求しました。主流派を動かすために、彼女は大量殺戮者の道を歩み始めました。そうしてヌァザを拘束し、最悪は殺すことを心に誓い、ヴァシロフを仕向けました。ヌァザに憎悪を持っていたのは、まちがいないです。
 
 自殺を促せるのは、WatchMeを体内に入れた大人のみです。つまり、彼女には子供には手をかけることはできなかったことになるでしょう。
 
 ですが、本当にそうなのでしょうか。
 
 すべての人間を調和の世界へと導くならば、少なくとも子供にも、脳の恒常性を確認するWatchMeが実装されているのは確定的です。
 
 このため、子供にもその気になれば自殺を導いたり、一者一殺をしはじめるようにさせるのは容易だったはずです。
 
 ですが、それを明言することは、ありませんでした。
 
 子供が一斉自殺の犠牲者の中にいたかどうか、それは一切確認がされませんでした。そのあとで怖くなって子供たちが殺しあってしまう、は考えられますが、ミァハは子供に対しては実行していなかったのは確定でしょう。それは、WatchMeが子供の体内にもあるということはバラしたくなかったからなのか、それともかつての自分を重ね合わせているのか。
 
 いずれにせよ、彼女はついに、ここにきて、自殺ではなく、ほとんど直接的に、大人たちの社会への復讐を果たしたことになります。
 
 
 その時の心境は不明ですが、少なくとも実行できた以上は、自分を含めた大人たちへの復讐の念が多かれ少なかれ混じっていたのかもしれません。
 
 ですがそこに、更にミァハの誤算かと思われた部分がありました。
 
 キアンが犠牲となったことです。
 
 
 
 
 

天才の誤算ではない?:集団自殺者の中にキアンがいたこと

 どう考えても、たまたま集団自殺者の中にキアンが混じってしまう、だなんてことは普通有り得ませんし、もしそんなことがあってもターゲットを変えてもいいわけです。原作によれば『ランダムに選ばれた結果』と語ってはいますが、詭弁で逃れた可能性というのが濃厚な気がします。でなければ最後の最後でキアンに対して語りかけたりするものでしょうか。
 
 よって、彼女には明確な殺すべき理由があったと考えるのが妥当でしょう。
 
 その理由は、手がかりをトァンに指し示すことが一番結果論的な話で理に叶ってますが、あれほど少ない手がかりのなかで、トァンが音声ログに気づけるかどうか、というのはほとんど賭けに近かったはずです。そして、ヴァシロフという仲間をトァンに接触させてヒントを与えているとなれば、キアンを殺した理由は招待状的な意味合い以外にもあったと考えるべきでしょう。
 
 殺したさいの音声を残したという行動は、確かにトァンの答えである『自己正当化』も線としては考えられますし、先ほどの招待状的な意味合いも考えられますが、この考察において更に深く探るのならば、重箱の隅をつつくならば、かつての自殺を止められなかった自分、さらに「『高度に意識的な行為 』 である自殺の思考」そのものの否定、という線も考えられると感じています。
 
 音声ログによれば、『いまわたしにその勇気を見せてくれればそれでいい気がする』とまで語っているわけですが、実際に敢行されるのはキアンの自殺で、以前同様のミァハ自身も行った3人での自殺とは様相が大きく変質しています。これを昔の再現だ、というのは流石に無理があるわけですね。つまり、本当に殺すための言葉だった、ある種の勝利宣言だったわけです。
 
 ではキアンが一体何者だったのか、それを考えていくと、至極まっとうな結論が出ます。
 
 キアンは、自らをバランサーと語っていました。そうして、自殺しようとするミァハを止めようと必死になっていました。
 
 ミァハがそれに目ざとく気付いたとしたら。この辺りは憶測ですが、ミァハもまた、キアンをバランサーだと気づいていたとすれば、驚くべき結論が見えてきます。
 
 バランサーの破壊。社会そのものの1人で、心の根底では調和を目指し続けた存在の破壊。
 
 それは、かつて男の子の自殺を止めることができなかった、ミァハそのものだと考えられるのです。
 
 
 
 
 

キアン=十二歳のミァハ

 この説の構築のためには次のふたつの憶測が正しいものであるとして考えなければなりません。
 
・ミァハがキアンをバランサーとして捉えていた
・ミァハと男の子の関係が、ミァハとトァンの関係と一致していた、つまり男の子はミァハによく世界のおかしいところを語り聞かせるなどのことをしていた
 
 このあたりはこのハーモニーの中にある文やシーンからの確認が、僕には取れませんでした(´・ω・`)
 
 なので相当ゴリ押しな説ではあるのですが、そこから見える結論は、結果としてミァハがキアンを見出した理由も、ミァハがキアンを殺す理由としても原作や映画からすぐに読める内容よりは補強されたものになり得ると判断したため、ここに示したいと思います。
 
 ミァハがなぜキアンを見出したのか。トァンはミァハが『同志を探してた』とは言いますが、どちらかといえば「自分とそっくりな人間」を追い求めていたと言う方がこの考察においては近い気がします。
 
 というのも、ハーモニーのなかでは、ミァハがキアンを見出す理由が不明なままだからです。もしこの説を適応すると、次のような理由が考えられるようになります。
 
 
 
 キアンが12歳のときのミァハと同一だとミァハに判断され、キアンを見出し、集団自殺へと勧誘する。
 
 それは、共に死ぬことで、自らの男の子を止められなかった過去と共に逝こうとしたから。
 
 そして、集団自殺を外部的な力によって、再び止めて欲しいという、かつての自分にできなかったことを、かつての自分によく似たキアンに再びしてもらいたかったから。
 
 
 
 ミァハが集団自殺をするときにおいて、最大の障害となったのは、キアンの存在でした。ですが、なぜかミァハはキアンを加えたままに、集団自殺を敢行しました。
 
 それは、ミァハが身勝手な女の子だったから、といって片付けるのは容易ですが、そもそも小説まみれのミァハが、それくらいの人間の感情の動きを読み取れない、行動の中から人を分析できない、というのは奇妙な話なのです。彼女は、少数派のなかでのイデオローグでした。それはヴァシロフというおじさんすらも動かせるくらいに求心力があった存在ということを意味しています。もとより自分のことしか考えていないとトァンを分析できるのに(これは原作のみですが)、キアンだけは分析できないってのもまた変な話なのです。
 
 そして、彼女の意識は『高度に意識的な行為 』を行えているわけではありません。そのため、無意識的に外部への助けを要請し続けるような行動が散見されているありさまです。
 
 
 
 
 

憶測からできた仮説から見えてくる、ミァハの「自殺の思考」の正体

 この憶測によって成り立つ「キアン=十二歳のミァハ」 説を適用すると、見えてくるものがあります。それは、キアンに自殺させるときのミァハの思考です。
 
 あの時の音声ログ、どう見ても、かつてのハーモニー社会を憎悪した人の言葉になってますよね。ですが、それをすらすらと語れる、というのは、二重人格でもなければ相当きついわけで、更にはキアンを殺すという理由が薄すぎて(トァンへ手がかりをあげる程度)、罪悪感に囚われてしまうはずなのです。なのにエピローグ寸前の時、逡巡などに該当するブレはまるで見えない。
 
 ミァハは、過去の自分、つまり「『高度に意識的な行為 』 である自殺の思考」と「自殺を止められなかった自分 」を殺そうとした、そのためにキアンを殺したと考えるのが、いちばんそれらしい殺害の動機となるでしょう。
 
 どうしてこう考えるのかというと、自殺をしたいが安全策を無意識にかけ続けさせてしまうミァハが、かつての自分の言葉をかけながら生きているキアンを殺すことで、過去の自分を弔おうとしているように見えるからです。
 
 真のハーモニクスを望む、大人になったミァハにとって、過去の自分とは、意識と行動を正しく制御できない存在です。それは自殺と生存という脳内の競合(コンフリクト)によるものでした。ですが、自殺をしたかったのは事実で、今の自分もまた、自殺をすることは絶対にできない。そこで、キアンを用いて自殺をさせることで、自らの未完成の「自殺の思考」と、「自殺を止められなかった自分」を殺した。
 
 集団自殺をさせたのは、まさに世界への復讐のためでしたが、こう考えると、集団自殺はミァハにとって、より強い意味合いのものになります。
 
 「『高度に意識的な行為 』 である自殺の思考」 ――ミァハの中にいる不完全な「男の子」の亡霊と、「自殺を止められなかった自分」を、たくさんの人とともに生け贄に捧げることで弔い、「男の子」を奪った世界へと復讐を遂げる。
 
 ミァハもまた、トァンがミァハの亡霊に怯え続けたように、「男の子」の亡霊に怯え続けていたと考えられるのです。「男の子」のとった行動こそが、彼女を自殺へと駆り立て続けさせる最大の要因となったのですから。
 
 それ故に、過去の自分、というよりは、「男の子」の亡霊、つまりは「自分自身の自殺の衝動」を殺そうとしていた、だからこそ、「自殺を止められなかった自分」そのものであるキアンにその「男の子」から模倣できた思考を、つまりかつての自殺衝動に駆られていたかつての自分をぶつけさせ、仮想的に集団自殺を完遂したように"演出"することで、「男の子」の亡霊を、ミァハの意識から完全に殺して、自らもまた集団自殺を完遂できたように思考した、と捉えるのが妥当でしょう。
 
 つまるところはキアンは本当に巻き込まれただけで、キアンには何の罪もなかったのです。ただ、ミァハに見出されたばかりに、ミァハを救いたいと願ったばかりに、こんなことに巻き込まれてしまった。
 
 キアンが最後にポツリと言った、「ごめんね、ミァハ」という言葉の意味が相当重たいものに、僕は見えるのでした。キアンは、とても『強い』人だったんですね……。
 
 

 

トァンを見出した理由

 こうしてキアンを見出した理由を、そして殺した理由を憶測で語ってきたのですが、今度はミァハが、なぜトァンを見出したのかを考えていこうと思います。
 
 トァン本人はどうしてミァハが自分を見出したのかわからなかったと語ってはいましたが、
 
『結局いちばん気になるのは自分のこと。調和(ハーモニー)なんてどうでもいいんだ。だから本を読むなんてわたしの奇行も目に入らなかった』
 
 とミァハが指摘していたように、この『調和(ハーモニー)なんてどうでもいい 』という身勝手さが、見出した最大の理由なようです。『あなたはやっぱりわたしの見こんだとおりの女の子』だなんて言ってますし(このあたりは原作のみの描写です)。
 
 では、なぜミァハがそんな身勝手な子を見出してきたのか。
 
 それは、「男の子」に似た身勝手さだったからではないか、という風に考えることができます。
 
 

トァン=「男の子」

 この説を示すために、先ほどの男の子の特徴を見てみようと思います。
 
・紙の本をミァハに見せたことがある存在
・ミァハの振る舞いに近い存在
・憎しみを表現できる存在
・首吊り自殺をした存在
・現代人に限りなく近い存在
・怒りの表情はできない存在
 
 ここでミァハに見出される前のトァンに共通するのは、実はたったひとつだけです。
 
・現代人に限りなく近い存在
 
 ではトァンのどこに現代人に近い部分があったのかといえば、主にその身勝手さが由来しています。
 
 トァンは自覚的ではないですが(後々自覚的にはなっていくけど)、本当に他人をどうでもいいと考えている部分が多いです。それもミァハが本を読んでることを知らないというレベルにまで。現代人であったとしても無関心にもほどがあります。それがハーモニーの世界では、調和を重んじるように教育されているのですから、余計に際立つ特徴となるわけです。
 
 さらに現代人にそっくりだった理由はもうひとつあり、原作のみの描写ではありますが、「セッション」のさいに違和感を感じたという部分にあります。ハーモニーの世界であるならば、あの会話の流れで、カフェインは禁止すべきなんだ、と思考するのが基本ですが、トァンはそんなことはなく、父の言おうとした文脈に気づいて、そして父のことを深く思っている描写が見られます。僕ら現代人からすれば、トァンや父ヌァザの気持ちはすごくわかると思いますが、この世界では害あるものは避けるべき、という教育が徹底されているため、なおのこと気づくのが難しいはずなのです。ゆえにトァンは現代人に近しい存在だったと言えるわけです。
 
 なお映画版においては「セッション」があったことを匂わせるシーンが存在しています。あのコーヒーのシーンです。
 
 そして、比較対象である「男の子」が憎しみを表現できたことは間違いないです。じゃあ男の子が憎しみを表現するようになった、その原動力は一体何だったのか。
 
 それは、「男の子」自身の身勝手さ故ではないかと考えることができます。それは、ミァハに自殺の理由を伝え、自殺したのが最大の理由です。
 
 これ、調和を重んじるハーモニーの世界ではなかなか行わないことではないかと考えられます。このあたりは男の子が現代人に近いと言える理由にもなるのですが。
 
 この世界では危険な情報はフィルタリングされていると考えていいでしょう。どちらかといえば自殺がしたくなってしまったけど、止めたい、止めさせたいんだという理由でのセッションの方が考えやすいです。そして、セッションの外でそういう会話をするのはタブーと見なされ、そういうように教育され、更にはSAも下降しやすいはずです。
 
 にも関わらず、「男の子」は自殺の理由を伝え、死んでいった。それはつまり、社会の調和よりも、自分の意思を優先したということになり、つまりは我が強いとか、身勝手な行動と言って差し支えないのです。現代人の僕らになら、我が強い行動はいくらか見られるものではありますがね。
 
 彼がどのような生活をしていたのかは詳しくはわかりませんが、現代人相応に強い自我を持ち、自殺とその直前のことばによってミァハを呪って去っていったとなれば、トァンの身勝手さに匹敵するような身勝手さを持っていたことは間違いありません。
 
 故に、ミァハは、男の子に似た身勝手さをトァンに見出した、と言えるわけです。
 
 で、先ほどキアンのところで「自分と似た人を探していた」という話と、ミァハが「男の子」の幽霊に囚われていたのではないか、という話をしましたよね。
 
 つまり、ミァハは、かつて死んでいった「男の子」の身勝手さを、今は自分と同化しつつある「男の子」の身勝手さを、トァンの身勝手さの中に見出した、と言えるのです。
 
 早い話が、トァンが、ミァハの関心を持ち続けてた「男の子」とすごくそっくりだった。
 
 もっとチープで誤解を招く言い方をすれば、
 
 好きだった「男の子」にトァンがそっくりだった。
 
 関心を寄せていた相手にそっくりだったのならば、トァンに対してのみスキンシップが少し多かったのにもうなずけますね(映画版はもっとすごい)。それが「男の子」にされたことだったのか、それとも「男の子」にしたかったことなのか。この辺は妄想が捗りそうです。「男の子」……羨ましい……。
 
 よって、ミァハはバイセクシャルだった可能性が濃厚です。
 
 僕はこの可能性に気づいて腰を抜かしましたね。そうか……たしかにミァハがレズであることを明言したけりゃ「男の子」ではなく「女の子」にすれば良かったんですもんね。一文だけしかないんですし。僕はとことんトァンの思い込みに流されていたんだとようやく気付いたのでした。そしてバイセクシャルであろうとも、百合は成立する。そうして僕は百合の深みに驚嘆するしかないのでした。
 
 では、なぜミァハがトァンを集団自殺に誘おうとしたのか。といえば、もうここまで来るとわかりやすくなりますね。
 
 ミァハは男の子と似たトァンと共に死ぬことで、共に向こう側に行きたかったのが大きいのでしょう。男の子を思いながら続けてきたこれまで失敗してきたすべてを、集団自殺によって完結させたいと考えたのでしょう。とはいえ、キアンを加えていたことで失敗に終わることは確定的でしたが……。
 
 
 
 

ふたりに与えていた知識は、すべてはふたりの罪悪感を減らしてあげるため

 ではなぜミァハがトァンやキアンに知識を延々と与え続けていたのか。
 
 それは、罪の認識を軽減させてあげたかったから、と考えられます。
 
 男の子と同じように自殺をしきれるようにしてあげたい、できれば男の子よりももっと罪悪感のないようにしてあげようとしたのではないかと感じています。自分が踏み切れるように蓄えた知識を提供することには、その点大きな意味があったと言えます。
 
 しかし、それに効果があったのかどうかと考えると、ほとんどなかったと言っていいでしょう。キアンはふたりの自殺を止めるためにがんばっていたんですし、トァンにはもうミァハさえいればどうにかなるんだ、と強く感じていたように見られるからです。なにせ、トァンは理由を要請するような子でもなかったのですから。
 
 

トァンを導いて最後の場所に至らせたのは、報告のためだった?

 こうして物語を追ってきましたが、なぜミァハがトァンを導いてきたのか、それは疑問としては強く残るものでした。ですが、この考察をここまで見てきた方ならば、もうすでに答えがわかっていると思います。
 
 「男の子」そっくりだったあなたを救うことができた。
 
 ただそれだけを報告するために、トァンを導いてきたと考えるのが、一番でしょう。
 
 実際のところ、トァンもまた、世界のことなんかどーでもいい、ということを認めている始末で、ただ復讐のためだけに、真実を知るためだけに、最後チェチェンへと向かっている有様です。
 
 ある意味で相思相愛の関係だったとも言えるわけです。片方は来て欲しくて仕方なくて、片方は真実を知るためだけに、自分の友だちと父を殺した根源に向き合いたくて。
 
 そうしてふたりはついに再開するのですが、そこで行われたやりとりこそが、ハーモニーの最大のポイントとなっています。
 
 

トァンの最後の行動こそが、人類史上最後で、最大の、意識の弊害(わがまま)

 トァンとミァハは、最後の最後で邂逅します。しかし、そのときのやりとりは、すごく面白い状況になっているといえます。
 
 はじめに、すでに引用している、トァンが訊ねた、『意識のない風景』にもどりたかったのかという質問に対する、ミァハの反応。
 
『そう、なのかもしれない。ううん、きっとそうなんだね』
 
 ここまでの考察におけるハーモニクスを目指した真の理由が「自殺した男の子の死を無駄にしないために、毎年無為に命を落としていく何百万の魂のために、魂のない世界をつくること」なのですから、ミァハの本質とは少し違います。しかし、結果的にはトァンの言ったとおり、『意識のない風景』をつくるのが最善のことなんだだと判断して実行したのですから、『きっとそうなんだね』というのは自然です。映画版においては『うん』とすぐに頷いていますが、あながち間違いでもないことを、映画版のミァハが見出したと考えればそれほど違和感はありません。
 
 つぎに、キアンを殺したことに関する『自己正当化』の会話のときの、ミァハの反応(原作のみ)。
 
『そう……、なのかな』『そうなのかな』
 
 ミァハのセリフは、確かに自分が正当化していたことに疑問視しているに見えますが、ここまで考察を読んできた方ならば、そうではないな、と感じているかもしれません。
 
 この考察においては、キアンを殺した理由は(憶測も含めた内容でしたが)『過去の自分を葬るため』なのですから、正当化も何もないのです。完全に受け入れた状態で臨んでいるのですから、新しい解釈を聞かせられればそれはたしかに聞き返したくもなります。
 
 そして、トァンがミァハを撃つときのシーン。
 
 原作では、「あなたの望んだ世界は、実現してあげる。だけどそれをあなたには、与えない」
 
 映画版では、「私の好きだったミァハのままでいて!」「愛してる……ミァハ……」
 
 これ、実はこの考察においてどちらも筋の通った答えになっています。
 
 というのは、トァンは「身勝手」な存在であるというのが、この作品においてもっとも重要だったからです。それはこの身勝手さが、「男の子」と同じものであり、そして意識の最大の弊害であるのですから。トァンはここで身勝手なセリフを吐いてしまうのが、最高なわけです。
 
 
 なぜならば、トァンにとってのミァハと、いや、ハーモニーを読んだ人にとっての、映画を見た人にとってのミァハと、この考察が見出したミァハは、大きく違っていたのですから。
 
 
 映画版においては原作に比べスキンシップが多かったのもありましたから、こういうふうにしゃべるのも必然なのです。別にあれは脈絡のない話では全然ありません。そして原作の場合においても、ミァハがどんな人間で、どんなことを望んでいたのか。それはこの考察の如く明言されていたわけではなく、さきほどのようにトァンの思い込みが強く出ている部分が散見されています。
 
 ぼくら聞き手はトァンの思考にバイアスをかけられて、トァンの最後の言葉に同意してしまう。そういう、ある種の皮肉めいたギミックを、僕は感じてしまうのでした。
 
 この考察の領域にまでトァンがミァハを知ることができていたら、たぶん結末は大きく変わっていたと考えられます。憎しみというのはわからないからこそ募るのであって、ここまで見えてしまうと、つまりは模倣できてしまうと、納得してしまって怒りが増長することもできなくなってしまうので、ぽかぽか殴っておしまいになってしまいます。
 
 それは久々にヌァザに会った時のトァンの反応から十分に考えられることです。自殺しかけた娘を置いて、同じように自殺しかけた少女を連れて行くような『ろくでなし』の話を、前々の人の話を聞いていくことで納得しているからでもあります。トァンは身勝手ではありますが、理由さえあれば止まることのできるのです。
 
 しかし、ミァハがろくでなしのパパと違ったのは、彼女がどんなことを考え続けていたのか、本人が説明しようとしなかった部分にあります。それも、こんな膨大な考察を書かないと見えてこないような理由を示そうと一切していなかったのです。それがせいぜい、「男の子」の話がやっとだったのです。
 
 つまり、ミァハはそもそも、トァンに自分のことをわかってもらう気はなかったのです。
 
 原作での撃たれたシーン、どこか穏やかですよね。どうしてわかってくれないの、といったような、そんな具合が一切見えません。そして映画版においても、トァンが銃口を突きつけてきているのをわかっていながらも微笑み続けていましたよね。それもすごく優しそうに。
 
 ミァハは、トァンのわがままで、かつて「男の子」の持っていたわがままによって死ぬのなら、それでもいいと思っていたからこそ、そうして穏やかでいることができたのではないでしょうか。
 
 結局のところ、大人になれていなかったのは、わがままだったのは、ミァハを理解していなかったのは、トァンと、そしてトァンという語り手によって紡がれた物語の聞き手であるぼくらだったのです……
 
 
 
 
 

おまけ1:Ghost of a smileは「男の子」の幽霊の歌だった?

 この考察を進めている最中に気づいたことです。
 
 この作品の主題歌となっているEGOISTの曲「Ghost of a smile」ですが、なぜか歌詞の一人称「僕」ですよね。
 
 え、つまりこれって、ミァハが自分の行動を模倣しちゃってすごく困ってる、幽霊になっちゃった「男の子」の話じゃないの?と感じるようになりました。するとびっくりなことにすんなりマッチする部分が多いのです。いや、考え過ぎなのかな……。気づいた時、僕はその気味の悪い一致具合に呆然としてました。ぜひ歌詞を書いたryoさんに直接訊ねてみたいですね。
 
 そして映画版において流されたものは、「あのさ 僕は」~「いつか幸せになれると願おう」までカットされてるんですよ。これ、ミァハ宛だったらわかりますよね。ですが、こう考えることができるんです。
 
 この物語は、トァンの物語。つまり、ミァハの物語ではなく、すべてがトァンから生起されるもので語られている。
 
 つまり、トァンに、ミァハを通じて乗り移ってきた「男の子」の言葉だったんじゃないか、と考えられるのです。
 
 わかりやすくいえば、トァンに「男の子」が乗り移っちゃったと言えるんですよ。で、男の子がトァンに対して語りかけてきてくれている。ミァハに伝えていた言葉を多少いじったものを。
 
 そして、この考察において、キアンの集団自殺によって「ミァハの中にいる不完全な「男の子」の亡霊と、「自殺を止められなかった自分」を、たくさんの人とともに生け贄に捧げることで弔い、「男の子」を奪った世界へと復讐を遂げ」たと僕は語りましたが、弔った先で「男の子」がミァハから離れて、トァンに乗り移ってしまったのではないか、と考えられるのです。
 
 だからこそ、「Ghost of a smile」でカットされた部分があった。おまけ2に続きます。
 
 
 

おまけ2:映画版を見返しててビビった話ートァンがえうってやるところー

 この考察を書くにあたって再び映画を見に行ったのですが、トァンがキアンの行動を模倣しちゃうシーンがありますよね。ナイフのやつ。
 
 あれをこの考察から推測してみてみると、あのとき語っていたのはミァハというよりは、「ミァハの模倣した男の子」で、男の子そっくりだったトァンに語りかけてきていたように、というよりは自分自身の内なる声だとトァンが誤認した、と考えられます。
 
 つまり、トァンはあの時、ミァハを通して「男の子」の身勝手さをごくごく自然に模倣していたと言えるわけです。
 
 もっとチープな言い方をしていいならば、おまけ1で書かれたように、「男の子」の幽霊がトァンに完全に取り付いちゃった、と言えるわけです。
 
 トァンはキアンと違って自殺を促されていたわけじゃないんですし、如何に「男の子」とそっくりな存在だったのかを証明するものとしてはものすごい説得力があります。音声なしのときは比較的涼しい顔で見ていたトァンでしたが、あのときだけ、感じが大きく違いましたよね。
 
 実際のところ、集団自殺の中で唯一自殺を敢行できたのはトァンのみであったりする点を考えると、そして、その後最後の最後の結末のトァンの行動を見てみると、トァンは男の子の身勝手さに囚われ過ぎていたとも言えるわけです。
 
 あのときのシーンは本当に必要とされていたシーンだったんだなと、深読み考察者である僕はビビるしかないのでした。
 
 
 

おまけ3:映画版を見返しててビビった話ーCGになっている人は生府の人だけー

 僕、この作品でキャラでのCGがやけに多用されているところが目に付きました。実際のところ、楽園追放を見たあとだと不自然だな……とか思っちゃう、作品の聞き手としてはダメなことをしちゃってたんです。あ、これが楽園追放です。
 
 なにぶん、のぺっとしてるし、人間味がないし、動きがどこか機械的だし。人間的な動きがすごくそれらしかった楽園追放とは感じが違うぞ、と思っていたんです。
 
 ですが、これ狙っていたのかどうかは不明なんですが、CGによって動いていたのは、生府の人だけでした。
 
 バクダットの生府の外に出た時、色んな人が動いていましたよね。ですが、あれ全部手描きのものなんですよ。どのシーンを見ても、CGキャラがいない。
 
 ああいう人がすごい多いシーンこそ、CGを使うのにはコスト面的にもメリットがあるのですが、それをしなかったことには、ある種のこだわりを感じたのでした。
 
 実際のところ、生府のCGキャラは生府のキャラの手描きの場合以上にマネキンの感じが強調されてて、すごくのぺっとしてるし、人間味がないし、動きがどこか機械的でした。意図があったのかはわかりませんでしたが、こうして着目してみると逆に良さになっていて、これまたビビったのでした。
 
 
 

おまけ4:考察者、倉部贋作の<harmony/>感想

 僕はこの作品が好きというか、なんだか言葉でうまく言い表せない感じですね。とにかく圧倒される作品のひとつ、という感じで、一生書架に残す作品、と言えばいいんだろうか。
 
 この作品の扱った内容はどれもこれも強烈なものでありまして、本好きというか、いろんなことに感心を持つということに火がついたのも、虐殺器官とこのハーモニーあってこそでしたから、人生を変えた本、と言っても過言じゃないです。
 
 実際ハーモニーがなかったら僕のやってた二次創作小説(ギルクラ改変小説です、URLはリンクのpixiv、ハーメルンというボタンからいけます)も絶対に書けなかったというくらいに、書かれていることが先鋭的だった作品です。
 
 僕的に好きなのは、調和のためには最終的には意識が消失するという話そのものの部分にありまして、この時に想像力を刺激され、ものすごく考えさせられたのはいい思い出です。
 
 ロジカルすぎて辛い、けどなら僕はどういうふうに調和を考えるんだ?と言った具合に、自分なりのハーモニクスとは何なのかをすごく考えさせてくれた、そんなきっかけになった作品です。その答えをいちおう二次創作で示すこともできたので、本当にこの作品に会えてよかったな、と感じています。
 
 映画版も常に緊張感を感じる作品で、色んな考察ができて、とにかく圧倒された、という感じで大好きな映画です。百合百合してるのが映像で見れたのもよかったですねえ。恋愛モノは全般的にろくに見ないのでこういうのは主眼でなくてもシーンがあるだけで心が浄化されます。
 
 個人的にまだ書いてなくてびっくりしたのは、あの血管のようなものが張り巡らされたピンクのビル群。
 
 嗚呼……この世界の人たちは調和することによってヘモグロビンをはじめとした血となっていくんだな、とふと感じさせられてビビりました。結構僕がまだまだ見いだせていない情報がありそうなので、またぜひ観たい……と考えるのでした。BDポチるのも悪くないかも……。
 
 そして、こうして考察を構築してみると、このハーモニーという作品はすごいものだったんだな、と更に強く感じさせられました。まさかこれほどまで直感が本文に追随してくれるとは思いませんでした……。そしてこんな文字量になるなんて思ってなかった……。
 
 この考察はあくまで解釈のひとつに過ぎませんし、長すぎ、深読みしまくり、ところどころ憶測込みの考察かもしれません。
 
 ですが、誰かの中で、「ミァハとはどんな子だったのか」、「ハーモニーで語られなかった数々のものが何だったのか」というものを探る、ひとつの手がかりとなってくれるといいな、と思います。
 
 では今回はここまで。ここまで2万3千文字。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。