ボンクラプログラマーの雑記帳

目を開けたまま夢を見るプログラマーの雑記です。

ガンダムNT考察:人間がテクノロジーで神々《ニュータイプ》へ生まれ変わる時

はじめに

ガンダムナラティブガンダムUCファンの皆さんはもうご覧になったことだろう。
なにせ正式な続編であり、音楽は澤野博之氏であり、なによりもPVから心を揺さぶられるからだ。

gundam-nt.net

 

www.youtube.com

 

私はこの作品で主題歌のためにYoutube Musicの加入を決断し、オフライン再生で聞き続けた。そして何度もYoutubeでオフライン保存されたPVを見ていた(Youtube Musicに入ってさらにプレミアムに入るとこの機能が使えた)。

 

サントラと主題歌は出たその日に購入し、その音楽を聴きながらKindleで原作版を読み、そして映画に三回観に行っていた。そして作品でほぼ泣いたことなど一切なかった私が、トータル九回涙をこぼす羽目になった。

 

 

 

 

 

 

私は、それだけこのガンダムNTは素晴らしい作品だと考えている。
なぜならばこの作品は、人間がテクノロジーで神、つまりニュータイプへと生まれ変わる物語であり、その葛藤を描き切った物語だったからだ。

上の言葉でどうして?と思った方や、この作品がわけがわからないと思った方、そもそも観に行っていないんだけど口コミがすごいので考察でもまず観てみるかと思った方に、その理由をお伝えしたい。それがこの記事の目的だ。

そして、可能であるならばこの記事を読んだ人がもう一度ガンダムNTを反芻していい物語だったなあと回想していただける、よすがとできればいいと考えている。

今回の記事においては物語の時系列と合わせ、以下の三点を通してお話ししていく。

 

 

 

では、この物語《ナラティブ》の本題に入ろう。


1.早過ぎた神々《ニュータイプ》の到来

 宇宙世紀0079。初代機動戦士ガンダムの舞台、一年戦争の時代。
 ニュータイプとは、宇宙戦争という極限状態において生まれた、選択と淘汰の産物だった。
 当然の帰結だった。何度も戦いを繰り返すうちに英雄が生まれるということは、今までの時代もなかったわけではない。そこに人の意思がわかるもの、エスパーが現れたとしても、偶然だったと一笑するほかない。進化とは、そうした出来合いの産物でしかないのだから。

 しかしこれまでと根本的に違ったのは、彼らを規定するニュータイプという言葉に、彼らエスパーの力は、誤解なくわかりあうための力である、という思想が入り込んだことだった。

 思想とは力の方向性を定めるものだと、私は考えている。ただの電気にコミュニケーションという概念が入り込んだその時、電気信号という概念が生まれ、やがてはネットワークによる多重通信とそれによるコミュニケーション産業時代の到来したことが、そのわかりやすい例だ。
 それと同じように、ニュータイプは、ただのエスパーで終わることができなくなった。

 ガンダムNTの三人の主人公達も、ただの子供ではなかった。
 一年戦争におけるグランドゼロ、コロニー堕としを事前に察知、街を救った奇跡の子供達だったのだ。
 それは、最初期のニュータイプの誕生の瞬間ではあったかもしれない。

 しかし、奇跡を起こす神々《ニュータイプ》として出現するには、あまりにも早過ぎた。
 宇宙世紀において、彼らニュータイプを受け入れていく社会の変革はほとんど起きないほど、形骸化した未熟な社会だったからだ。

 それはガンダムUCにおける連邦政府ネオジオンの状況が、よく示している。
連邦政府は何度ニュータイプの出現する戦争をやっても自浄が働いて革命が起きることもなかった。
ネオジオンは結局ザビ家およびニュータイプのシャアの影を追うだけの、ただ群れるだけの集団に成り果てた。

 それだけ進化に適応できない、未熟な社会のままだったのだ。もっと言えば、社会を生み出す人間そのものが、ニュータイプを受け入れるには早過ぎたし、そんな受け入れる力も変わる力も持ってはいなかった。制度の革命は起きず、旧い政府による支配体制が維持され、それは終わることがなかった。核兵器を抑止力にできたこの支配体制は、あるべき姿を考えようとしない思考停止ゆえに、ニュータイプを抑止力の領域に引き上げることに失敗した。

 社会が未熟なばかりに、人間の若さゆえの過ちのばかりに、ニュータイプは抑止力ではなく、戦場の悪魔として権能を発揮するしかなくなった。

 ニュータイプの力は、戦場という状況下において一騎当千をするのに都合が良過ぎたし、おまけに核兵器やコロニー堕としのような強力かつ再現可能な力では、決してなかった。

 だから、ニュータイプを解析し、使えるものにしたいと考えた組織が出現した。社会の在り方を別の方法で問う前に、一騎当千という禁断の果実に向かって手を差し出してしまった。

 かくしてニュータイプへの祈りは呪いに変わり、新しい時代の悪夢は始まった。
 その果てに生み出されたのが強化人間と、NT-Dだった。


2.機械仕掛けの神殺し── 強化人間とNT-Dシステムの完成

 一年戦争の後から出現した、強化人間という人工のニュータイプ
 今回のガンダムNTの三人の主人公達も、その強化人間の研究所に送り込まれていた。

 ニュータイプの再現ができれば、戦場の外側において抑止力として機能して、戦争そのものを調停できる。私ならばそう考えるが、残念ながらニュータイプ研究所はそう捉えた取り組みはなかったか、あるいは失敗したようだ。

 なぜならば、作品においても投薬、トレーニング、脳波テストといった、過負荷をかけること以外まともに行っていた形跡が見られないからだ。戦場に出すことそのものを目的としていたきらいもあるほどで、結局のところ何一つ目的を達成することはできていなかった。

 彼らの取り組みは、スウィフトの描くガリヴァー旅行記、そのなかのバルニバービの科学者達のくだらない目的意識と取り組みによく似て、偶然生き残った強化人間を出荷することしかできなかった。

 

 

ガリバー旅行記 (角川文庫)

ガリバー旅行記 (角川文庫)

 

 

 

 

 そうして最終的にリタはコロニー堕としを察知した張本人、すなわち本物のニュータイプとして、大量に、何度も体を切り開かれるだけの運命を背負った。だが、彼女ですら、コロニー落としを察知したこと以外、ニュータイプとしての力を発揮することはなかった。つまり、本当に当時もニュータイプだったかどうかは不明なままだ。だからそうしてリタが切り開かれても強化人間のひとりもまともに生み出せなかった。それはスウィフトの言葉並みに皮肉なものである。


 そして、悪夢はもうひとつあった。工場出荷された彼ら強化人間の力を最大限に発揮するために用意された、サイコフレームと呼ばれる新たな物質とサイコミュ兵器の、戦場における流通だった。

 強化人間といえども、攻撃の予測できないファンネルなどのサイコミュ兵器を使いこなすことそのものが戦場での最たる役目であり、一騎当千ではあっても本物のニュータイプをいつも超えることはできなかった。それは本質的な役割の与え方の軍の失敗であり、結局は強化人間を使おうが否が、戦争で勝つという矮小な目標すら叶うこともなかった。

 だからこそ、連邦は本物のニュータイプを根絶するための準備が必要になった。自らを守ったかもしれないニュータイプは制御できないものであるとして、つまりすっぱい葡萄だと切り捨てにかかることしか、もはや宇宙世紀の政府にはできなくなっていた。

 そして、強化人間によって加速したとみられるサイコフレームの量産は、ガンダムUCにおけるアナハイム連邦政府の結託によって、新しい悪魔を誕生させた。コックピットに載せられていただけの、ただファンネルを飛ばしたりするだけだったはずの遠隔操縦素材を、機体のフレームそのものに張り巡らせた。そして、ファンネルという不可視の領域から攻撃してくる兵器をジャックしてしまうという、ニュータイプの力そのものを否定し、支配する兵器が完成した。

 それが、ニュータイプを廃絶するためのシステム。NT-D (NewType-Destroyer)システムであり、それを正式に実装したRX-0、通称ユニコーンガンダムだった。その物語が、ガンダムUCだ。

 

www.youtube.com

 

 そして、RX-0は三機生み出されていた。
 そのうちの一機、フェネクスは、テストにおいて強化人間を搭乗させていた。

 そしてそれは突如として、ニュータイプではなく実験者達を殺しつくし、やがて宇宙のどこかに消え去った。
 その当時の搭乗者が、リタだった。

 そして、ユニコーンガンダムコロニーレーザーを受け止め、完全な覚醒に至り、時を操ってジェネレーターすら分解してしまう領域に突入した時、フェネクスはそれを感じ取ったのか、人類の生存圏に再び帰ってきた。

 原作の言葉を借りれば、以下のように表現される。

 ニュータイプの素養があるパイロットとの感応が進めば、サイコフレームは魂が集うフィールド── 我々には認識できない高位の次元と繋がり、時をも操る力を引き出す媒体となる。だがそれはこの世界の崩壊を招きかねない。

 だからフェネクスは遣わされた。
 魂が集う世界──あの世から。
 この世に生じた特異点を消し去るために。

 ユニコーンはシンギュラリティ・ワン、すなわち技術的特異点として描かれているが、これに関して私が純粋に驚いたのは、時を巻き戻すといった力の方ではない。
 ニュータイプは意識といった個の意識を超越している可能性が高いということだった。

 それはまるでコピーを繰り返す機械のようでもあり、事実ユニコーンサイコフレームを通して人の意思を模倣していて、自己同一性という概念を覆す脅威と見ることすらできる。「シンギュラリティは近い」のレイ・カーツワイルや「ホモ・デウス」のユヴァル・ノア・ハラリの示す、人と機械が融け合う未来を徹底的に再現するかのようだ。

 

 

シンギュラリティは近い[エッセンス版] 人類が生命を超越するとき

シンギュラリティは近い[エッセンス版] 人類が生命を超越するとき

 

 

 

 

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

 

 

 

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

 

 

 そもそも、「模倣と他者性」でマイケル・タウシグが示す民族の状況と歴史的な観点から見れば、この自己同一性に関する問題は既知の問題であり、避けようのない事実だったと認めるしかない(ちなみにこの本はガンダムNTを見て呆然としていた時に紀伊国屋書店本店で購入した本である)。

 

 

模倣と他者性: 感覚における特有の歴史 (叢書人類学の転回)

模倣と他者性: 感覚における特有の歴史 (叢書人類学の転回)

 

 

 

 確かに、ニュータイプは、この宇宙世紀の世界の社会には、そして今の我々の世界の社会には早すぎる。

 なぜならば、ニュータイプは個の意識ではなく集合意識として行動できるため、その集団で可能となる能力はすさまじいものになるからだ。

 現実でもそれを規制する手段はまだないが、宇宙世紀においても一年戦争以降に各種事件を発生させることとなっており、そういった煽動者、アジテーターである人間を対処できるだけの基盤がない今は、ニュータイプはあまりに危険すぎる。

 それをサイコフレームが破壊兵器として助長すれば、議論もないまま完全な意味での独裁社会が完成してしまう。それこそサイコパスのシビュラシステムをつくってその中に格納してしまったほうがマシな領域だ。

 だからこそ、フェネクス特異点を、その集合体であるものを消し去りに来たのだ。

 だがすでにユニコーンガンダムは解体されたと謳われていた。だから、特異点を消し去るために出現したフェネクスそのものに、時間すら支配する力がある可能性を見出した。不死鳥狩りと呼ばれた任務は、不死鳥の腑(はらわた)を斬り開くために行われる任務へと変貌した。

 そこに、ヨナはナラティブガンダムνガンダムの試作機に乗って出現した。ルオ商会に入り込んだミシェルに、半ば操られるように。

 だが、物語は誰もが意図していない流れへと入り込んでいく。
 不死鳥狩りをしていたはずが、不死鳥へと覚醒していく。
 今までテクノロジー負の遺産であった強化人間と、NTーDシステムを通して、連鎖反応によってニュータイプ、神々へ生まれ変わる新たな世界が始まったのだ。

 

3.人間がテクノロジーで神々《ニュータイプ》へ生まれ変わる時

 リタはフェネクスを通してニュータイプとして覚醒し、不死鳥そのものとして、負の遺産であるフェネクスサイコフレームのなかに入り込んだ。彼女は肉体を失っていた。だが、サイコフレームが引き合うという性質ゆえか、再び自らを切り刻んだ人類の生存圏に戻る。終わらせなくてはならない特異点を探し出すために。これが初期状況だった。

 そこに連鎖反応するように、ミシェルはヨナを連れて訪れる。時を操る力を手に入れるため、商会の全ての力を振り回して、戦場すらも生み出した。NT-Dシステムを搭載したナラティブガンダムと、セカンドネオジオングを流通させて、そこで膨大な争いを生み出してでも、彼女は必死に追いすがり、最後はサイコフレームを自分でばらまきにも向かってみせた。そして最後はサイコフレームによる結界を生み出し、果てた後も、リタのようにヨナを導き続けた。

 このふたりと比較すれば、ヨナは最も凡庸な人物だった。
 ミシェルのルオ商会にはいるための噓にも気づけず、リタを追いかけるだけの力もなかった。
 パイロットとしての腕も中の上といったところで、強化されていないと評価される(そもそも強化人間のイメージが先行し過ぎているのかもしれないが)。

 そんな彼はたくさんの挫折を味わう羽目になった。リタを切り刻ませてしまったこと。リタがどこにいったかもわからなくなってしまったこと。結局は捕獲任務を遂行できなかったこと。
 彼は葛藤し続け、心に聞こえた声を聞き、そして今まで全てのことを悩み続けた。

 だからこそ、彼は二人の女性がニュータイプとなって散っていく時、彼女達の言葉に怒ったのだ。
 それが、今までテクノロジー負の遺産であった強化人間と、NTーDシステムを通して、ニュータイプが連鎖反応によって生まれ変わる新たな世界が始まりだった。

<以下原作からの引用および記事執筆者による再解釈によるもの>

「なにもいいことなかったじゃないか。リタも、ミシェルも」
 彼女達の結末は、悲惨としか言いようがない。
「ずっとこわい思いして、いたいの我慢して」
 気づけば大人に脅されながら強化人間として実験され、やがて切り刻まれ続けた。
「なんでだよ。なんで、こんなに苦しまなくちゃいけないんだよ」
 果てはこうして命を散らしていく。人間の基準で語れば、彼女達は苦しむためにしか生まれなかったようなものだ。
「生まれなきゃよかったんだっ」
 生まれる時代も場所も、すべて間違えて、彼らはここにやってきた。
 彼らは、間違った社会に生まれた。
 テクノロジーは彼らを救うこともなく、社会は彼らを救わなかった。
 コロニー落としから街を救った彼女達は、結局こうして社会に押しつぶされ、そして消え去った。
「苦しむだけの命なら、最初から、俺たちは、なんのために──」

 彼の怒りは、世界への、そして自分への怒りだった。何度でも生まれ変わるリタをただ眺めていることしかできない自分。リタへと必死に手を伸ばして時には手を汚すことも厭わなかったミシェルにただ引っ張られるだけの自分。彼女達に、彼はなにひとつ手を差し出すこともできておらず──

「じゃ、あたしにくれる?」
 リタが語ったそれは、三つに分かたれたペンダントのことだった。意味をなさないと自分が言って切り捨てたもの。それでも、リタはその価値を認めてくれた。そして気づけばそれは三人が繋がるための契りへと変貌していた。
 そのペンダントはまるで、何度でも生まれ変わる、不死鳥のようでもある。
 そしてあの廃墟の中で駆けるリタは語る。
「次に生まれ変わるとしたら、あたし、鳥になりたいな。ヨナは?」
 その背中を見つめている時、ミシェルが語りかけてくる。
「行きなよ、伝えたいことがあるでしょ?」
 ニュータイプになれなかった実験体であり、サイコフレームでしかないものからの声。これまでに存在し得なかった負の遺産であるテクノロジーは、この時ついに反転する意味を手にしていた。
 時間を超越したニュータイプである二人は、ただ散るのではなく、サイコフレームを通して、彼を導く。
 そして彼は、フェネクスに乗り込んで、今一度そのペンダントをつなぎ合わせて、宣言する。その言葉が、壊れたペンダントを差し出すことと同じと──ただ前に進むことでしかないと理解した上で。
「君が鳥になるなら──俺も、鳥になる」
 それが、ニュータイプの誕生の瞬間だった。
 不死鳥《フェネクス》は生命力そのものである青い炎──感応波《サイコウェーブ》を機体のフレームから解き放ちながら、再誕を果たした。

 彼はどんなことになったとしても、歩む道は間違えなかった。
 だからこそ、彼は葛藤の果てに、フェネクスを真に制御するニュータイプへと生まれ変わった。テクノロジーを連鎖することで、彼女達と繋がり、神々のひとりとなったのだ。

 そして別れの時、リタはこう訊ねる。
「あたし、ヨナに会えてうれしかった。だから何度でも生まれ変わりたい。それがどんなものでも、出会うために。ヨナは?」
 テクノロジーの連鎖で完成した神々たるニュータイプは、フェネクスとともにもう一度飛び立つ。無限の宇宙に向かって。
 やるべきことはわからない。ただ、誤解なくわかりあうことを目指して、自分を通して、今が全部ではないと、何度でも生まれ変わり続けるしかないのだ。
 いつか、もう一度出会うために。
 人間の社会が、神々《ニュータイプ》を受け入れられるそのときまで。

<ここまで>


 誤解なくわかり合うために、何度でも生まれ変わる。それは、この物語が示したように、困難な道だ。それこそ、誤解なくわかりあうための力、ニュータイプの力がこの宇宙世紀の人々すべてに届かなければ終わらないだろう。だから、遠いのだ。

 しかし、今のこの世界も、核の抑止力以後、すでに銃で死ぬ人数よりも、糖尿病で死ぬ人数のほうが多い世界だと、ユバル・ノア・ハラリも語った。戦争は小さくなり続け、飢餓もますます減り、疫病は未然に対策されるこの世界は、かつて人が信じられなかったほどの世界だ。

 それがもたらされたのはなぜか?
 幾多のテクノロジーの集結であり、なによりも誤解なくわかりあうための懸命な努力があったからこそだろう。

 だから、我々はいずれ現実で出現するニュータイプを武力にしなくてもいいかもしれない。それは、現実世界でリタやミシェル、そしてヨナのような悲しみを抱えさせないためにも必要だ。

 彼らの悲しみをこの映画を通して観た私は涙を流すしかなかった。
 だからこそ、彼らの苦痛をなくせる、なんとかできる道を探そう。ニュータイプをはじめとした多くを受け入れられる世界を、この現実からつくっていこう。
 純粋にそう思えた作品だった。

 

おわりに

 この考察は、ガンダムNTが広範囲にわたる歴史を描く作品であったことが影響して、かなり広範囲にわたったものになった。もしかしたら宇宙世紀におけるニュータイプ考察に近いものになってしまったかもしれない。

 とはいえ、ニュータイプとは何なのかを考えられるきっかけの記事をこうして提供できることができたと前向きに捉えるしかない。

 ニュータイプに関してはありとあらゆる記事があり、今回のこの記事はガンダムNTからみたニュータイプについての考察だった、と位置付けられるかもしれない。私は正しい定義より、その考察や解釈によって人の苦痛を取り除けるものにしたいと思いながらこの記事を書いているので、正しい定義についてお探しの方は他の記事やガンダムのファンブック等を参照して楽しんでいただければと思う。

 ガンダムナラティブはまだ上映されているので、各自見てもらって、自分なりに考察していただければ楽しいことはまちがいない。それは考察記事を書く私が保証する。

 私にとってこれほどまでに刺さる作品だったのは、ヨナの叫びがあまりにも胸に打たれることだったこともあるかもしれない。ニュータイプの彼の思いにドライブできてしまうほど、この神話の行き着く先は納得できる、素晴らしい作品だった。

 この物語《ナラティブ》を観ることができて、本当によかった。