ボンクラプログラマーの雑記帳

目を開けたまま夢を見るプログラマーの雑記です。

虐殺器官再考察:ジョン・ポールのことばを阻むことは、(権威主義へ回帰させてしまう力があるからいまは)だれにもできない?

はじめに

 ギルクラを描きなおすための高専イヤイヤ期を越え、ギルクラを二回書きなおし、それからというものの作家もどきをしつつ、食っていくためにプログラマー兼デザイナーもどき兼システムエンジニア6年目、倉部改作です。最近はオリジナルSF、対暗号通貨犯罪諜報回顧録scriptの執筆から解き放たれ、幸せな日々を過ごしております。イヤイヤだった食っていくためのIT技術はいまや私にとっては休息のひとつだからです。

ギルクラ改変一回目 LORD_OF_PERFECTION: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=4721803

ギルクラ改変二回目(一回目の完全上位互換) Guilty Crown Bonding the Voids: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12196921

オリジナルSF 対暗号通貨犯罪諜報回顧録 script: https://kakuyomu.jp/works/16816452220093672224

 こうして何度も執筆したりそれに応じて本を読み漁っていると、多少(とはいえないな、かなり)世界のみかたが変わってくるものでして、虐殺器官に関しても以前考察した内容よりもそこそこ違う視点で記述ができそうな気がしてきました。

 ここから完全ネタバレでいきます。

 以前、学生時代の私はこんな感じで考察記事を書いていました。

虐殺器官考察:虐殺(わたし)のことばを阻むことは、誰にもできないー虐殺器官の真の特性について―: https://gckurabe.hatenablog.com/entry/2016/01/22/215421

 この記事の時点では「虐殺の言語」の動作の具体性は必要ない、と言っていたのですが、まあ確かに作品の中ではなくてもまとまっているものの、それがなんなのかは今の私なら推測はできるだろう、という感覚で書きはじめました。
 そうして書き起こした結果、私は勘違いに気付きました。それはつまり、虐殺のオルガンの演奏者そのものも、虐殺の言語に染め上げられていたということの全く逆で、虐殺の言語に至るほうこそが人間という動物にとって自然なことだということです。
 それが、ジョン・ポールの言葉を阻むことは、(権威主義へ簡単に回帰させてしまう力があるからいまは)誰にもできない?というタイトルの考察となります。

現実世界におけるわかりやすい権威主義

 私がここで扱う権威主義というのをWikipediaの言葉を借りれば、自発的に同意・服従を促すような能力や関係となる権威を社会組織の原則とすることを指します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%A8%81

 わかりやすい権威主義の事例は昔でいえば君主制などです。現代においては武力によって特定の地域の支配が完了した時に生まれる独裁者とそれに従う状況です。
 人類は比較的長い年月、人民には選挙権や基本的人権の保障はされていない状態で暮らしてきており、たびたび隣国と殺し合う状況に突入し、つまりは戦争に駆り出されたり、そうでなければその地域の支配者から高い税を払わされたりといういまの日本にいる私からすれば理不尽が起きていました。それら君主制に対抗するために、フランスでは革命が起きて人権宣言を掲げたわけです。結局ナポレオンが現れて独裁制に逆戻りしたりナポレオンが倒れたり王政が復活したりと二転三転してしまったわけですが。
 それなら基本的人権の保障とか選挙権とかがあったら解決かといえばなかなかそういうわけにもいかず、それら選挙権などがあった状態でも権威主義というのは出現するのが現状です。かつてあったものであれば戦中の日本、ナチス・ドイツソ連。いまあるものでいけば現在の中国やロシアなどです。やはり強すぎる武力を筆頭にする権力には人権も選挙も吹っ飛んだり無意味になってしまうので、それらに従うしかないわけです。

現実世界における民主主義

 それでは私がここで扱う民主主義というのを日本の戦後1948年頃文部省がGHQ監視下においてつくりあげた教科書と、オバマの大統領回顧録から得た、たいへんアメリカに影響されたイメージから語れば、人民が主権を持ち、自らその権利を扱うことを社会組織の原則とすることを指します。その表れが基本的人権の保障だったり、産業を支えるべく働く自分達の代わりに仕える代表者を定め、彼らを一旦の権力者とする選挙だったりにつながるというわけです。
 感情に訴えるように書くと、基本的人権の保障とそれによる人民の繁栄、つまりは人間の、自分と他者の終わることなき尊重と理解、そうしてつくられる相互利益に基づいた進歩や発展、そのための試行錯誤こそが民主主義です。

 もっと極端にわかりやすくすれば、すべての人が自分も含めたすべての人に少しでも優しくなっていくことこそが、民主主義の中枢です。

 なので民主主義は一応はいま法として書かれている基本的人権の保障をはじめとした基礎こそ存在こそしていますが、まだまだ試行錯誤の余地があるんじゃない?だからそれに気づくためにみんなで話を聞き合ったり話し合ったりして、いまある世界からよりよい方向に進歩していこうね、という発想をします。
 これらに付随するのが言論の自由であり、そのおかげでTwitterが国家や権力者やお金持ちへの悪口会場になっていてもロシアや中国ほど勢いよく逮捕されることもない、というわけです。これは国家が絶対ではなく、あくまで人民それぞれが主権をもち、意見を公平に述べられるという背景に基づくのです。おかげでアメリカや日本は本当にいろいろな観点から叩かれたりするわけですが、その意見を述べたり考えている人たち自身が、その意図の有無によらず、意見を聞いたり出したりしながら国や社会を形作り、なんとかマシな方向にしようとしてきてくれました。だからソ連のように崩壊することもなければウクライナに侵攻することもない、今はまだ。というわけです。

 この民主主義の中高生向けに書かれた教科書(いまは文庫本の形をしてる)は私が学生時代に読んできた教科書とは大幅に異なるもので、とても深い洞察に基づいて書かれた思弁《speculation》であり、私はここから進歩を、遥か遠い理想を感じ取り、SF:スペキュレイティブ・フィクションじゃん……と感じたものですから大変面白かったです。これいままでできてないこともたくさんあるよな、だから自分たちの手でもうすこしいい方向に実現できたら本当に面白そうだな、と思わせてくれるからです。

 この教科書の前にオバマおじさんの大統領回顧録約束の地を読んでいて、大統領としての物語としてめちゃくちゃ面白かったです。かつての選挙戦における敵味方の可能な限りすべてと協力して、世界金融危機の連鎖倒産の破滅を救い、医療アクセスがほとんど金権となってしまったアメリカで日本の医療のような国民皆保険制度に近づくためのオバマ・ケアをつくりあげ、パキスタンに潜伏してテロを指示し続けた9.11の首謀者ビンラディンを倒したおそらくワシントンのなかにいて人類史上特異な功績をあげたアメリカ大統領の話だ、と言ったら虐殺器官を読む人の中でも少々興味のわくひともおるかもしれません。

民主主義の世界から生まれる権威主義

 とここまで比較的わかりやすい権威主義と民主主義の話だったのですが、現代の民主国家と呼ばれる国においてもどうしても権威主義的思想は発生しがちです。たとえば結局は選挙などを骨抜きにできてしまえばいんだと考える連中は多少おり、実際にトリニダード・トバゴ共和国での特定政党の選挙での勝利、イギリスのEU離脱を決定した国民選挙、アメリカでは大統領選挙で自称不動産王、実際は商標ビジネス屋兼テレビタレントのトランプが大統領になるという結果と招きました。主な業者はCA:ケンブリッジ・アナリティカですが、彼らが舞台にしたのは最も大々的に実行される広告の世界で、特にコンピュータに内蔵されたデータセット、ネットワーク上のトラフィックから、もっともなびきそうな人:説得可能者に個別に広告やらステマアカウントからで情報を流し込むということが実際に行われていました。ドキュメンタリー映画グレートハックで出ていたCAの社長のものとみられるフレーズを引用しますと:

「我々は行動を変える機関です。情報伝達の究極の目標は、行動を変えることです」

 権力者や選挙の候補者にはこのメリットは計り知れないです。しかし、過去の歴史や経験、教育を起点とする議論から、最後にとりあえずの決着をつけるために多数決を取り、権力者を人民の代表者として一旦選ぶ、という人民を主権に据える民主主義において、最大の原則を無視しています。それはクリストファー・ノーラン監督の映画インセプションの、個人ではなく国単位での人民の意識への植え付けです。結果として、権力を人民ではなく権力者が操作・獲得可能なものにしてしまうからです。それは民主主義の上になりたつ影の権威主義の出現を意味します。
 技術的に可能であることと、それをしていいということは、話が違います。みなさんも包丁があるからといって気に入らない相手を傷つけたりはしないかと思います。伊藤計劃さんの描くような蛮族の気持ちを持つ方には申し訳ないのですが。やれやれ、僕はインセプションした。それがCAのやってしまった話で、彼らのほとんどは蛮族くんと違くて自省することもなく、いろんなところにこの武勇伝を吹聴してまわってしまいました。
 そういうわけでアメリカやイギリスの公聴会を含め多いに炎上しました。リアル蛮族くんことCAはトランプを当選させたこと、EU離脱させたことの全ての責任を人民からなすりつけられ、この世全ての悪、アンリマユと化し、あっけなく倒産しました。あとデータ提供元が特にFacebookだったため、おかげでいまやFacebookは非難を浴びる存在と化しました。ついでにGoogleなども含めてユーザーの無関心をいいことに続けてきたデータ搾取と広告のための過剰使用を禁じるべきだという議論から、各国でデータ規制関連の法整備すらされはじめました。単純なWebマーケティングの世界には冬が訪れたというわけです。トランプも似たような選挙キャンペーンをしていたはずのオバマと異なり、任期中に大した成果も上げることがなかったとみなされたのか二期続けることすらできませんでした。これら動的な広告によるインセプションに本当に効果があったのかは十分な検証がされていません。吹聴して回るには不都合なデータが出かねないというのもありますし、会社もつぶれてしまいましたからたぶんかなり研究を積まないとはっきりしなさそう(元来広告というものがそういう代物なので)ですが、虐殺器官みたいなことが起きているな〜と伊藤計劃ファンの人たちも言及されていてとても印象的だった内容です。

FBで意見が変わりやすい有権者を特定、誘導……途上国で「心理実験」を繰り返した企業は選挙を変貌させた 辰巳JUNK 文春オンライン(誰でも概要が把握できるリンクです): https://bunshun.jp/articles/-/13526

グレートハック(Netflix契約してる人はこちらからすぐみれます): https://www.netflix.com/title/80117542

 なお虐殺器官が執筆された当初元ネタとなったとされるのは戦争広告代理店という本を題材に書かれていた内容で、虐殺器官の内戦の方向づけにかなり近いものとなります。この「情報を制するものが勝つ」という原則がよその国ではなく自分の国に向いた、という意味で世界は一歩混沌に進んだ事件ともいえます。これらインセプションが広告側のデータ規制で解決するかどうかはなんとも言えず、結局マスメディアの活用による大規模なインセプションのルートは言論の自由のもとに残されているとも言えるわけです。
 ですから結局のところ情報の受け取り手となり、選挙などによって意思決定をする我々人民の肩に、結局は内戦や混沌に陥るか否かがかかっている、というロクでもない事実が再発見されたことになります。

日本にいる私ですらITシステムで小さな独裁者になってしまったとき

 私のほんとうにしょうもない個人的な話になってしまいますが、私も職場のITシステムで一種の独裁者となってやらかしました。そのきっかけから、わりかし今の社会は簡単に権威主義になりかねないことを思い知らされました。

 私は高専時代、扱いづらいコンピュータが本当に嫌いだったものの、職場では相対的に私のほうがコンピュータの知識や経験がある場合が少なくなく、そのせいで私はかなりコンピュータがらみの、他の人にとっても扱いづらく、わかりづらく、無限の学習を要求されるかのような厄介なコンピュータ仕事をひたすらこなす機会を得ました。そこで最短の楽なルートを見つけるのが私は好きだったので、攻略本代わりにネット上の記事や山のような本を読み漁り、機会があれば簡単な実装された形でアイデアを提示して自分の理想に近い形でITシステムをつくりあげていくことができました。
 自分の手で自分や他の人の必要とするITシステムをつくりあげる行為は、まるで執筆です。ITシステム、それを支えるコンピュータのコード、グラフィックデザイン、運用ルールなどすべてを含めた私の描く脚本《スクリプト》は、うまく動けば圧倒的な生産性を叩き出します。なによりシリコンバレーの連中が私よりずっとすごいコードをOSSとして公開してくれています。公式ドキュメントはつねに無料で、deeplにつっこめばほとんどが読めます。いい本もジャンル問わずたくさん日本では翻訳されています。そして私の職場の人たちはみんな私を信頼してくれてたくさんの会社の、時には社会すべてにつながるルールやヒントを教えてくれました。おかげで私はてこの原理のように他の知識や技術をも身につける機会を得られ、結果として高専時代には信じられないほどの勢いでITシステムを導入し、運用しながら改修し、それを教えたり提案する側にもなっていきました。日本の場末といえども、大したコードを書いていなかったとしても、ITシステムの権力者のひとりとなっていたのです。
 それで失敗したのは、自分以外が、自分が教えた人すら、自分のつくったり動かしていたシステムを扱えない、運用できない、自分の持っている膨大な知識を他の人が持っていないという問題にぶちあたったときでした。ITエンジニアの人ならお察しいただけるかもしれませんが、運用者は私と私の書いたコードだけになり、知識は私に結局は集約され、教えてきた個人がうまく動けない状態であることを変えられませんでした。私が意図せず独裁者になっていたせいで、ITシステムの権威主義に陥っていたせいで、私のミスはトラブルが起きるまで発覚することが困難となってしまっていたのです。全員で気づかずに失敗したのならまだいいとしても、気づく機会を伝え損なって失敗したのではとてももったいないです。
 トラブルが起きれば今はまだ私が復旧できますし対策も打てます。しかしこれでは私がいなくなれば、コンピュータは元通りいつもの使い物にならないエラーを唱えるばかり装置と化し、システムたちがみせる現実と瓜ふたつのデジタルの夢は覚めてしまいます。そしてわたしの対策が常に最適解とも限りません。これはとっととなんもわからないコンピュータからゆるく離れたい私が望む状況ではありませんし、組織としての問題対処が成り立っていなければ、私自身もひょんなことで倒れてしまった時、ぜんぶだめになってしまいかねません。

 そういうわけで今は昔以上に教えたりいろんな人と話す機会を増やし、知識を共有し、時には私の代わりに私がしてきた仕事を実際にしてもらうことようになりはじめています。ですが、簡単に目的が達成できるはずもありません。やりかたを見直すことも必要でしたし、私の最短ルートをもっと簡単にきてもらうためにもたくさんドキュメントも書きますし、人の関係も含めたあらゆる環境の再整備も必要でした。なにより個人個人でどんなふうにコンピュータやコードに触れてきたのかはどうしても異なります。なので可能な限りそれぞれがいまの自分の在り方の延長線上からコンピュータやコードに、会社の業務に触れられるようにしなければなりません。ただ単に同じ作業をしてもらうためにきてもらっているわけではない以上、これだけやることが山ほどあるのです。他の人に迷惑をかけているな、と時折本気で思いながら、今は仕事を続けて暮らしています。

高度に専門化された社会のつくりだす独裁者達とそれを信じるしかないがために起きる権威主義

 ITシステムと会社という狭くそこそこ共通化されている世界でこの有様ですから、世界をもっと広くみればそれぞれの最適化された状況に飲み込まれた専門家が、意図しないうちに、見返りの大小問わずに失敗できない一種の独裁者に近い状況になってしまうのは当然の摂理です。
 経済学者のいうような市場の自由や、憲法をがんばって作り出した人のいうような言論の自由が、それら厄介な独裁を自動解決させるかもしれないとしても、誰もが明日から急に農家や戦闘機パイロット、大臣になれるわけでもありませんから時間はどうしてもかかります。その時間のかかっている最中に取り返しのつかないことになれば、誰も責任が取れません。その組織の中から自浄効果が働けばよいのですが、そんな誘因《インセンティブ》に相当するものを発想するのは事実上不可能です。ギリギリが法的な規制などで、いつだって間に合うとも限りません。
 だから部外者となった我々はただ、官民問わずそこにいる専門家達を信じるしかなく、結果として彼らに間違いを許さない状況へ追い込みます。これもまた一種の権威主義です。善悪問わずにこういうものはどうしても生まれてしまいますし、対策方法はただひとつ、誰もが社会の進歩と人類のよりよい尊重を目指して、誰もが無関係としか思えない高度な専門知識に対しても広範囲に賢くなり続けるしかないのです。
 これらに一応の決着をつけられるのは、結局のところ特定の人間のみに従い、一定のありかたに縛られてしまうだけの権威主義社会ではなく、誰もが競争に参加し続けられる土台をつくりあげる、高度に進化し続ける民主主義社会でしかあり得ない状態なのです。

 これらの実態を端的に表したものとして、「民主主義は状態ではない、行動だ」というものがあります。
 このフレーズは、アメリカのハリス副大統領により勝利演説時に引用された言葉で、ジョン・ルイス下院議員による言葉として語られています。

 私もかんべん願いたい話なのですが、なんなら神様にいい感じにやってほしいと祈るところですが、現実世界では、少なくとも死ぬなり本物の神が状況を完璧に解決してくれるなりになるまではこの歩みを続けるしか道はありません。我々の同世代も、下の世代も、上の世代も、みんなこの不安定な世界にいながら守るしかないのです。
 なぜなら、この歩みを逆に進めるだけで、ジョン・ポールのつくりだす世界が顕現してしまうからです。  

ジョン・ポールの虐殺の言語は権威主義デマゴーグが起点と仮定すれば理論上は可能

 ようやっと虐殺器官本編の話に踏み込むのですが、これらの前提知識に基づいて語れば、ジョン・ポールの虐殺の言語は権威主義デマゴーグ(一般的にいうデマというやつです)、つまり盲目に特定の行動へに駆り立てる言説が起点と仮定していけば、おそらく現実世界で虐殺の構文をばらまくことは可能だというのはすぐわかると思います。
 なお、これはジョン・ポール、というか伊藤計劃さんのディティールによる連続的な物語、という意図したところを大幅に超えたものです。つまりこの物語には核があり、構造があると無理やり解釈して進めてしまうので、それをご了承の上で読み進めてください。

 虐殺器官における印象的なシーンがあります。セリフのみ引用します。

「虐殺の文法の効果は、語る内容に依らない。日常的な会話にいくらでも忍ばせることができる。にもかかわらず、ああいうスローガンやプロパガンダの類は、虐殺の文法とじつに馴染みやすいんだな。濃いんだよ。虐殺文法にはそれぞれの文章への埋め込み《エンベッド》の度合いを示す『濃度』があるんだが、ああいう扇動的な文言というのは、それが濃縮される傾向にあるようだ」
「なにを言っている」
「もしかしたら、と思うんだよ。左右問わず極端な政治思想が虐殺を引き起こすのではなく、むしろ虐殺を準備するディティールとして右だの左だのといった政治思想が要請されるのではないか、とね」
「話があべこべだ、馬鹿げてる」
「ふむ、たしかに馬鹿げてるな。だがことばの連なりが人を虐殺に駆り立てるという話だって、じゅうぶん馬鹿げてるだろう」
[中略]
「スローガンと一緒に描いてある絵が社会主義リアリズムっぽいのはご愛嬌だな。右翼も左翼もある地点を超えると、美的センスが、というよりは美的センスの劣化が、よく似通ってくるわけでーー」

 これらを呪言ではないとしてしまいましょう。虐殺器官を刺激するために必要なものは、人間の無知で、そこに虐殺の文法はつけこむとみられます。
 知らない社会の否定に合意する、というのはかなり簡単です。いっぽう自らのよく知る、つまりたいていは所属する社会を否定されてそれに合意するのは困難です。なので前者を前提として組み立てていきます。これが盲目さにつながります。
 虐殺の文法として私が考える仕様は、所属を明らかにすること、否定することのふたつです。
 所属を明らかにするというのは、この引用の中から考えれば過激な思想が先なのではなく、「虐殺を準備するディティールとしての右だの左だの」に相当します。認識の負荷をかけないのは、知らない世界よりも知っている世界です。とりあえずそこに所属しているふうに思わせればよいのです。利用されやすいのが性別、年齢、政治、宗教、そして人種です。それらを起点に右か左か問わず割り当ててしまうのです。そもそも割り当てられた彼らにとってはまだよく知らない世界な訳ですから、美的センスの劣化も避けられません。
 次に否定、という部分ですが、これは所属が明らかになっていれば話は非常にシンプルです。本来否定するのは、自分と異なる性別、年齢、社会、宗教、そして人種なわけですから、それらに対する否定的なフレーズがあればいいのです。スローガンでそういうのは手っ取り早くつくれます。日本で言えば暴力団を許さない、とかそういうあれです。

 ジョン・ポールも含めてばかけていると肩をすくめていますが、現実世界ですらトリニダード・トバゴ共和国での特定政党の選挙での勝利にこれら虐殺の文法が実現しているとも言えます。
 その運動は「若者を政治に無関心にさせる計画」として、投票放棄を掲げる「Do So!」というフレーズと腕をばつ印で組むものが倒産した広告屋CAによって流行ってしまいました。冷静に考えれば民主主義の世界でこれをキャンペーンとしてやってしまった、と話してしまうのは論外です。これは民主主義の選挙というシステムの根幹を揺るがす行為だからです。
 選挙で接近・対立していたのはアフリカ系政党とインド系政党で、それぞれの若者が選挙に行かない影響は出ますが、インド系政党は親の言いつけに従い運動に参加していても結局は選挙に行くという傾向のおかげでインド系政党は勝利しました。もちろんCAが協力したのはインド系政党です。
   これらを総合的に言えば、適当に所属をつくってやり、それからはずれている人たちを否定するフレーズをつくればいいのです。これで虐殺の構文のベースラインはできあがります。つまりこれはレトリックの一種、レッテル張りです。あとはそれらが崩れない状態を保持し続けることさえできれば、完了です。それが、特定の人物を権威立てし、それに集権が繰り返される、つまり権威主義的な状況になれば、プーチン政権、トランプやナチス、戦前軍国化日本などの出来上がりというわけです。デマかせも繰り返し、続くのならいつか叶うかもしれない、というわけです。
 日本の本屋の平積みビジネス書でも「引き寄せの法則」とか「リフレーミング」とかそういう胡散臭い名前やそれに近しい別の再定義された言葉でやっているあれが集団伝染し、虐殺に向けば、虐殺も略奪もまあ起きちまうでしょうな、というところです。これが「わたしはなぜ殺してきた」おじさんのように問い続けると霧散しちゃう理由でもあります……とそういうことにしてみても、案外虐殺器官の世界観は崩れないのです。
 日本を含めた平和な国で集団伝染が起きないのは、単にそれだけで資本が伴わなかった人たちがアダム・スミスの言うところの見えざる手によりゆるやかに退場していくからです。ポンジスキームなどの特殊詐欺の場合は前例がない場合続いてしまうものですが、つまり、特定の人数まで集まって持続ができないのです。
 残念ながら虐殺も略奪は、商売などを通じて資本を集めるよりずっと簡単です。相手の顔色を伺ってわずかな富をかきあつめるより、銃で脅したり殺したりしたほうが、簡単に富を手に入れられるからです。彼らの軍事力が消え去るまで、それらは続いてしまうのです。
 この虐殺の文法の構造はジョン・ポールやCAが使うよりずっと前から存在する、たぶん人間が人間と階級をつけながら暮らし始めてから生まれたいじめやハラスメント、つまり加害の正当化に相当します。ジョン・ポールは「太古より伝わりし言葉の力によってそれを施す」というわけです。

 以下の引用は、クラヴィスの世界観を破壊するための言葉となります。

「虐殺の文法は、脳の片隅にあるごくごく小さな、とある領域の機能を抑制する。その結果、社会は混沌状態に転がり落ち、虐殺の下地が出来上がるのさ。原理的には、きみらが作戦前に特定の神経伝達物質とカウンセリングで脳を調整して『良心』を限定的に抑制するのと、なんら変わらない」

 そして物語の終盤で明かされる虐殺器官の正体は、もっとえげつない話です。

「虐殺行為が行われ、個体数が減り、食糧の確保が安定する。そのために虐殺を許容するムードを醸成し、良心をマスキングすることは、むしろ個の生存にはプラスとなる。じゅうぶん進化として残りうる特性だ」

 いじめやパワハラで良心が痛まない、なんてのはまあそうでしょうな、と誰しもが自分の経験から納得いただけるかと思います。その相手が、良心が痛んでいるような顔をした記憶がないのなら。

 最後にジョン・ポールがこんなことをしている理由は、実は虐殺器官を刺激されてしまった人たちと相違ない話だったりします。

愛する人を守るためだ」

 つまりいじめやパワハラなどの加害という世界観の延長線上で、愛する人を守るためにこの虐殺器官は動作するんじゃないか、とクラヴィスはモノローグから捉えているようです。

 集団での加害が起きるのは、特定の知り合い、または権威から流れてきた言葉を葛藤なく受け入れられる状態だからこそ発生します。つまり無知であることが重要で、次にそれを流し込んできた相手を疑ったりする発想がない、あるいはできない状態であれば、醸成されたムードは続きます。それこそ、愛する人を守るために顔も知らない誰かを殺さなきゃいけなくなってしまった、とか。非常に盲目な状態です。
 ただし、その被害者が自分または自分にとって近い存在だと、選択肢がふたつあります。対立か服従です。対立が起きるのが筋だと普通に考えられれば事象を解決しようと動くはずです。これが、虐殺器官を刺激されたことによる洗脳が解かれる状況となります。しかしもしも、その対立が服従のリスクより圧倒的に高い状態であれば、ほとんど服従を選ぶしかありません。そうして仕方なく耐えてきた人たちは今も多くいるはずです。それが、集団での加害止めることなくを加速させます。仕事だから、というあれとあまり変わりはない洗脳です。

 これらの集団加害の状況をつくりだすとき、どこかに集権され、支配可能となる権威主義は持続性において何より重要です。それは国家がかつて民主国家であったとしても、実際にヒトラーも戦中の日本も権威主義をつくりだすことに成功しました。これは過去の話ではなく、現在でも閉鎖的な学校や会社などで当たり前のように起きます。
 いまの日本であればハラスメントとして誰かに助けを求めることが始まりつつありますが、完璧とは言い難いでしょう。いじめやハラスメントにはあらゆるパターンが存在し、それだけでなく権威主義的な空間では反発がすなわち社会からの追放になりかねません。他の社会でやっていける、と簡単に人は言えるくらいにはこの国の社会は物資的にも精神としても豊かになってきているかもしれませんが、それを決められるのは結局はこれから暮らしていく本人以外難しいのが現状です。なぜなら、その社会から追放されたとき、なにが起きるかをまだ誰もが知っているほど我々は世界に対して知識がないからです。あるいは、追放された彼らを保護し、再び暮らしていけるようにする環境をつくることができるほど、強くもありません。妥協点として国ががんばって提供する補助に頼るとかしかないのが実態です。
 あるいはそういったいじめやハラスメントなどの集団加害が起きたのであれば警察の治安のかなり良い国なら逮捕につながるかもしれません。ただしこれができるのは基本的人権が保障され、本当に実現されている必要があります。
 また加害が、犯罪が起きるこんな状況ではほとんどの場合本業が崩壊しかかっているケースが多いため、別件として捜査されて不正が発覚して関係者逮捕、倒産、それに伴う社会的制裁などもあり得ます。特に社会的制裁は民主国家として成熟しているほど人民が富を持ち、豊かで、それに付随した力を持つことから制御が困難で過激になりやすい傾向があると考えられます。それらを起こしたくないとほとんどの人が考えればそもそも本業の崩壊にもつながりうる加害をしないようにする誘因《インセンティブ》も働きます。
 とこうして民主国家であればという話をしてきましたが、結局は気休めみたいなものであり、加害とそのムードの醸成は続けば意味はありません。なぜなら民主国家はそれぞれの人民が物資的にも精神的にも豊かでなければならないからです。そうでないのに、貧しいのに自他を尊重することは、あまりにも困難です。悟りでも開いてないといけないです。これが、クラヴィスが気づいた、「虐殺の文法は、食糧不足に対する適応だったというのか」という話を多少は裏付けられるかもしれません。人間が絶対的な豊かさよりも相対的な豊かさに過敏だと経験則的に仮定した場合、自分が相対的に貧しくなっていると思ってしまえば、そしてそれが自分にとってどうにもできない問題だと思い込んでしまったら、それこそ個体数を削るように殺し合うしかありません。他の動物の世界では共食いなどに発展するのと似た話なのでしょう。実際に人間においても虐殺器官の語るような「食糧不足による適応」という話を裏付ける研究が現実であったというのは今のところ聞いていないことだけが多少の気休めとなるでしょうけども。
 ジョンポールはこの虐殺器官の刺激をおそらく二つ以上の勢力に実行することで、目的を果たしていたはずです。これによりアメリカではなく自国に怒りがむき、内戦につながるからです。
 ここまで世界が逼迫し、貧困に陥りつつあれば、別に民主主義か否か関係なく、つまりストッパーなく進んでしまうのでしょう。虐殺器官の結末のように。

虐殺器官の世界においてテロを止めるために本当にアメリカがしなければならなかったこと自体が無理難題

 アメリカへのテロが起きない世界を作りたければ、そもそも敵ではないと認識してもらう必要があります。ですがそんなのは簡単ではありません。アメリカはいろんな国で戦いすぎて、かなり恨みを買ってしまっている可能性が高いです。その負かした国(やその一部)の憎しみを止めたければ平和な国を、アメリカの都合だけでいえばアメリカに教化された人民たちを育て上げ、有効な民主国家をつくるしかありません。ここで独裁国家と言わないのは、団結と軍事利用があまりにも簡単になってしまうからです。ですがアメリカが民主化に成功した国は、ここ最近はほとんどありません。アフガンでも教化した軍が大敗し、アメリカが倒したはずのタリバンに制圧され、失敗してしまったからです。例外的なのはそれこそ日本くらいなものでしょう。
 ですが日本が立ち直ったのはアメリカによるものだけではまったくなく、日本だからこそであったり、国際的な醸成だったり、協力だったりによるもので、つまり本当に偶然の積み重ねでしかありませんでした。GHQの到来、そもそもの識字率の高さによる教化の加速、朝鮮戦争の勃発による自衛隊含めた実質的な自治権の委任、人がたくさんの国でたくさん工場を建てて動かすことによる自主的な外貨の獲得、そしてバブルにすら及んでしまったほどの経済成長。アメリカだけでどうにかできるわけがありません。こんな奇跡をよその国で常に起こせるのなら、それこそ神業です。

 そういうわけで安易なプランとなるのが、ビンラディンみたいなのを見つけ、なおかつ暗殺するという超高難易度の手法よりも、その国すべてを誰の手によるものでもなく地獄へと書き換えるように見せる、ジョン・ポールによる虐殺です。核兵器も使わず、ヘリを投入するでもなく、生物兵器を使うわけでもない。ただ、情報を制することでアメリカが勝つ。これほど簡単なプランがあれば、アメリカの一部が飛びついてしまうのもあり得る話です。ただし、ここにアメリカ人としての民主主義の精神が本当に働くのなら、そんなことはどんな理由があってもしてはならないと気付けるはずです。結果としては残念ながら、虐殺器官の世界のアメリカの機関の一部は民主主義を宣いながら権威主義へと移行し思考停止した世界と化してしまっていましたし、クラヴィス達は意図せず、特殊部隊という名前の、後片付けのためだけの存在へと成れ果てていました。
 それらすべてに気づいたクラヴィスが、結果的にアメリカに虐殺器官をつかって復讐を果たしたと考えればどこか祝祭的ではありますが、クラヴィスのこれまでやその結末からも、確立された自我を持って復讐を成し遂げているとは言いがたい状態になっています。なぜなら彼は民主主義の最強の国、アメリカに生まれながら、特殊部隊を含む権威主義の頂点のなかで育ってしまい、なにもかもを失ったからです。そこに民主主義の精神が、人が人に優しくなり続けるなどという綺麗事が宿るのは困難です。

ラヴィス・シェパードというアメリカ社会や自分への絶望から生まれた新しい怪物

 クラヴィス・シェパードは、終わりのほうで「一般市民にとって愛国心が戦場にいく動機になったのは、戦争が一般市民のものになった、言うなれば民主主義が誕生したからなのだった」と絶望しています。一側面としては正しいかもしれませんが、これは権威主義だろうがどちらでも発生しうる状況です。こうした誤謬(といったんします)をクラヴィスが起こしてしまうのは、彼の今までを振り返ると避けようがないのです。

 クラヴィスは冒頭にて、「兵士はなぜと問うてはならない、というのが軍の不文律だからだ」とモノローグでは書いていますが、後半になってその脆さを「仕事だから」というフレーズを引用されながらジョン・ポールに楽しげに詰られています。ほんのりダークナイトのジョーカーを感じるのは私がダークナイトの見過ぎかもしれませんが。
 そもそもクラヴィスバットマンに至ったもののダークナイトへと至っていなっていないブルース同様に、自分の行為が一体どこに行き着くのかを理解していませんでした。彼は常に戦い続けるだけです。そこに動機が生まれたのはようやっとルツィアと会ってからしばらくしてからですし、それ以前に軍に入ったのは父が亡くなったことで絶望した母の視線を感じ、にいい子ぶっていたが、いつしかそんな自分に飽きてきたからだった、という内容しかありません。彼は精神的な負荷をかけられないように調整されてこそいますが、それだけでなくに彼の人生には葛藤というものが父や母以外の要因がありませんでした。というのも、消えていく家族や軍の中だけで民主主義的な世界観はなかなかつくりだしづらいからです。結局クラヴィスは感情のマスキングがされている状態でも、結末のタイミングで制御が崩壊しているので、マスキングなどはあくまで気休めでしかなく、マスキング、と彼が言っているのは言い訳ともみなしてしまえる状況です。それで、ジョン・ポールには会うたびにおちょくられてしまうというわけです。
 そういうわけで世界のデカさなどをジョン・ポールからぶつけられることでついに彼のみてきた世界を知るわけです。しかしクラヴィスの最後の選択はジョン・ポールとも異なるもので、アメリカを崩壊させるにいたりました。それがおいおいハーモニーにおける大災禍に繋がるようです。彼のやったことは結果としてアメリカ以外のすべての国を救うに至ったかは、ハーモニーの世界を見てもなんともいえません。なぜなら救ったあとで家でひきこもってピザを食ってるからです。よその国の国防とかいろんなすることあるんだから各国飛んで仕事しなさ〜〜〜い!
 クラヴィスの言葉は言い訳がましく納得いかなくとも、私にも気持ちはわかるのです。大きすぎる世界の問題に、ルツィアもジョン・ポールも母も死んでしまったなかで守るものもなくなって、いったい何を救えというんです?というわけです。民主主義の根幹が自他の尊重なのだとして、もはや彼にはそう思える身近な人はいませんし、下手するとずっといませんでした。そんな真性ぼっちであることをわからされたあとで、友達になれそうだったジョン・ポールも死んだところで、本気で世界を救う気になれるはずがありません。そんな精神的にもつらいひとは、ふつういっぱい休んでリラックスして落ち着いてから社会に帰って来ればいいはずなのです。ですが彼には最も恐ろしい虐殺の言葉というトンデモ兵器を抱えていました。あとそれを実行する程度にはやる気はありました。そうして殺せる相手が、ルツィアを殺したアメリカならば、多少はハッスルできたんでしょうか。こういった側面からも、権威主義の構造はひとりのとんでもない行為が世界を揺るがしてしまうからこそ、可能な限り回避し続けなければならないのです。拡散していく核兵器が抑止力の世界観をつくるのと同じように、などというと議論が分かれそうですが。

虐殺器官がみせてくれた社会の構造的な欠陥と向き合うしかない世界

 虐殺が止められない理由というのは、そもそも虐殺器官によるものではないんじゃないかとこの考察を書きながら私は考えています。
 というのも、たぶん現実世界において、もう一度トランプがひとつ覚えで同じようなキャンペーンをうって大統領選挙に出ても、もう二度と当選できないでしょう。彼は、その周囲にいた彼らは、ほとんど4年間でなにも成し遂げられなかったからです。  ですが、虐殺器官の世界においては、たぶん当選できるんだと思います。なぜなら虐殺器官の世界ではそれだけ高度に専門家が進んでしまっていて、権威主義的なサイロ社会が生まれまくり、人民が食い止めたりするような世界観になかったからなんじゃないか、なんて私は考えます。やらかしも理屈も忘れ去られてしまえば、同じことなのです。

 そもそも、民主主義という発想自体が難しすぎるのです。すべての人民は可能な限りの機会の平等が与えられ、その言論は自由と言ってはみても、全ての富を誰もが吸収してひとりに集約されるた権力者より圧倒的に直接的な力が劣ります。なにより協力は難しく、意見は常に対立し、まったく話が進まないなんてのは当たり前のように起きてしまいます。こういった理由から、民主主義こそが異常な状態であり、虐殺器官を刺激され元通り個体としての生活を取り戻しうる状態なほうが、人間という動物にとって自然なことなのではないかとかを考えてしまいます。
 実際ご時世になった時も、経済がストップしかかったときも、最後の救済者は人民から力を得てきた行政たちでした。それは緊急事態として活発に災害対策のように任務を速やかに定義し、遂行し、破綻を食い止める努力を積み重ねてきてくれました。それらは権威主義への一時的な回帰だったのかもしれません。ワクチンの開発成功によって危機は人類は免れること成功はしましたが、ロシアはウクライナに侵攻してしまい、世界は経済制裁に動き、いまは原価上昇等を起因とするとみられるインフレのせいで中央銀行による利上げ祭りです。今度もっと別の何かが起これば、国は、世界は耐えきれなくなるかもしれません。

 だからこそ、こうして考察で確認してきた虐殺の言葉を阻むことは、おそらくいまの世界のままでは権威主義というありのままの姿へ回帰させてしまう力があるからいまは誰にもできないのかもしれません。誰かを糾弾する言葉すらも、言論の自由によって簡単に行えてしまうのですから。
 だからといって、TENETニールが語るように「何もしないことの理由にはならない」のです。いつまでも行政のおんぶにだっこでは世界は立ち行きません。それは権威主義の回帰を促進し、腐敗につながります。なによりも民主主義は産業の発達と、人民の力の強化と常に共にありました。どこかで再びやり直すしかないのです。

 たとえ現実世界と民主主義がどれだけ今は不完全でどれだけ叩かれたとしても。
 本当は国や国際的大企業が世界を救えるほどの強力な力を持っていたとしても。
 民主主義がいまだに幻想でしかないんだとしても。

 世界は、少なくとも私はこの道を進みながら、時に過ちを踏んでしまったとしても、罪を償い、許してもらい、改善しながら進み続けるしかないのでしょう。それしか、虐殺器官が示しうる構造的な問題を解決する方法は、今のわたしにはわかりません。

終わりに:今更読み返した虐殺器官の感想

 だいぶ長いこと書いてしまいました。全体で19000字はあるようです。読んでくださった皆様、本当にすみません。もっと短くまとめられればよかったのですが、今の私にはまだできないようです。
 この考察を書くにあたって久々に虐殺器官を読んだわけですが、本当に面白いです。月並みな感想で申し訳ないのですが。現代世界のディティールに細かく追求し、繋ぎ合わせた結果、いつ読んでも耐えられるくらい強固な物語になっているのです。ですが繊細さ、とも呼べるものもたくさんあります。クラヴィスのデザインはこの作品に完璧に適合しており、非常に秀逸です。それで、このどえらい含蓄深さはどこからくるんでしょうか?この面白い話のインスピレーションは?このユーモアのセンスは?伊藤計劃さんが大好きだったメタルギアシリーズとかから?それにしたっていろんなことがこの作品には詰め込まれています。
 私もそれなりに伊藤計劃さんのブログの書籍化したのとかで出てきた単語から、例えばメタルギアソリッドとかをプレイしたりとか、ロードオブウォーとかファイトクラブとかダークナイトとかいろんな映画をみたりしはじめてだいたい7年くらいは経過したと思うんですが、いまだに情報量で追いついた感覚がしませんし、こんなに面白く書ける自信はありません。

 虐殺器官でみた世界観は、それらを通して知った世界は、しばらくの間わたしのなかに深く染み付き、世界の理解を促すきっかけとして動き続けてくれました。そのために読み返したりもしていました。そのおかげで世界のいまのありかたに興味を持ち始めることができました。いつしかそれはいろんな本や私自身の経験によって補完されていき、やがてほとんど読み返すがなくなりました。ですがこうして読み返してみると、また面白いなあと感じられる。そういう認識の変化のきっかけをくれたという意味で、いい作品だったと感じています。

 私にとっての伊藤計劃さんの作品は「あ、こういうふうに小説って書いていいんだ!」という本当に奇妙な親しみやすさと執筆に対するの無謀さを、そして山ほどのオタク知識を与えてくれた偉大な作品です。
 私は学生時代、ギルクラのような絵がまったく描けなくて(いまも偶然がないと無理です)、到底アニメの監督も、美術家としてのキャリアも不可能だと気づいて精神がボロボロだったときに虐殺器官を読みました。それで、小説という手段のヒントを得ました。やがて二次創作として、いかなるキャリアにもよらずギルクラを書き直す、という本当にしなければならないことに気づくことができました。そして書き直すことができました。そういう機会を得られるのはオタク冥利につきるというものです。

 いまはもう伊藤計劃さんはおらず、新しい作品を読む機会を得られないのがとても残念ですが、だからこそ私が伊藤計劃さんのいなくなった世界を知っていって、かつて伊藤計劃さんが虐殺器官などの物語を通して私にくれたものを、誰かに提供できればなと考えています。それだけが、ミームを勝手に受け継いだボンクラヲタクが唯一提供可能な価値です。オリジナル長編はまだ一作しか書けていませんから、まだまだ私は健康に気をつけつつがんばっていこうとおもいます。
 ここまで読んでくださったみなさま、ありがとうございました。
 この長すぎる考察が、虐殺器官を思い出し、また楽しんでいただけるきっかけとしていただけたら、うれしいです。