ボンクラプログラマーの雑記帳

目を開けたまま夢を見るプログラマーの雑記です。

PSYCHO-PASS(サイコパス)犯罪係数考察:犯罪すなわち利己心という世界で

はじめに

 その銃口《システム》は、正義を支配する。
 PSYCHO-PASSを一言で語るとしたら、この公式が打ち出したキャッチフレーズが最もわかりやすい。

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 神託の巫女《シビュラ》の名を擁するその機構《システム》は、犯罪係数と呼ばれる独自判定に基づき、人間に黙示録の如き審判を与え続ける。その毒麦か否かを常に監視する目は国中に張り巡らされているが、中には緊急で対処しなければならない存在も出現する。

 この毒麦を処分するために使用されるのが、支配者を意味し、主天使ドミニオン》の名前をも意味する、電子兵器、ドミネーター。これは現行犯という緊急時にシステムの目として犯罪係数を判定し、その如何によって使用者に雷の権限を与え、即時量刑を実現する。

 ドミネーターを握る人間には、いや、シビュラを享受するほぼすべての人間には、正義の思考など必要ない。
 その人間の思考過程を吟味し、理解し、判断する必要などない。
 ただ、銃口《システム》の謳う言葉に身を委ねるだけでいい。

 では、思考過程すら見えないならば、こう訊ねてみたくなるものだ。
 犯罪係数とは何か。
 色相と正義は同一ではないのに、なぜ犯罪係数によって審判を下すのか、と。

 この作品を何度も見てきて、それでもわたしの中で答えは出なかった。偶然の一致と思う他ない、先天的な特質だと捉えるしかない、と。

 しかし、つい最近わたしの中で答えが突然訪れた。
 それが、犯罪係数とは利己心の係数である、ということだった。
 それは、シビュラの正義すなわち利他心ということも意味していた。

 今回は「シビュラの正義すなわち利他心」ということと、その概念が、シビュラの世界が終わるときについて考察したことを書いていこうと思う。

 ちょうど劇場版の公開が今年からスタートする。その機運にのって、そもそも犯罪係数とはなんなのか、ということについての振り返りができればとも考えている。

 

 

psycho-pass.com

(2018/1/27「罪と罰」の考察記事も書きました) 

 

gckurabe.hatenablog.com

 

 本音を言えば、私自身がこのPSYCHO-PASSシリーズが大好きなので、その考察記事を何としても書きたかった、というのもある。今まで思考がまとまらず記事にできていなかったが、ようやくその時がきたとウキウキしながら書いているので、読みにくいところがあっても「こいつなに言っているかよくわかんないけどPSYCHO-PASS好きなんだな」とやさしさをもって読んでいただければ幸いである。

 今回参考にする作品は以下のものとなる。

・PSYCHO-PASS1,2

 

 


劇場版PSYCHO-PASS

 

 

 

PSYCHO-PASSジェネシス1,2,3,4

 

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 3 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 3 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 4 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 4 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 そして、今回は以下の項目に沿ってお話ししていく。

 

 

 

1.犯罪係数すなわち利己心の係数

 犯罪係数は、色相という言葉に置き換えられるケースがままある。色相がクリアだとか、色相が濁っているとか、そういった表現がされる。
 色相が濁ると、大抵の場合ろくでもないことを始める輩が多い。逆に、ろくでもないことを始めたばかりに色相を濁らせる者もいる。あるいは、色相の濁りは伝染すると、自警団のように殴り殺す連中も出現し、結局全員色相を濁らせる。

 このあたりはPSYCHO-PASS1において槙島聖護が中心となって起こした事件と、それによる市民の反応を見ればよくわかるだろう。

 彼らを総括すると、犯罪係数とは利己心の係数ではないか、という仮説が立てられる。

 これは先ほどの事例から見ればなんとなく想像がつく。
 色相が濁って社会復帰ができなくなったので女性を誘拐する記念すべき1話で出現する中年男性。槙島聖護パトロンとなったことで行動を開始した、鬱憤を晴らそうとする者たち。大規模サイコハザードのさいの市民のあまりに利己的な反応。

 たしかにこれら利己的な存在はシビュラからすれば審判を下さなければならない対象そのものだ。彼らは放置すればサイコハザードを引き起こすからだ。

 そもそも、PSYCHO-PASSの世界における住民は非常に脆弱な対ストレス性と、幼少期から終わらない動作の模倣、つまり真の意図でなく表層の動作のみ伝染する事象によって、世界的な虐殺が起きてしまった、というのが、PSYCHO-PASSジェネシス2において明言されている。

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

 虐殺器官の言葉を借りれば、『まるである日突然、虐殺が内戦というソフトウェアの基本仕様と化したかのようだった』。

 

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 (考察記事です)

gckurabe.hatenablog.com

 

 つまりこの世界においてシビュラシステムを停止するには、このサイコハザードという問題を避けて通ることができない状況になっている。このサイコハザードという問題を未然に防ぐために、シビュラシステムの存在は不可欠となってしまった。

 

 そういった意味ではシビュラを擁する日本が地球上で唯一、その運用スタイルによって文化的な体制を維持することに成功しているというのは劇場版PSYCHO-PASSで明言されている通りだ。ゆえにシビュラは、利己的な存在を許すことなく隔離する手法をとり続けているとみられる。

 

 しかし、正義を執行しているのに犯罪係数が高い者たちの存在はどうなのか?という言葉が出てくる。その最たる例が、執行官達や、免職目前の監視官達だ。彼らはその体制上シビュラシステムに最も忠実な存在と思われがちだが、彼らの思考が結局のところ等しく利己的だと判定されるのは止むを得ない状況だと私は考える。

 槙島聖護の深淵に囚われた狡噛慎也は、自らの正義を振りかざして槙島聖護を殺害した。

 己の正義と、シビュラの正義の違いに苦悩した征陸智己《まさおかともみ》は、PSYCHO-PASSジェネシス1,2のなかで、自らが定義する「かつての刑事のように在り続ける」「家族を守る」という旧時代の正義の両方を選んだが、帰るべき家族のもとに辿り着いたそのときには、全てが終わっていた。

 征陸智己の息子である宜野座伸元は、父の在り方と元同僚の狡噛慎也の変化に囚われ、やがて父を殺されたことを契機にその寂しさの心情を爆発させ、ついに執行官となり、事件という異常地帯の中での平穏を獲得した。

 他の人物達も、自らの経歴に悩み、苦悩し、その果てに利己的な心情を選んでいる。

 故に、執行官として機能するにふさわしい力を獲得した、とシビュラが判定している可能性は否定できない。

 彼らは独自の正義を貫く。ただしその独自の正義の強さゆえに、周囲の犯罪になびくことはほぼなく、忠実に職務を遂行することができる。獣を狩るための獣として、その権能を発揮し続けることができるのだ。

 そうすると、こうした最も厳しい環境下でもエリートを監視官として送り込むシビュラの手法が一層特異な状況であるようにも見える。監視官として放り込まれる人物は、先ほど挙げた人物達のように、間違いなく特別な才能を発揮している。しかし、あまりにも危険すぎる上に、執行官とは潜在犯であるのだから、社会的な地位もこの世界では消え去るに等しい。シビュラは何を望んでこうしてエリートを送り込んでいるのだろうか。

 その答えは正義の在り方を考えるため、というわけではない。
 常守朱のような最も素晴らしいシビュラ市民のモデルケースを生み出すことと、何よりもシビュラそのものである免罪体質者を発見する、という重大な使命を抱えているためである。

 免罪体質者は、発見ができないのが基本だ。
 ただし、特例がひとつだけ存在する。
 免罪体質者が犯罪を行い、それでも犯罪係数が上がらず、シビュラの判定にかからなければ、逆に公安局刑事課を通して捜索の糸口とできるのだ。後述するが、彼らは槙島聖護のような人物を取り込むことで社会に平穏をもたらそうとするため、事件の犯人確保については非常に関心が高い。

 しかし、先ほどまで犯罪者および潜在犯は利己的な存在である、と仮定したわけだが、そうすると理屈としてはおかしい。彼ら免罪体質者は犯罪を行う。しかし、色相は、犯罪係数は、クリアなままなのだ。システムの欠陥と一笑に付すのはたやすいが、そこには明確な共通点がある、と私は更に仮説、というよりは憶測を立てた。

 その仮説こそが、「シビュラにとっての正義すなわち利他心」という概念である。
 あるいは、こう表現することもできるであろう。
 「シビュラにとっての幸福すなわち愛」という概念である。


2.「幸福すなわち愛」の個体を飲み込む神託の群体《クラスタ

 シビュラは、最大多数の最大幸福を掲げる。
 それは個体としての思考法ではなく、社会として、群体《クラスタ》としての調和を目指しているといえる。

 ゆえに、シビュラが最も歓迎する概念とは、「幸福すなわち愛」の実践者たちであり、そのために「正義すなわち利他心」を、犯罪係数の主要な指標に組み込む手法を展開しているのではないか、というのが私の考察である。

 ケースから考えてみよう。
 例えば常守朱は、シビュラの一員として迎えられることをPSYCHO-PASS2においてシビュラから提案を受けるほどに至っている。

 彼女は、「正義すなわち利他心」の実践者だ。具体的には、PSYCHO-PASS1の最初の回では、シビュラに殺害判定された女性を救い出すため、その執行者になろうとした狡噛慎也をドミネーターで撃ち抜いている。PSYCHO-PASS2においても捜査の一環としてその実践は続いている。また、槙島を殺すのではなく、狡噛慎也を含めた全員を納得させて全てに決着をつけるため、これまでの法の手法で裁くために逮捕を選択してもいる。

 また、免罪体質者である槙島聖護も、非常に利己的に見えながらも実は大きなところでは非常に利他的な振る舞いをしている。自由意志を失った世界での「贖う魂の輝き」を命題にして、犯罪によって啓蒙を遂行していたのだ。シビュラはこの観点について明言してはいないため、この考察に該当するかは不明だ。

 鹿矛囲桐斗によって啓蒙された人物達もまた、シビュラシステムからは犯罪係数が劇的に落ちるという状況が確認されている。最終的に彼らもまた集団PSYCHO-PASS計測という手法によって終焉を迎えたが、貢献の対象がシビュラでなく鹿矛囲桐斗であろうと、つまり献身の対象が何であろうとも色相がクリアになる可能性が示唆されてしまった、という特殊な状況でもある。

 彼ら免罪体質者および色相が濁らない者たちは根本的に潜在犯とも、あるいは薬物によって精神を浄化するしかない一般市民からも逸脱する。

 PSYCHO-PASSの総集編で、槙島聖護はシビュラ統制社会の人間を家畜と評しているが、これはかなり正確な見解だと私は考えている。シビュラによって正義も葛藤も未来も委託された未来において、人間はこれまでのように悩み、葛藤する必要は一切存在しない、つまり今までのようにわざわざ人間らしく葛藤したり悩んだりしなくていい、家畜の時代に到達できたのだ。

 今の社会ですら悩み、葛藤したとしてもあまり意味はない。戦争は消え去り、食糧問題は解決し、病気のない世界において、悩みも葛藤も、死に関わる事情ではなくなった。もはや葛藤は不要な概念であり、娯楽と利益を楽しむための道具に変わった。その悩みや葛藤がサイコハザードを起こし、虐殺へと転換する時代が訪れたならば、シビュラがその葛藤を一身に受け入れるというのは、むしろありがたいことだ。

 その人間すべての葛藤を受け入れることができるような精神体が、もしも人間の脳という超並列計算装置によって実行されるならば、その脳もまた人間の葛藤という野蛮なものを受け止められるような、強烈な利他心を構築した脳の回路を必要とするというのはおかしな話ではない。

 利他心は基本、人に情報を手渡すという手続きを必要とする。そこに、利己的なだけの脳の回路の役に立つ場所は、ない可能性がある。スマートフォンと同様の役目を、メインフレームに担わせるのと同じだ。メインフレームは非常に計算処理は高速だが、スマートフォンのような情報入力機構はない。入力を工夫しない場合、計算機はその本来の出力を発揮することはできない。

 入力を受け入れるだけの能力をすべての脳が持っていなければ成り立たない並列処理機構は、メインフレームのような潜在犯の在り方を受け入れることはできない。

 ただし、そのメインフレームの役目を潜在犯に担わせるという方法はある。それが、市民という在り方であり、槙島聖護の語る家畜の在り方でもある。完全に個体である市民は、外から導くだけでいい。そのインターフェースがサイマティックスキャンと薬物とドミネーターであり、これを通して人間は貧弱な入力機構を解決することができる。

 かくして、脳を並列につなぎ合わせた群体《クラスタ》は利他心の調和《ハーモニー》を奏でることで、家畜へと至ることのできた人間達を導く。

 愛の実行のためならば人々を導き、利己心を芽生えさせた者の剪定を薬物とドミネーターで行い、愛を必要としない存在を見つけ出し、自らの一部に付け加えていく。

 人間を導く時に、家畜を相手にした正義の議論など、存在しようがない。
 だから人間を超え、導く名前のない怪物にとっての正義とは、愛でしかないのだ。
 ゆえにシビュラは、犯罪者であろうともシステムに加えることを目指す。

 その脳が活性化する動機は彼らの幸福であり、それが他者への献身、愛であるならば、システムは人間が家畜であるうちは、共存し続けることになるだろう。

 しかし、この考察はまた別のことを意味する。
 シビュラの行っていた並列処理機構を市民に適用できるようにすることができれば、シビュラは中央集権的処理を不要とすることができる。

 つまり、人間の脳をすべてシビュラに適用できる存在、常守朱のような人々が世界に広がるようにテクノロジーで解決できれば、シビュラの役目は終了することとなる。

 だがそこには、もはや我々が考える意識といった個の概念は存在しなくなってしまうだろう。

 

3.個の概念は消え去り、正義は終わる

 シビュラの電源を常守朱が切りに行く時、個の概念が消えてしまう。
 これが意味するのは、完全な意味での正義の終焉だ。
 常守朱は正義を、どこかのタイミングで捨てるしかなくなってしまうだろう。

 具体的に話していこう。
 シビュラの配下において、犯罪とはすなわち利己心だ。それは、我々の時代における正義の存在しない世界だ。
 常守朱狡噛慎也、征陸智己《まさおかともみ》の目指す正義は、旧時代的なものとしてシビュラから扱われ、市民達も彼らのような思考をすることはほとんどない。だからこそ、シビュラの世界には正義の源泉である歴史も思想も存在しない。だから歴史を、哲学を学ぶ必要もない。学問は除け者たちが利己心を強化するために使用する薬物と大して違いはない状態だ。

 学問が薬物の世界で、それでもシビュラの電源を切りに行くとしたら。
 学問によって個を強化するのではなく、群体としての在り方を強化するしかない。

 だが先ほど示した通り、群体としての在り方を極めれば、シビュラのような在り方を進んでいくしかない。
 その行き着く先には、人間全てがシビュラと同等となるしかなくなる。
 そこには学問も、その配下にある歴史も、そして正義すらも邪魔となり、不要となる。

 つまり、個の概念は消え去り、常守朱は自らを育てた正義を、シビュラのようにどこかで捨てるほかないのだ。

 かつて、人間社会を運用するためには社会性のない者を裁くしかなかった。その源泉に、正義という共通幻想を与えて、それを逸脱し、害を与えた者をさばき続けてきたわけだが、テクノロジーが発展すれば、その逸脱すら計測し、解決できる。それを体現したのがシビュラだった。

 もとより意識だとか、個だとかという概念は、技術の発達によって暴かれ、迷信となった。
 魂と呼べるものは存在せず、我々の脳はネットワーク接続された端末との違いを、構成物質とアルゴリズム以外で語ることはできなくなっている。

 そうして見て見ぬふりをしてきたものすべてを──犯罪係数がなくなり、それまでに積み上げられた死体の数の計り知れないシステムのすべてを──解決した時に広がるシビュラなき世界は、きっと見た目は何一つ変わることなく、人間は暮らし続ける。そして、おそらくきっと美しい世界だろう。
 意識を全員が喪失した、ハーモニーにおける最終局面のように。

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

(こちらはその考察記事です)

gckurabe.hatenablog.com

 

 しかしそこに、我々の想像する個の概念はない。

 常守朱の目指す世界とは、そうした真実を全ての人間が理解し、そのうえで平穏を獲得するという世界だ。
 その道は非常に険しく、不可能に近い。幾多もの事件が起きて、多くの犠牲を払い、最後は手にした正義すら、捨てることになる。

 しかし彼女ならば。
 正義の執行者達の意志を継ぎ、シビュラの寵愛を受けた常守朱ならば。

 きっと、PSYCHO-PASSの物語は、そうして自分たち正義の終わりに向かって、ひた走っていくこととなるだろう。

おわりに

 おわりにで今更ではあるが、この作品は「紙の本を読みなよ」と、私に本の虫の習性を与えてくれた作品であり、そのおかげでほとんどのもの(思想、科学、システムなど)をだいぶ独学でも学習できるようにしてくれた。平たく言えば、人生に多大な影響を与えてくれた作品だった。紙の本よりもKindleの良さに目覚めてしまうことになったが。

 なのでPSYCHO-PASSの年である今年も、いろいろなものが吸収できるのではないかと楽しみにしている。

 3本の映画の中で、きっとこのように犯罪係数に関して問うものが現れてくる。そんな犯罪係数に関して、ただ吸収するのではなく、考察にできればいいのではないか、と思っていたが、気づけばPSYCHO-PASSの行き着く先について書いていた。

 PSYCHO-PASSの先に見える未来は、我々からすれば想像を絶する世界だ。
 だがらこそ、その最果てに彼らが何を見出すのか、私はとても楽しみで仕方ない。