ボンクラプログラマーの雑記帳

目を開けたまま夢を見るプログラマーの雑記です。

虐殺器官再考察:ジョン・ポールのことばを阻むことは、(権威主義へ回帰させてしまう力があるからいまは)だれにもできない?

はじめに

 ギルクラを描きなおすための高専イヤイヤ期を越え、ギルクラを二回書きなおし、それからというものの作家もどきをしつつ、食っていくためにプログラマー兼デザイナーもどき兼システムエンジニア6年目、倉部改作です。最近はオリジナルSF、対暗号通貨犯罪諜報回顧録scriptの執筆から解き放たれ、幸せな日々を過ごしております。イヤイヤだった食っていくためのIT技術はいまや私にとっては休息のひとつだからです。

ギルクラ改変一回目 LORD_OF_PERFECTION: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=4721803

ギルクラ改変二回目(一回目の完全上位互換) Guilty Crown Bonding the Voids: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12196921

オリジナルSF 対暗号通貨犯罪諜報回顧録 script: https://kakuyomu.jp/works/16816452220093672224

 こうして何度も執筆したりそれに応じて本を読み漁っていると、多少(とはいえないな、かなり)世界のみかたが変わってくるものでして、虐殺器官に関しても以前考察した内容よりもそこそこ違う視点で記述ができそうな気がしてきました。

 ここから完全ネタバレでいきます。

 以前、学生時代の私はこんな感じで考察記事を書いていました。

虐殺器官考察:虐殺(わたし)のことばを阻むことは、誰にもできないー虐殺器官の真の特性について―: https://gckurabe.hatenablog.com/entry/2016/01/22/215421

 この記事の時点では「虐殺の言語」の動作の具体性は必要ない、と言っていたのですが、まあ確かに作品の中ではなくてもまとまっているものの、それがなんなのかは今の私なら推測はできるだろう、という感覚で書きはじめました。
 そうして書き起こした結果、私は勘違いに気付きました。それはつまり、虐殺のオルガンの演奏者そのものも、虐殺の言語に染め上げられていたということの全く逆で、虐殺の言語に至るほうこそが人間という動物にとって自然なことだということです。
 それが、ジョン・ポールの言葉を阻むことは、(権威主義へ簡単に回帰させてしまう力があるからいまは)誰にもできない?というタイトルの考察となります。

現実世界におけるわかりやすい権威主義

 私がここで扱う権威主義というのをWikipediaの言葉を借りれば、自発的に同意・服従を促すような能力や関係となる権威を社会組織の原則とすることを指します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%A8%81

 わかりやすい権威主義の事例は昔でいえば君主制などです。現代においては武力によって特定の地域の支配が完了した時に生まれる独裁者とそれに従う状況です。
 人類は比較的長い年月、人民には選挙権や基本的人権の保障はされていない状態で暮らしてきており、たびたび隣国と殺し合う状況に突入し、つまりは戦争に駆り出されたり、そうでなければその地域の支配者から高い税を払わされたりといういまの日本にいる私からすれば理不尽が起きていました。それら君主制に対抗するために、フランスでは革命が起きて人権宣言を掲げたわけです。結局ナポレオンが現れて独裁制に逆戻りしたりナポレオンが倒れたり王政が復活したりと二転三転してしまったわけですが。
 それなら基本的人権の保障とか選挙権とかがあったら解決かといえばなかなかそういうわけにもいかず、それら選挙権などがあった状態でも権威主義というのは出現するのが現状です。かつてあったものであれば戦中の日本、ナチス・ドイツソ連。いまあるものでいけば現在の中国やロシアなどです。やはり強すぎる武力を筆頭にする権力には人権も選挙も吹っ飛んだり無意味になってしまうので、それらに従うしかないわけです。

現実世界における民主主義

 それでは私がここで扱う民主主義というのを日本の戦後1948年頃文部省がGHQ監視下においてつくりあげた教科書と、オバマの大統領回顧録から得た、たいへんアメリカに影響されたイメージから語れば、人民が主権を持ち、自らその権利を扱うことを社会組織の原則とすることを指します。その表れが基本的人権の保障だったり、産業を支えるべく働く自分達の代わりに仕える代表者を定め、彼らを一旦の権力者とする選挙だったりにつながるというわけです。
 感情に訴えるように書くと、基本的人権の保障とそれによる人民の繁栄、つまりは人間の、自分と他者の終わることなき尊重と理解、そうしてつくられる相互利益に基づいた進歩や発展、そのための試行錯誤こそが民主主義です。

 もっと極端にわかりやすくすれば、すべての人が自分も含めたすべての人に少しでも優しくなっていくことこそが、民主主義の中枢です。

 なので民主主義は一応はいま法として書かれている基本的人権の保障をはじめとした基礎こそ存在こそしていますが、まだまだ試行錯誤の余地があるんじゃない?だからそれに気づくためにみんなで話を聞き合ったり話し合ったりして、いまある世界からよりよい方向に進歩していこうね、という発想をします。
 これらに付随するのが言論の自由であり、そのおかげでTwitterが国家や権力者やお金持ちへの悪口会場になっていてもロシアや中国ほど勢いよく逮捕されることもない、というわけです。これは国家が絶対ではなく、あくまで人民それぞれが主権をもち、意見を公平に述べられるという背景に基づくのです。おかげでアメリカや日本は本当にいろいろな観点から叩かれたりするわけですが、その意見を述べたり考えている人たち自身が、その意図の有無によらず、意見を聞いたり出したりしながら国や社会を形作り、なんとかマシな方向にしようとしてきてくれました。だからソ連のように崩壊することもなければウクライナに侵攻することもない、今はまだ。というわけです。

 この民主主義の中高生向けに書かれた教科書(いまは文庫本の形をしてる)は私が学生時代に読んできた教科書とは大幅に異なるもので、とても深い洞察に基づいて書かれた思弁《speculation》であり、私はここから進歩を、遥か遠い理想を感じ取り、SF:スペキュレイティブ・フィクションじゃん……と感じたものですから大変面白かったです。これいままでできてないこともたくさんあるよな、だから自分たちの手でもうすこしいい方向に実現できたら本当に面白そうだな、と思わせてくれるからです。

 この教科書の前にオバマおじさんの大統領回顧録約束の地を読んでいて、大統領としての物語としてめちゃくちゃ面白かったです。かつての選挙戦における敵味方の可能な限りすべてと協力して、世界金融危機の連鎖倒産の破滅を救い、医療アクセスがほとんど金権となってしまったアメリカで日本の医療のような国民皆保険制度に近づくためのオバマ・ケアをつくりあげ、パキスタンに潜伏してテロを指示し続けた9.11の首謀者ビンラディンを倒したおそらくワシントンのなかにいて人類史上特異な功績をあげたアメリカ大統領の話だ、と言ったら虐殺器官を読む人の中でも少々興味のわくひともおるかもしれません。

民主主義の世界から生まれる権威主義

 とここまで比較的わかりやすい権威主義と民主主義の話だったのですが、現代の民主国家と呼ばれる国においてもどうしても権威主義的思想は発生しがちです。たとえば結局は選挙などを骨抜きにできてしまえばいんだと考える連中は多少おり、実際にトリニダード・トバゴ共和国での特定政党の選挙での勝利、イギリスのEU離脱を決定した国民選挙、アメリカでは大統領選挙で自称不動産王、実際は商標ビジネス屋兼テレビタレントのトランプが大統領になるという結果と招きました。主な業者はCA:ケンブリッジ・アナリティカですが、彼らが舞台にしたのは最も大々的に実行される広告の世界で、特にコンピュータに内蔵されたデータセット、ネットワーク上のトラフィックから、もっともなびきそうな人:説得可能者に個別に広告やらステマアカウントからで情報を流し込むということが実際に行われていました。ドキュメンタリー映画グレートハックで出ていたCAの社長のものとみられるフレーズを引用しますと:

「我々は行動を変える機関です。情報伝達の究極の目標は、行動を変えることです」

 権力者や選挙の候補者にはこのメリットは計り知れないです。しかし、過去の歴史や経験、教育を起点とする議論から、最後にとりあえずの決着をつけるために多数決を取り、権力者を人民の代表者として一旦選ぶ、という人民を主権に据える民主主義において、最大の原則を無視しています。それはクリストファー・ノーラン監督の映画インセプションの、個人ではなく国単位での人民の意識への植え付けです。結果として、権力を人民ではなく権力者が操作・獲得可能なものにしてしまうからです。それは民主主義の上になりたつ影の権威主義の出現を意味します。
 技術的に可能であることと、それをしていいということは、話が違います。みなさんも包丁があるからといって気に入らない相手を傷つけたりはしないかと思います。伊藤計劃さんの描くような蛮族の気持ちを持つ方には申し訳ないのですが。やれやれ、僕はインセプションした。それがCAのやってしまった話で、彼らのほとんどは蛮族くんと違くて自省することもなく、いろんなところにこの武勇伝を吹聴してまわってしまいました。
 そういうわけでアメリカやイギリスの公聴会を含め多いに炎上しました。リアル蛮族くんことCAはトランプを当選させたこと、EU離脱させたことの全ての責任を人民からなすりつけられ、この世全ての悪、アンリマユと化し、あっけなく倒産しました。あとデータ提供元が特にFacebookだったため、おかげでいまやFacebookは非難を浴びる存在と化しました。ついでにGoogleなども含めてユーザーの無関心をいいことに続けてきたデータ搾取と広告のための過剰使用を禁じるべきだという議論から、各国でデータ規制関連の法整備すらされはじめました。単純なWebマーケティングの世界には冬が訪れたというわけです。トランプも似たような選挙キャンペーンをしていたはずのオバマと異なり、任期中に大した成果も上げることがなかったとみなされたのか二期続けることすらできませんでした。これら動的な広告によるインセプションに本当に効果があったのかは十分な検証がされていません。吹聴して回るには不都合なデータが出かねないというのもありますし、会社もつぶれてしまいましたからたぶんかなり研究を積まないとはっきりしなさそう(元来広告というものがそういう代物なので)ですが、虐殺器官みたいなことが起きているな〜と伊藤計劃ファンの人たちも言及されていてとても印象的だった内容です。

FBで意見が変わりやすい有権者を特定、誘導……途上国で「心理実験」を繰り返した企業は選挙を変貌させた 辰巳JUNK 文春オンライン(誰でも概要が把握できるリンクです): https://bunshun.jp/articles/-/13526

グレートハック(Netflix契約してる人はこちらからすぐみれます): https://www.netflix.com/title/80117542

 なお虐殺器官が執筆された当初元ネタとなったとされるのは戦争広告代理店という本を題材に書かれていた内容で、虐殺器官の内戦の方向づけにかなり近いものとなります。この「情報を制するものが勝つ」という原則がよその国ではなく自分の国に向いた、という意味で世界は一歩混沌に進んだ事件ともいえます。これらインセプションが広告側のデータ規制で解決するかどうかはなんとも言えず、結局マスメディアの活用による大規模なインセプションのルートは言論の自由のもとに残されているとも言えるわけです。
 ですから結局のところ情報の受け取り手となり、選挙などによって意思決定をする我々人民の肩に、結局は内戦や混沌に陥るか否かがかかっている、というロクでもない事実が再発見されたことになります。

日本にいる私ですらITシステムで小さな独裁者になってしまったとき

 私のほんとうにしょうもない個人的な話になってしまいますが、私も職場のITシステムで一種の独裁者となってやらかしました。そのきっかけから、わりかし今の社会は簡単に権威主義になりかねないことを思い知らされました。

 私は高専時代、扱いづらいコンピュータが本当に嫌いだったものの、職場では相対的に私のほうがコンピュータの知識や経験がある場合が少なくなく、そのせいで私はかなりコンピュータがらみの、他の人にとっても扱いづらく、わかりづらく、無限の学習を要求されるかのような厄介なコンピュータ仕事をひたすらこなす機会を得ました。そこで最短の楽なルートを見つけるのが私は好きだったので、攻略本代わりにネット上の記事や山のような本を読み漁り、機会があれば簡単な実装された形でアイデアを提示して自分の理想に近い形でITシステムをつくりあげていくことができました。
 自分の手で自分や他の人の必要とするITシステムをつくりあげる行為は、まるで執筆です。ITシステム、それを支えるコンピュータのコード、グラフィックデザイン、運用ルールなどすべてを含めた私の描く脚本《スクリプト》は、うまく動けば圧倒的な生産性を叩き出します。なによりシリコンバレーの連中が私よりずっとすごいコードをOSSとして公開してくれています。公式ドキュメントはつねに無料で、deeplにつっこめばほとんどが読めます。いい本もジャンル問わずたくさん日本では翻訳されています。そして私の職場の人たちはみんな私を信頼してくれてたくさんの会社の、時には社会すべてにつながるルールやヒントを教えてくれました。おかげで私はてこの原理のように他の知識や技術をも身につける機会を得られ、結果として高専時代には信じられないほどの勢いでITシステムを導入し、運用しながら改修し、それを教えたり提案する側にもなっていきました。日本の場末といえども、大したコードを書いていなかったとしても、ITシステムの権力者のひとりとなっていたのです。
 それで失敗したのは、自分以外が、自分が教えた人すら、自分のつくったり動かしていたシステムを扱えない、運用できない、自分の持っている膨大な知識を他の人が持っていないという問題にぶちあたったときでした。ITエンジニアの人ならお察しいただけるかもしれませんが、運用者は私と私の書いたコードだけになり、知識は私に結局は集約され、教えてきた個人がうまく動けない状態であることを変えられませんでした。私が意図せず独裁者になっていたせいで、ITシステムの権威主義に陥っていたせいで、私のミスはトラブルが起きるまで発覚することが困難となってしまっていたのです。全員で気づかずに失敗したのならまだいいとしても、気づく機会を伝え損なって失敗したのではとてももったいないです。
 トラブルが起きれば今はまだ私が復旧できますし対策も打てます。しかしこれでは私がいなくなれば、コンピュータは元通りいつもの使い物にならないエラーを唱えるばかり装置と化し、システムたちがみせる現実と瓜ふたつのデジタルの夢は覚めてしまいます。そしてわたしの対策が常に最適解とも限りません。これはとっととなんもわからないコンピュータからゆるく離れたい私が望む状況ではありませんし、組織としての問題対処が成り立っていなければ、私自身もひょんなことで倒れてしまった時、ぜんぶだめになってしまいかねません。

 そういうわけで今は昔以上に教えたりいろんな人と話す機会を増やし、知識を共有し、時には私の代わりに私がしてきた仕事を実際にしてもらうことようになりはじめています。ですが、簡単に目的が達成できるはずもありません。やりかたを見直すことも必要でしたし、私の最短ルートをもっと簡単にきてもらうためにもたくさんドキュメントも書きますし、人の関係も含めたあらゆる環境の再整備も必要でした。なにより個人個人でどんなふうにコンピュータやコードに触れてきたのかはどうしても異なります。なので可能な限りそれぞれがいまの自分の在り方の延長線上からコンピュータやコードに、会社の業務に触れられるようにしなければなりません。ただ単に同じ作業をしてもらうためにきてもらっているわけではない以上、これだけやることが山ほどあるのです。他の人に迷惑をかけているな、と時折本気で思いながら、今は仕事を続けて暮らしています。

高度に専門化された社会のつくりだす独裁者達とそれを信じるしかないがために起きる権威主義

 ITシステムと会社という狭くそこそこ共通化されている世界でこの有様ですから、世界をもっと広くみればそれぞれの最適化された状況に飲み込まれた専門家が、意図しないうちに、見返りの大小問わずに失敗できない一種の独裁者に近い状況になってしまうのは当然の摂理です。
 経済学者のいうような市場の自由や、憲法をがんばって作り出した人のいうような言論の自由が、それら厄介な独裁を自動解決させるかもしれないとしても、誰もが明日から急に農家や戦闘機パイロット、大臣になれるわけでもありませんから時間はどうしてもかかります。その時間のかかっている最中に取り返しのつかないことになれば、誰も責任が取れません。その組織の中から自浄効果が働けばよいのですが、そんな誘因《インセンティブ》に相当するものを発想するのは事実上不可能です。ギリギリが法的な規制などで、いつだって間に合うとも限りません。
 だから部外者となった我々はただ、官民問わずそこにいる専門家達を信じるしかなく、結果として彼らに間違いを許さない状況へ追い込みます。これもまた一種の権威主義です。善悪問わずにこういうものはどうしても生まれてしまいますし、対策方法はただひとつ、誰もが社会の進歩と人類のよりよい尊重を目指して、誰もが無関係としか思えない高度な専門知識に対しても広範囲に賢くなり続けるしかないのです。
 これらに一応の決着をつけられるのは、結局のところ特定の人間のみに従い、一定のありかたに縛られてしまうだけの権威主義社会ではなく、誰もが競争に参加し続けられる土台をつくりあげる、高度に進化し続ける民主主義社会でしかあり得ない状態なのです。

 これらの実態を端的に表したものとして、「民主主義は状態ではない、行動だ」というものがあります。
 このフレーズは、アメリカのハリス副大統領により勝利演説時に引用された言葉で、ジョン・ルイス下院議員による言葉として語られています。

 私もかんべん願いたい話なのですが、なんなら神様にいい感じにやってほしいと祈るところですが、現実世界では、少なくとも死ぬなり本物の神が状況を完璧に解決してくれるなりになるまではこの歩みを続けるしか道はありません。我々の同世代も、下の世代も、上の世代も、みんなこの不安定な世界にいながら守るしかないのです。
 なぜなら、この歩みを逆に進めるだけで、ジョン・ポールのつくりだす世界が顕現してしまうからです。  

ジョン・ポールの虐殺の言語は権威主義デマゴーグが起点と仮定すれば理論上は可能

 ようやっと虐殺器官本編の話に踏み込むのですが、これらの前提知識に基づいて語れば、ジョン・ポールの虐殺の言語は権威主義デマゴーグ(一般的にいうデマというやつです)、つまり盲目に特定の行動へに駆り立てる言説が起点と仮定していけば、おそらく現実世界で虐殺の構文をばらまくことは可能だというのはすぐわかると思います。
 なお、これはジョン・ポール、というか伊藤計劃さんのディティールによる連続的な物語、という意図したところを大幅に超えたものです。つまりこの物語には核があり、構造があると無理やり解釈して進めてしまうので、それをご了承の上で読み進めてください。

 虐殺器官における印象的なシーンがあります。セリフのみ引用します。

「虐殺の文法の効果は、語る内容に依らない。日常的な会話にいくらでも忍ばせることができる。にもかかわらず、ああいうスローガンやプロパガンダの類は、虐殺の文法とじつに馴染みやすいんだな。濃いんだよ。虐殺文法にはそれぞれの文章への埋め込み《エンベッド》の度合いを示す『濃度』があるんだが、ああいう扇動的な文言というのは、それが濃縮される傾向にあるようだ」
「なにを言っている」
「もしかしたら、と思うんだよ。左右問わず極端な政治思想が虐殺を引き起こすのではなく、むしろ虐殺を準備するディティールとして右だの左だのといった政治思想が要請されるのではないか、とね」
「話があべこべだ、馬鹿げてる」
「ふむ、たしかに馬鹿げてるな。だがことばの連なりが人を虐殺に駆り立てるという話だって、じゅうぶん馬鹿げてるだろう」
[中略]
「スローガンと一緒に描いてある絵が社会主義リアリズムっぽいのはご愛嬌だな。右翼も左翼もある地点を超えると、美的センスが、というよりは美的センスの劣化が、よく似通ってくるわけでーー」

 これらを呪言ではないとしてしまいましょう。虐殺器官を刺激するために必要なものは、人間の無知で、そこに虐殺の文法はつけこむとみられます。
 知らない社会の否定に合意する、というのはかなり簡単です。いっぽう自らのよく知る、つまりたいていは所属する社会を否定されてそれに合意するのは困難です。なので前者を前提として組み立てていきます。これが盲目さにつながります。
 虐殺の文法として私が考える仕様は、所属を明らかにすること、否定することのふたつです。
 所属を明らかにするというのは、この引用の中から考えれば過激な思想が先なのではなく、「虐殺を準備するディティールとしての右だの左だの」に相当します。認識の負荷をかけないのは、知らない世界よりも知っている世界です。とりあえずそこに所属しているふうに思わせればよいのです。利用されやすいのが性別、年齢、政治、宗教、そして人種です。それらを起点に右か左か問わず割り当ててしまうのです。そもそも割り当てられた彼らにとってはまだよく知らない世界な訳ですから、美的センスの劣化も避けられません。
 次に否定、という部分ですが、これは所属が明らかになっていれば話は非常にシンプルです。本来否定するのは、自分と異なる性別、年齢、社会、宗教、そして人種なわけですから、それらに対する否定的なフレーズがあればいいのです。スローガンでそういうのは手っ取り早くつくれます。日本で言えば暴力団を許さない、とかそういうあれです。

 ジョン・ポールも含めてばかけていると肩をすくめていますが、現実世界ですらトリニダード・トバゴ共和国での特定政党の選挙での勝利にこれら虐殺の文法が実現しているとも言えます。
 その運動は「若者を政治に無関心にさせる計画」として、投票放棄を掲げる「Do So!」というフレーズと腕をばつ印で組むものが倒産した広告屋CAによって流行ってしまいました。冷静に考えれば民主主義の世界でこれをキャンペーンとしてやってしまった、と話してしまうのは論外です。これは民主主義の選挙というシステムの根幹を揺るがす行為だからです。
 選挙で接近・対立していたのはアフリカ系政党とインド系政党で、それぞれの若者が選挙に行かない影響は出ますが、インド系政党は親の言いつけに従い運動に参加していても結局は選挙に行くという傾向のおかげでインド系政党は勝利しました。もちろんCAが協力したのはインド系政党です。
   これらを総合的に言えば、適当に所属をつくってやり、それからはずれている人たちを否定するフレーズをつくればいいのです。これで虐殺の構文のベースラインはできあがります。つまりこれはレトリックの一種、レッテル張りです。あとはそれらが崩れない状態を保持し続けることさえできれば、完了です。それが、特定の人物を権威立てし、それに集権が繰り返される、つまり権威主義的な状況になれば、プーチン政権、トランプやナチス、戦前軍国化日本などの出来上がりというわけです。デマかせも繰り返し、続くのならいつか叶うかもしれない、というわけです。
 日本の本屋の平積みビジネス書でも「引き寄せの法則」とか「リフレーミング」とかそういう胡散臭い名前やそれに近しい別の再定義された言葉でやっているあれが集団伝染し、虐殺に向けば、虐殺も略奪もまあ起きちまうでしょうな、というところです。これが「わたしはなぜ殺してきた」おじさんのように問い続けると霧散しちゃう理由でもあります……とそういうことにしてみても、案外虐殺器官の世界観は崩れないのです。
 日本を含めた平和な国で集団伝染が起きないのは、単にそれだけで資本が伴わなかった人たちがアダム・スミスの言うところの見えざる手によりゆるやかに退場していくからです。ポンジスキームなどの特殊詐欺の場合は前例がない場合続いてしまうものですが、つまり、特定の人数まで集まって持続ができないのです。
 残念ながら虐殺も略奪は、商売などを通じて資本を集めるよりずっと簡単です。相手の顔色を伺ってわずかな富をかきあつめるより、銃で脅したり殺したりしたほうが、簡単に富を手に入れられるからです。彼らの軍事力が消え去るまで、それらは続いてしまうのです。
 この虐殺の文法の構造はジョン・ポールやCAが使うよりずっと前から存在する、たぶん人間が人間と階級をつけながら暮らし始めてから生まれたいじめやハラスメント、つまり加害の正当化に相当します。ジョン・ポールは「太古より伝わりし言葉の力によってそれを施す」というわけです。

 以下の引用は、クラヴィスの世界観を破壊するための言葉となります。

「虐殺の文法は、脳の片隅にあるごくごく小さな、とある領域の機能を抑制する。その結果、社会は混沌状態に転がり落ち、虐殺の下地が出来上がるのさ。原理的には、きみらが作戦前に特定の神経伝達物質とカウンセリングで脳を調整して『良心』を限定的に抑制するのと、なんら変わらない」

 そして物語の終盤で明かされる虐殺器官の正体は、もっとえげつない話です。

「虐殺行為が行われ、個体数が減り、食糧の確保が安定する。そのために虐殺を許容するムードを醸成し、良心をマスキングすることは、むしろ個の生存にはプラスとなる。じゅうぶん進化として残りうる特性だ」

 いじめやパワハラで良心が痛まない、なんてのはまあそうでしょうな、と誰しもが自分の経験から納得いただけるかと思います。その相手が、良心が痛んでいるような顔をした記憶がないのなら。

 最後にジョン・ポールがこんなことをしている理由は、実は虐殺器官を刺激されてしまった人たちと相違ない話だったりします。

愛する人を守るためだ」

 つまりいじめやパワハラなどの加害という世界観の延長線上で、愛する人を守るためにこの虐殺器官は動作するんじゃないか、とクラヴィスはモノローグから捉えているようです。

 集団での加害が起きるのは、特定の知り合い、または権威から流れてきた言葉を葛藤なく受け入れられる状態だからこそ発生します。つまり無知であることが重要で、次にそれを流し込んできた相手を疑ったりする発想がない、あるいはできない状態であれば、醸成されたムードは続きます。それこそ、愛する人を守るために顔も知らない誰かを殺さなきゃいけなくなってしまった、とか。非常に盲目な状態です。
 ただし、その被害者が自分または自分にとって近い存在だと、選択肢がふたつあります。対立か服従です。対立が起きるのが筋だと普通に考えられれば事象を解決しようと動くはずです。これが、虐殺器官を刺激されたことによる洗脳が解かれる状況となります。しかしもしも、その対立が服従のリスクより圧倒的に高い状態であれば、ほとんど服従を選ぶしかありません。そうして仕方なく耐えてきた人たちは今も多くいるはずです。それが、集団での加害止めることなくを加速させます。仕事だから、というあれとあまり変わりはない洗脳です。

 これらの集団加害の状況をつくりだすとき、どこかに集権され、支配可能となる権威主義は持続性において何より重要です。それは国家がかつて民主国家であったとしても、実際にヒトラーも戦中の日本も権威主義をつくりだすことに成功しました。これは過去の話ではなく、現在でも閉鎖的な学校や会社などで当たり前のように起きます。
 いまの日本であればハラスメントとして誰かに助けを求めることが始まりつつありますが、完璧とは言い難いでしょう。いじめやハラスメントにはあらゆるパターンが存在し、それだけでなく権威主義的な空間では反発がすなわち社会からの追放になりかねません。他の社会でやっていける、と簡単に人は言えるくらいにはこの国の社会は物資的にも精神としても豊かになってきているかもしれませんが、それを決められるのは結局はこれから暮らしていく本人以外難しいのが現状です。なぜなら、その社会から追放されたとき、なにが起きるかをまだ誰もが知っているほど我々は世界に対して知識がないからです。あるいは、追放された彼らを保護し、再び暮らしていけるようにする環境をつくることができるほど、強くもありません。妥協点として国ががんばって提供する補助に頼るとかしかないのが実態です。
 あるいはそういったいじめやハラスメントなどの集団加害が起きたのであれば警察の治安のかなり良い国なら逮捕につながるかもしれません。ただしこれができるのは基本的人権が保障され、本当に実現されている必要があります。
 また加害が、犯罪が起きるこんな状況ではほとんどの場合本業が崩壊しかかっているケースが多いため、別件として捜査されて不正が発覚して関係者逮捕、倒産、それに伴う社会的制裁などもあり得ます。特に社会的制裁は民主国家として成熟しているほど人民が富を持ち、豊かで、それに付随した力を持つことから制御が困難で過激になりやすい傾向があると考えられます。それらを起こしたくないとほとんどの人が考えればそもそも本業の崩壊にもつながりうる加害をしないようにする誘因《インセンティブ》も働きます。
 とこうして民主国家であればという話をしてきましたが、結局は気休めみたいなものであり、加害とそのムードの醸成は続けば意味はありません。なぜなら民主国家はそれぞれの人民が物資的にも精神的にも豊かでなければならないからです。そうでないのに、貧しいのに自他を尊重することは、あまりにも困難です。悟りでも開いてないといけないです。これが、クラヴィスが気づいた、「虐殺の文法は、食糧不足に対する適応だったというのか」という話を多少は裏付けられるかもしれません。人間が絶対的な豊かさよりも相対的な豊かさに過敏だと経験則的に仮定した場合、自分が相対的に貧しくなっていると思ってしまえば、そしてそれが自分にとってどうにもできない問題だと思い込んでしまったら、それこそ個体数を削るように殺し合うしかありません。他の動物の世界では共食いなどに発展するのと似た話なのでしょう。実際に人間においても虐殺器官の語るような「食糧不足による適応」という話を裏付ける研究が現実であったというのは今のところ聞いていないことだけが多少の気休めとなるでしょうけども。
 ジョンポールはこの虐殺器官の刺激をおそらく二つ以上の勢力に実行することで、目的を果たしていたはずです。これによりアメリカではなく自国に怒りがむき、内戦につながるからです。
 ここまで世界が逼迫し、貧困に陥りつつあれば、別に民主主義か否か関係なく、つまりストッパーなく進んでしまうのでしょう。虐殺器官の結末のように。

虐殺器官の世界においてテロを止めるために本当にアメリカがしなければならなかったこと自体が無理難題

 アメリカへのテロが起きない世界を作りたければ、そもそも敵ではないと認識してもらう必要があります。ですがそんなのは簡単ではありません。アメリカはいろんな国で戦いすぎて、かなり恨みを買ってしまっている可能性が高いです。その負かした国(やその一部)の憎しみを止めたければ平和な国を、アメリカの都合だけでいえばアメリカに教化された人民たちを育て上げ、有効な民主国家をつくるしかありません。ここで独裁国家と言わないのは、団結と軍事利用があまりにも簡単になってしまうからです。ですがアメリカが民主化に成功した国は、ここ最近はほとんどありません。アフガンでも教化した軍が大敗し、アメリカが倒したはずのタリバンに制圧され、失敗してしまったからです。例外的なのはそれこそ日本くらいなものでしょう。
 ですが日本が立ち直ったのはアメリカによるものだけではまったくなく、日本だからこそであったり、国際的な醸成だったり、協力だったりによるもので、つまり本当に偶然の積み重ねでしかありませんでした。GHQの到来、そもそもの識字率の高さによる教化の加速、朝鮮戦争の勃発による自衛隊含めた実質的な自治権の委任、人がたくさんの国でたくさん工場を建てて動かすことによる自主的な外貨の獲得、そしてバブルにすら及んでしまったほどの経済成長。アメリカだけでどうにかできるわけがありません。こんな奇跡をよその国で常に起こせるのなら、それこそ神業です。

 そういうわけで安易なプランとなるのが、ビンラディンみたいなのを見つけ、なおかつ暗殺するという超高難易度の手法よりも、その国すべてを誰の手によるものでもなく地獄へと書き換えるように見せる、ジョン・ポールによる虐殺です。核兵器も使わず、ヘリを投入するでもなく、生物兵器を使うわけでもない。ただ、情報を制することでアメリカが勝つ。これほど簡単なプランがあれば、アメリカの一部が飛びついてしまうのもあり得る話です。ただし、ここにアメリカ人としての民主主義の精神が本当に働くのなら、そんなことはどんな理由があってもしてはならないと気付けるはずです。結果としては残念ながら、虐殺器官の世界のアメリカの機関の一部は民主主義を宣いながら権威主義へと移行し思考停止した世界と化してしまっていましたし、クラヴィス達は意図せず、特殊部隊という名前の、後片付けのためだけの存在へと成れ果てていました。
 それらすべてに気づいたクラヴィスが、結果的にアメリカに虐殺器官をつかって復讐を果たしたと考えればどこか祝祭的ではありますが、クラヴィスのこれまでやその結末からも、確立された自我を持って復讐を成し遂げているとは言いがたい状態になっています。なぜなら彼は民主主義の最強の国、アメリカに生まれながら、特殊部隊を含む権威主義の頂点のなかで育ってしまい、なにもかもを失ったからです。そこに民主主義の精神が、人が人に優しくなり続けるなどという綺麗事が宿るのは困難です。

ラヴィス・シェパードというアメリカ社会や自分への絶望から生まれた新しい怪物

 クラヴィス・シェパードは、終わりのほうで「一般市民にとって愛国心が戦場にいく動機になったのは、戦争が一般市民のものになった、言うなれば民主主義が誕生したからなのだった」と絶望しています。一側面としては正しいかもしれませんが、これは権威主義だろうがどちらでも発生しうる状況です。こうした誤謬(といったんします)をクラヴィスが起こしてしまうのは、彼の今までを振り返ると避けようがないのです。

 クラヴィスは冒頭にて、「兵士はなぜと問うてはならない、というのが軍の不文律だからだ」とモノローグでは書いていますが、後半になってその脆さを「仕事だから」というフレーズを引用されながらジョン・ポールに楽しげに詰られています。ほんのりダークナイトのジョーカーを感じるのは私がダークナイトの見過ぎかもしれませんが。
 そもそもクラヴィスバットマンに至ったもののダークナイトへと至っていなっていないブルース同様に、自分の行為が一体どこに行き着くのかを理解していませんでした。彼は常に戦い続けるだけです。そこに動機が生まれたのはようやっとルツィアと会ってからしばらくしてからですし、それ以前に軍に入ったのは父が亡くなったことで絶望した母の視線を感じ、にいい子ぶっていたが、いつしかそんな自分に飽きてきたからだった、という内容しかありません。彼は精神的な負荷をかけられないように調整されてこそいますが、それだけでなくに彼の人生には葛藤というものが父や母以外の要因がありませんでした。というのも、消えていく家族や軍の中だけで民主主義的な世界観はなかなかつくりだしづらいからです。結局クラヴィスは感情のマスキングがされている状態でも、結末のタイミングで制御が崩壊しているので、マスキングなどはあくまで気休めでしかなく、マスキング、と彼が言っているのは言い訳ともみなしてしまえる状況です。それで、ジョン・ポールには会うたびにおちょくられてしまうというわけです。
 そういうわけで世界のデカさなどをジョン・ポールからぶつけられることでついに彼のみてきた世界を知るわけです。しかしクラヴィスの最後の選択はジョン・ポールとも異なるもので、アメリカを崩壊させるにいたりました。それがおいおいハーモニーにおける大災禍に繋がるようです。彼のやったことは結果としてアメリカ以外のすべての国を救うに至ったかは、ハーモニーの世界を見てもなんともいえません。なぜなら救ったあとで家でひきこもってピザを食ってるからです。よその国の国防とかいろんなすることあるんだから各国飛んで仕事しなさ〜〜〜い!
 クラヴィスの言葉は言い訳がましく納得いかなくとも、私にも気持ちはわかるのです。大きすぎる世界の問題に、ルツィアもジョン・ポールも母も死んでしまったなかで守るものもなくなって、いったい何を救えというんです?というわけです。民主主義の根幹が自他の尊重なのだとして、もはや彼にはそう思える身近な人はいませんし、下手するとずっといませんでした。そんな真性ぼっちであることをわからされたあとで、友達になれそうだったジョン・ポールも死んだところで、本気で世界を救う気になれるはずがありません。そんな精神的にもつらいひとは、ふつういっぱい休んでリラックスして落ち着いてから社会に帰って来ればいいはずなのです。ですが彼には最も恐ろしい虐殺の言葉というトンデモ兵器を抱えていました。あとそれを実行する程度にはやる気はありました。そうして殺せる相手が、ルツィアを殺したアメリカならば、多少はハッスルできたんでしょうか。こういった側面からも、権威主義の構造はひとりのとんでもない行為が世界を揺るがしてしまうからこそ、可能な限り回避し続けなければならないのです。拡散していく核兵器が抑止力の世界観をつくるのと同じように、などというと議論が分かれそうですが。

虐殺器官がみせてくれた社会の構造的な欠陥と向き合うしかない世界

 虐殺が止められない理由というのは、そもそも虐殺器官によるものではないんじゃないかとこの考察を書きながら私は考えています。
 というのも、たぶん現実世界において、もう一度トランプがひとつ覚えで同じようなキャンペーンをうって大統領選挙に出ても、もう二度と当選できないでしょう。彼は、その周囲にいた彼らは、ほとんど4年間でなにも成し遂げられなかったからです。  ですが、虐殺器官の世界においては、たぶん当選できるんだと思います。なぜなら虐殺器官の世界ではそれだけ高度に専門家が進んでしまっていて、権威主義的なサイロ社会が生まれまくり、人民が食い止めたりするような世界観になかったからなんじゃないか、なんて私は考えます。やらかしも理屈も忘れ去られてしまえば、同じことなのです。

 そもそも、民主主義という発想自体が難しすぎるのです。すべての人民は可能な限りの機会の平等が与えられ、その言論は自由と言ってはみても、全ての富を誰もが吸収してひとりに集約されるた権力者より圧倒的に直接的な力が劣ります。なにより協力は難しく、意見は常に対立し、まったく話が進まないなんてのは当たり前のように起きてしまいます。こういった理由から、民主主義こそが異常な状態であり、虐殺器官を刺激され元通り個体としての生活を取り戻しうる状態なほうが、人間という動物にとって自然なことなのではないかとかを考えてしまいます。
 実際ご時世になった時も、経済がストップしかかったときも、最後の救済者は人民から力を得てきた行政たちでした。それは緊急事態として活発に災害対策のように任務を速やかに定義し、遂行し、破綻を食い止める努力を積み重ねてきてくれました。それらは権威主義への一時的な回帰だったのかもしれません。ワクチンの開発成功によって危機は人類は免れること成功はしましたが、ロシアはウクライナに侵攻してしまい、世界は経済制裁に動き、いまは原価上昇等を起因とするとみられるインフレのせいで中央銀行による利上げ祭りです。今度もっと別の何かが起これば、国は、世界は耐えきれなくなるかもしれません。

 だからこそ、こうして考察で確認してきた虐殺の言葉を阻むことは、おそらくいまの世界のままでは権威主義というありのままの姿へ回帰させてしまう力があるからいまは誰にもできないのかもしれません。誰かを糾弾する言葉すらも、言論の自由によって簡単に行えてしまうのですから。
 だからといって、TENETニールが語るように「何もしないことの理由にはならない」のです。いつまでも行政のおんぶにだっこでは世界は立ち行きません。それは権威主義の回帰を促進し、腐敗につながります。なによりも民主主義は産業の発達と、人民の力の強化と常に共にありました。どこかで再びやり直すしかないのです。

 たとえ現実世界と民主主義がどれだけ今は不完全でどれだけ叩かれたとしても。
 本当は国や国際的大企業が世界を救えるほどの強力な力を持っていたとしても。
 民主主義がいまだに幻想でしかないんだとしても。

 世界は、少なくとも私はこの道を進みながら、時に過ちを踏んでしまったとしても、罪を償い、許してもらい、改善しながら進み続けるしかないのでしょう。それしか、虐殺器官が示しうる構造的な問題を解決する方法は、今のわたしにはわかりません。

終わりに:今更読み返した虐殺器官の感想

 だいぶ長いこと書いてしまいました。全体で19000字はあるようです。読んでくださった皆様、本当にすみません。もっと短くまとめられればよかったのですが、今の私にはまだできないようです。
 この考察を書くにあたって久々に虐殺器官を読んだわけですが、本当に面白いです。月並みな感想で申し訳ないのですが。現代世界のディティールに細かく追求し、繋ぎ合わせた結果、いつ読んでも耐えられるくらい強固な物語になっているのです。ですが繊細さ、とも呼べるものもたくさんあります。クラヴィスのデザインはこの作品に完璧に適合しており、非常に秀逸です。それで、このどえらい含蓄深さはどこからくるんでしょうか?この面白い話のインスピレーションは?このユーモアのセンスは?伊藤計劃さんが大好きだったメタルギアシリーズとかから?それにしたっていろんなことがこの作品には詰め込まれています。
 私もそれなりに伊藤計劃さんのブログの書籍化したのとかで出てきた単語から、例えばメタルギアソリッドとかをプレイしたりとか、ロードオブウォーとかファイトクラブとかダークナイトとかいろんな映画をみたりしはじめてだいたい7年くらいは経過したと思うんですが、いまだに情報量で追いついた感覚がしませんし、こんなに面白く書ける自信はありません。

 虐殺器官でみた世界観は、それらを通して知った世界は、しばらくの間わたしのなかに深く染み付き、世界の理解を促すきっかけとして動き続けてくれました。そのために読み返したりもしていました。そのおかげで世界のいまのありかたに興味を持ち始めることができました。いつしかそれはいろんな本や私自身の経験によって補完されていき、やがてほとんど読み返すがなくなりました。ですがこうして読み返してみると、また面白いなあと感じられる。そういう認識の変化のきっかけをくれたという意味で、いい作品だったと感じています。

 私にとっての伊藤計劃さんの作品は「あ、こういうふうに小説って書いていいんだ!」という本当に奇妙な親しみやすさと執筆に対するの無謀さを、そして山ほどのオタク知識を与えてくれた偉大な作品です。
 私は学生時代、ギルクラのような絵がまったく描けなくて(いまも偶然がないと無理です)、到底アニメの監督も、美術家としてのキャリアも不可能だと気づいて精神がボロボロだったときに虐殺器官を読みました。それで、小説という手段のヒントを得ました。やがて二次創作として、いかなるキャリアにもよらずギルクラを書き直す、という本当にしなければならないことに気づくことができました。そして書き直すことができました。そういう機会を得られるのはオタク冥利につきるというものです。

 いまはもう伊藤計劃さんはおらず、新しい作品を読む機会を得られないのがとても残念ですが、だからこそ私が伊藤計劃さんのいなくなった世界を知っていって、かつて伊藤計劃さんが虐殺器官などの物語を通して私にくれたものを、誰かに提供できればなと考えています。それだけが、ミームを勝手に受け継いだボンクラヲタクが唯一提供可能な価値です。オリジナル長編はまだ一作しか書けていませんから、まだまだ私は健康に気をつけつつがんばっていこうとおもいます。
 ここまで読んでくださったみなさま、ありがとうございました。
 この長すぎる考察が、虐殺器官を思い出し、また楽しんでいただけるきっかけとしていただけたら、うれしいです。

スクリプトver3!(演出が)おいしくなってリニューアル!

GWには戦闘機ものluxを書いていて、執筆にはもうこりごりだよ〜と思っていた倉部改作です。なんだって本当に毎回毎回新しいことを覚えなきゃいけないのか。なぜそしてそうでないと自分が納得できないのか。自分の世界の最大の謎です。

で、流石に休もうと思いまして、日々の生活に溶け込んで暮らしていたはずだったんですが、ここ最近とんでもねえ好きで作品をつくりあげてしまう映画たちにあてられてそういうわけにもいかんくなってしまいました。シン・ウルトラマントップガンマーヴェリックです。

 

シン・ウルトラマンに関してはウルトラマンについて本当にほとんど漫画URTRAMANという等身大アイアン・ウルトラマンしか知らない状態で見たんですが、素で楽しむことができました。ちょっと不思議な設定や、行き過ぎればチープになりかねない表現達が、冷静すぎる構成能力で熱く束ねられていたからです。本気でウルトラマン好きじゃないとできない表現ばかりで、オタクが本気で遊んでいやがる……すげえ……とただたまげた状態になっていました。エヴァで私が好きだったシンクロ率というトンデモ表現も、あの機械のなかに押し込まれた本当はすごいはずの巨人というモチーフも、もしかして人と融合したウルトラマンからいらっしゃったんです?というかんじでどんな解釈が正解か不正解かは重大ではなく、ただただ強い感情に当てられて呆然とせざるを得ませんでした。「好きこそ物の上手なれ」。私の好きな言葉です。

 

トップガンマーヴェリックに関しては自分で戦闘機ものとして書いているluxという武器商人が戦闘機自作して安全保障の戦いに参加しちゃう系のアングラな作品を書いておりまして、すごく興味の近いジャンルだったのもあって見に行きました。はじめはロッキード社のF-35F-22は出ないのか……まあ予算や安全保障の関係上無理そうだよなあ……前作みたいに教えてF/A-18で実戦して終わりなんかな〜とトレーラーとか見てぼんやり考えていました。IMAXトムクルーズおじさんが本気で撮ってるってことは十分理解できたのでIMAXフィルム圧と音圧を浴びにいくか〜くらいの感覚で行きました。

ですが蓋を開けてみれば全く逆のことが起きていました。おかげで私の情緒は他の皆様同様に崩壊しました。え?開幕空母のシーン明らかにカメラワークがシーケンスに沿いすぎていて、わざわざズームアップしたカット差し込んできて凝りすぎてないか?で極超音速機のテスト?F-22よりえぐい機体がロッキード社の名前で出しとるやん?それで本編で敵にはロッキード社が悪ふざけでF-22を超えるべく作ったようにしか見えない第五世代戦闘機?でこっちが乗ってるのはF/A-18で奴ら第五世代戦闘機との戦闘を避けてSAMを避けまくる?であの映画で優遇されがちなネコチャンのサービスシーンのように出てくるF-14はなに?トムキャットだから?え?これ本当に訓練シーン?マニューバの大技発動しまくりで激アツすぎん?……それでなんで空母から発艦するだけでこんなに涙がボロボロ出てるんや?ああそんな!勘弁してくれ……突然ミッションインポッシブルが始まるやん!?

それぞれの要素に関してしょぼい感想しか出てこないのですが、これでも私は三回これを観に行っています。あと三回は観に行かないと語彙力が身につかないのか。いえ、多分永遠につかないんでしょう。

とそういうわけで、戦闘機オタクなら誰でも妄想したものが、どういうわけかひとつの物語として鋳造されてたったひとつの方向性に形作られているのです。演出の面でも驚くほど練られていて、脚本もすさまじいんですが、何よりも本気で空を飛ぶという気迫が伝わってくるのです。人生の中で最も泣いた映画、まさかトップガンマーヴェリックになるなんて……クソデカスクリーンで見られるこの時代この瞬間に生きていて本当によかった。そう思うほどです。トム・クルーズはスクリーンを越えて不可能を可能にする男だったようです。

 

こういう感じでとてつもない映画にあてられて、私は必死に作品を書き直し始めました。戦闘機もののluxではなく、スクリプトのほうでしたが。というのも、公募に出したスクリプトver2を、ギルクラ改変bondのきっかけをもらいました友人に読んでもらった結果「つまりどういうこと?」と言われ、いろんな泣き言やぼやきや言い訳を繰り返しながらいろいろ思索を繰り返した結果、「独裁者による搾取なき世界を実現しようとした暗号通貨開発者が、結局その能力のせいで独裁者になってしまう」という強烈なデザインを閃くに至ったためです。もとから描かれていた内容ではあったものの、ここまで大きな意味を与えられるとは考えもしてませんでした。ギルクラbondにおける「友達を武器に戦う」の原点回帰並みに重大なアイデアです。王、独裁者になった主人公は、自らの力や通貨を他者に譲りわたすことで自らの過ちに至る前に全員が力を持つ状態を作り出そうとするのです。で、どうにもならず、自分はボロボロになり、世界は破滅しなくても険悪になっていく。そんな主人公が語る、スクリプト。これがver3と呼ばれるに十分な演出を盛り込めると確信し、さっきまで必死に書いてました。で、ようやく本題です。演出おいしくなってリニューアルです。

 

kakuyomu.jp

 

 

毎度のことながら友人には感謝が必要です。私は毎回作品のコアになる部分、構造というかアーキテクチャに囚われすぎて最も表層の部分がみえません。そのへんの観察眼は、友人から話を聞きながら意図を汲み取る方法で、bondもスクリプトもどうにかなってきました。本当にありがとうございます。これで人生ではじめてのオリジナル長編完結作を、いま人生で最も誇れる自分の作品のひとつとして到達させるに至りました。人気が取れなかったとしても、この作品は、それで得られたこの経験は、何物にも変えがたいです。

シンウルトラマントップガンマーヴェリックのような本気を見ながらこうして自分も最大限の本気を出して作品を送り出せるっていうのは、とてもうれしいことです。私はとてもいい時代に、とても良い場所に生まれたようです。なので引き続きこのスクリプトをいろんなところでちゃんと公募にも出せるように準備したり、ちょっと公募の結果をまったりしながら過ごします。

とりあえず今週についてはまたトップガンマーヴェリックを見に行こうと思っています。この熱さをなんとかluxにも持っていけたら良いなあと思っています。

 

 

 

 

 

鋼鉄の翼の天使: luxのプロジェクトがスタートします

今回の長期休暇の十日間。通称地獄のn日間は晴耕雨読ならぬ、晴読雨読の日々を私は過ごしていました。寝ても覚めても積読を崩す日々です。

会社の仕事の影響でIT周りの本ばかり読んでいて全然時間が取れていなかったので仕方のないことですが、実質8日間ずっと本にかじりついていたことになります。

おはずかしながら、これでも人生の中で一番本を読み続けていた時間でした。少なくともだいたい毎日4時間程度を在宅読書に割り当て、バキバキになった体を歩行とストレッチと昼寝によってどうにか再生させ、孤独のグルメのなかで現実や空想へ思いを馳せるという日々です。あとの時間は有意義であればYouTubeでネコチャンの動画を、そうでなければTwitterウクライナやロシア情勢と金融社会の奇妙な状況を、そして時にもっとどうでもいい話に笑い転げならが過ごしていました。こうやって書き出してみるとかなりのどかな暮らしに見えますが、心中は正直仕事してる時の方が数段マシという状況でした。

とはいえ本を読んでいただけになると普通にこのGWでの思い出がなく心を蝕みそうだと一昨日考え、構想を完成させるなら今のタイミングが最も仕事に影響を与えなさそうな気がしたので、梗概1500字で全体像を書き上げ、その冒頭の起承転結にあたるAct1、たいてい私がやるとコールドオープンになってしまう8000字ほどをだいたい二日ですべて書き上げました。一日目にAct1と梗概の全体像をノート数枚に書き出し、二日目にすべてこのiMacに打ち込んだという形になります。

それが、今回のプロジェクト。核兵器と制御不可能な武器取引が融けあう影の世界に舞い降りる、鋼鉄の翼の天使の物語です。

カクヨム: lux
https://kakuyomu.jp/works/16816927863232035319

この作品は、非常にシンプルな発想から全てが始まっています。それは、戦闘機は天使と喩えられるんじゃないかという発想です。

戦闘機の翼の数は六枚。熾天使の翼も六枚。弾丸より高速に、音速で空を走ることのできる翼と、旧約聖書の裁きの如き力を発揮する搭載したミサイルたち。これほどぴったりなモチーフもそうそうないだろうと考えてはいたものの、そのほかの設定に関しては自分の知識と経験が不足していたことから作品の完成は非現実的な状態となっていました。ギルクラ改変作品LOP以外はまだ完成させたことがなく、構成などの発想がなかった時代だからです。

しかし今は、ギルクラ改変bondで再び全てを完結させるに至り、そこで得た構成や表現技術を活用しつつ新しい知識を獲得して書き出したオリジナル長編、スクリプトも完結させられてました。ここまでの知識と経験で、今度こそ書けるんじゃないかと考えたわけです。そして昨今の情勢と相まって、戦時における情報が流れ込み、それが私に追加の本のヒントをくれました。私はとことん時代に影響を受けている作家なんだろうな、と思い知らされました。

とはいえ、冒頭で書いた通り本は山の如く積み上げられ、書いてあることはたいてい前提知識が不足し意味不明。自分の知識のなさにため息をつきながらさらに本を買い込み、さらに積読を高くしながらどうにか読み進めるという有様でした。一歩進んで二歩下がる。進路変更しながら。そういった意味で、かつてないほどに描こうとしているluxという物語の意味に近づいていくことができていると感じられました。私のような現代をベースに作品を書くタイプには、案外専門性を意図的に独学で広げていくスタイルのほうが噛み合っているのかもしれません。代償は、図書館でもあまり扱われない本を優先的に実費で買い込むことで貯金を失うことですが、どのみち数万円の差にしかならないと考えれば、使い切れもしないApple王国のハイエンドマシンに金を突っ込むよりはマシです。

まだ本編としての完成はまだです。梗概としては完成しているものの、整合性を保てるかどうかは実際に書いてみたりさらに想像を練らないとなんとも言えない状況のためです。私は勢いで書くやりかたが得意ではないので、長期戦を覚悟する必要があります。おそらくオリジナルは一年で一冊ずつ書くのが今の私の知識量だと限界です。何かの間違いで商用作家として超長編を書く羽目になったらたぶんbondやLOPの時代のごとく3~5冊の単行本を毎年書けるでしょうが、いまわたしがやっているのは、その長編を実装可能にする知識や経験の統合が主軸であり、使う筋肉が大幅に違うように感じています。

そんなわけで、このluxはわたくしの毎年恒例のクリスマスイブ・リリースが現状最も現実的で、最悪のシナリオとなります。可能な限りそんなことは避けたいです。私の気持ちはもっと休みたいと叫んでいます。夏季休暇ですべてにケリがつくといいな、と思っていますが、そうはならんやろ、もっと話に整合性を持たせろ、と私の気持ちが言い出したら詰んでしまうことでしょう。本は追加で買い込まれ、それを土日にその山を崩しながら生きる日々。私にできるのはこんな日常をどうにか圧縮し、終わらせることだけでしょう。

とはいえ、今はかつてないほどに物語を書くこの仕事を能動的にコントロールできている感覚があります。納期を早められるようになれればもっといいんでしょうけど、やはりそのためには私はもっと世界を知らねばならないのかもしれません。

とりあえず私はこれから、長い昼寝につこうかと思います。
いつも通りの太陽の光が降り注ぐ、私のいつものワンルームで。

スクリプトver2.0が完成しました〜

街がクリスマスイルミネーションに包まれるなか、私は足を引きずって病院に向かいました。

昨晩に足の小指をタンスに強く打ち付けたからです。深夜に痛みで目覚め、歩くのも大変でさすがにまずいと思い会社に休みの連絡を入れ、整形外科へ。

 

先ほどのを原文ママで伝えるとお医者さんに笑われ(それはそう)、結局レントゲンをとってもらい、骨が折れていないことを確認、看護師さんに薬指を添え木のようにするテーピングをしてもらったらものすごく歩きやすくなり、帰りの足取りは驚くほど軽かったです。

 

そんな帰り道にふと気づくわけです。これらすべてに、さまざまな仕組みが取り込まれていると。会社の有給制度、わたくしのしょぼい財布でも軽い感覚で診察を受けられ、レントゲンすら簡単に撮れるようにしてくれた国民皆保険制度、整形外科の世界で洗練された処置。私は人類史上かつてないほどの完成度のシステム達の摩天楼の中で暮らしを享受していたのです。

 

昔はこんなふうなことに気づく瞬間はあまりなくて(間違いなく必要もなくて)、こんなしょぼい理由で休んじまったなあ……くらいのことしか思わなかったとみられるのですが、かつてと今とで何が自分は変わってしまったんだろうと思えば、やはり理由はひとつなのです。

 

オリジナル作品、スクリプトがver2.0としてついに完成したのです。

 

S-Crypto(スクリプト)  - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816452220093672224 

 

この作品をつくるなかで色々読み書きしてきた成果が、この今日のようなふとした出来事を思考させる知性を与えてくれたのです。あるいは余剰、ムダと言ってもいいかもしれません。

 

もともとカクヨムコン7に正式に出そうとか考えてなくて8万文字でもいいんじゃないかとか色々言ってたり書いてたりしていたわけですが、ある人のカクヨムコンをがんばる姿をつぶやいた〜でみていたら、なんだかじぶんもがんばりたくなる気持ちになれました。

 

オリジナル長編をここまで完全に完成させたことは、人生で初めてでした。

確かにbondやLOPというギルティクラウン改変作品でそれぞれ単行本何冊分かを書いてきたわけですが、作品内外のすでに素材があるもの、ver1.0(原作)を理想的なアーキテクチャへと更新し、特殊なver2.0(LOP)、ver3.0(bond)へと書き換えていくという我流の改変作業を、さらに深化させていく必要があったのです。

 

それは、ver1.0をつくるための大規模な試行錯誤です。自らの知識や経験をさらに広く、深く追求する。例えば、必要となると思われる幾千の素材を広く思い出す作業。媒体を問わないこれら重大なアイデアを、記憶の中から抽出《エクストラクト》する。それらを物語たり得るひとつの物語、例えばログラインに落とし込む。そのたったひとつに束ねられたアイデアが、自分の頭の中に強く、深く突き刺さり、自分の思考回路という無限にループするイベント駆動型システムが、勝手に物語を出力し、そのアイデアに自らが呪縛され始めるその瞬間まで。

 

たとえば、目を開けたまま見る泡沫の夢としての通貨、とか。

 

原初のアイデア、いわばver0.1が自らの脳にインセプションされてからは、さらに過酷さを見せていきます。物語の生成する物語があまりにも稚拙ですぐに壊れていくことを、常に認識し続ける羽目になります。その解消のために、再起動のためにも、結局大量の媒体を自分という思考回路に食わせていくしかありません。もはやここまでくると、ソフトウェア開発となんら変わりません。深刻なバグ、不具合、ダメな仕様との戦いです。半年以上の時間をかけてようやく、ver1.0ができたわけでした。

 

ですが話はここでは終わらないのがオリジナルです。たまたま開催されていたカクヨムコン7には間に合わない分量の8万文字しかありませんでした。そこで、より多くの人に読んでもらいたいなあとも思い至り、再び絶望的な試行錯誤の中に足を突っ込むことになります。

 

今回ver2.0を作る作業というのは、LOPを書くのと似ていました。作品の全体的なアーキテクチャの見直しと更新です。昔は四年かけてやりました。ですが今回の期間はたった一ヶ月。そもそもそんなことに今ここで書くまで気付かないような状況でひたすら自分の中に大量のアイデアを食わせるという策を打つしかありませんでした。アイデアの暴飲暴食とも言えるそれにより、例えば貧乏人の経済学がその中身となりましたが、どうにか自分自身を今までと違うシステムとして更新することに成功しました。そこからさらに不具合解消のために試行錯誤をすることに。期間の短さもあいまって、完成三日前の金曜日、ver2.0更新作業量の半分ちょいの進捗で、ver1.0でつくりあげた絶望的な複雑さと脆さで成り立つハードワイア的アーキテクチャを前にして、もうだめだ、と弱音を吐くほどでした。

 

ですが、結局ひとつの重大なアイデアMGS4愛国者達の具現化のための、ギルティクラウンからのGHQというフレーズの輸入がこの作品のアーキテクチャ全体を強固にするに至り、ついにあとがき抜きでぎりぎり10万文字という状態にたどり着くことができました。弱音を吐いていた金曜日にマトリックス・レザレクションズを楽しめたこととも、何かしらの関係はあるのかもしれません。

 

かくして、クリスマスを脳内の空想に心を押し潰されることなく迎えることができる、そう有頂天になっていたときに、現実に帰りきることのできないままにタンスに小指をぶつけ、冒頭に立ち返るというわけです。

 

足を引きずりながら現実に帰ってきたものの、夢見心地です。きっとそれだけ、物語をつくるのは面倒なのです。いまはいろんなことがぼんやりと、楽しく映ります。ですがこの夢見心地の時間は、きっと長くは続きません。また新しい物語のアイデアに囚われ、目を開けたまま夢に追われ続ける日々が始まることでしょう。

 

けれど、今だけは。

そう思いながら、この物語をつくりあげた音楽達を聴いています。私が得てきたどんな安らぎよりも、平和な安らぎのなか。

いつかこの世界が私の夢見た景色に至るかもしれない。そんな希望を抱えながら。

 

近状報告

ここで記事を書くのがえらく久しぶりとなりました。ボンクラヲタク略してクラヲです。

 

このだいたい二年ちょい、ひたすらギルクラの二次創作を行ってまして、無事完結しました。LOPをさらに原作寄りにし、友達を武器に戦うへ原点回帰する、という正直不可能に近いことを果たしました。iPhoneつくったりして世界的なコンピュータの更新に成功したスティーブ・ジョブズの伝説的なスタンフォード大学での卒業式スピーチConnect the Dotsをギルクラっぽく改変したBonding the Voidsというタイトルです。

 

www.pixiv.net

 

ハーメルン版:

 

syosetu.org

 

絵もiPad Proに環境を更新して描けるようになりました。

 

www.pixiv.net

 

この作品を書き終わった後、ギルクラ10thというツイッターでの公式が最大手の電子お祭りが突如として実行され、記念に描いていた絵も奇妙な間に合い方をしてしまう珍事も起きました。嬉しい誤算でした。

 

www.pixiv.net

 

そして今度は、書こうと思ってかけてなかったオリジナル長編作品が完成しました。S-Crypto《スクリプト》 対暗号通貨犯罪諜報部隊(高校生インターン)回顧録です。読んで字のごとく、暗号通貨の犯罪と戦う高校生スパイの話です。まずは学校にテロリストが来ます。そんなお決まりの展開から、少しずつ夢でしかないはずの金融の悪夢の中に突入していきます。一応SFの枠なのかなあと思ってたんですが、金融も暗号通貨もコンピュータも現実にあるので現代ファンタジーとして入れたりそうでなかったりします。スペキュレイティブ・フィクションという枠があるならたぶんその大雑把なものに入るようなものだと思っています。つまり、ジャンル不明の話になりました。この二年でTENETやインセプション、さらにその元ネタとなる円環の廃墟を含めノーラン作品に影響を受けまくって伊藤計劃氏の虐殺器官やハーモニー、MGS4ノベライズの感じに回帰しつつ出来上がった作品なので、仕方がないのかもしれません。

 

kakuyomu.jp

 

なろう

https://ncode.syosetu.com/n4422gy/

 

文字数8万文字程度で終わったため、カクヨムコン7には文字数不足で出せなさそうです。ざんねん。他の公募に応募することにしました。
実はこのスクリプトのほうはクリスマスまでに終わるかどうか定かじゃない、みたいな状況でもあったのですが、奇妙にも11月半ばに完結を迎えるに至りました。日頃の行いがよかったんでしょうか。詳細についてはカクヨムの近況ノートに書きました。

 

kakuyomu.jp

 

とこんな感じでかなりいろいろ果たすべきことのできた二年でございました。この次は特に決めてない、これからだらだらする、なんて言えればよかったんですが、放置していたメリクタウスという作品がございまして、こちらの作品の完全長編化を考えています。特に指針もない状況なんですが、一旦スクリプトの地続きの話としては書こうと思っています。アメリカがアフガン完全撤退を実行したりして結構この手の情報が増えてきてるから、というのもありそうです。私はかなり時代に即した作品を書くタイプなのかもしれません。

 

でもクリスマスまでは穏やかに過ごしていこうかなと思っています。こんなに作品の前後関係やらのバグのことが頭をよぎることがない時間は、本当に貴重なので。

 

そういえばそろそろマトリックス レザレクションズもはじまりますね。楽しみだなあ。

 

 

 

PSYCHO-PASS3(サイコパス3) 考察と推測 経済をも食らう怪物《ラウンドロビン≒シビュラ》への叛逆 

はじめに

「正義」は、新たな世界を切り開く。

待ちに待ったサイコパス3におけるこのキャッチフレーズの意味が、まったくわからない。実はそんなまま本編を見終わってしまった。

どこに「正義」はいるんだろう。どこもかしこもシビュラシステムやインスペクターたちに回り込まれているじゃないか。そう思っていた。

そこで、謎として残されている部分を列挙してみた。

常守朱が囚われている理由。慎導灼《しんどうあらた》の父、慎導篤志《しんどうあつし》が死んだ理由。炯《けい》・ミハイル・イグナトフの兄、煇《あきら》・ワシリー・イグナトフが死んだ理由。

そして、いま明らかになっていて関連しうる部分を列挙する。

ピースブレイカーの終焉。日本国省庁による幾多の内政干渉。無知の群体による活動の実現。

そこから見える推測は二つ。

ラウンドロビン≒シビュラ。

そして、常守朱を筆頭とした明確なシステムへの叛逆。

そこまで行って、私は納得した。
「正義」は、新たな世界を切り開きつつあると。

この記事は、今後公開予定の劇場版を前にしてこれら二つの推測に基づいて情報を整理しておこうというものである。

この考察において、答えが合っているかどうかはそこまで重要ではない。

私の思い込みを羅列しておき、その妥当性は本編とこの記事を読む人に渡して任せてしまおう。そういう感覚の記事である。

 

サイコパスの関連記事

gckurabe.hatenablog.com

 

gckurabe.hatenablog.com


対の存在:分散システムのラウンドロビンと集権システムのシビュラ

ラウンドロビンを持つビフロストの目的は、治安の維持を遂行するシビュラとは異なり、利益の拡大にあるとみられる。時折対立しているようにも見えるが、実際はシビュラが治安の維持のためにラウンドロビンの経済活動を調べているような構造だろう。

わかりやすくいえば、シビュラが国で、ビフロストが企業と言った感じで、目的が違うようなのである。

そうして目的の違うシステムではあるはずなのだが、ラウンドロビンの挙動はドミネーターと非常によく似ている、というのは誰にでもわかるように見せられている。だがあそこまで露骨に見せているなら、他にも似ている、あるいは同一の要素があるんじゃないのかな?と考えながら振り返ってみる。

まずはコングレスマン、インスペクター、キツネの三階層構造から類似点を考えてみる。

わかりやすいものからいえば、インスペクターという表現はサイコパス3の1話をみると監視官に対して「INSPECTOR」という表記が見えるため同一とみなしてよい。

キツネは一般人だが、これは執行官に相当する。

そして最後のコングレスマンは直感に反するが、立ち回りとしてはシビュラそのものである。霜月かわいい課長でも、花城対物ライフル撃てるウーマンフレデリカでもない。

コングレスマンがシビュラの立ち回りなのは、彼らコングレスマンが使用するシステム、ラウンドロビンとそれが行う経済活動が関係してくる。なのでここからは類似点ではなく、相違点として、ラウンドロビンの話をしよう。

ラウンドロビンという言葉が意味するのは、作業・仕事の負荷を順番で割り当てるシンプルな負荷分散の方式である。実際にITシステムにおいても負荷分散の方式としてラウンドロビンの言葉は登場するし、世界最大の分散型システムであるwebでも採用されている箇所は大いに存在しうる。

ラウンドロビン、負荷分散方式が必要なのは、最も発展させやすい経済活動システムは、人間や企業と同様、分散システムだからである。

と言ってみてもよく分からないと思うので、逆のものを挙げればわかりやすい。分散システムの対極の存在とは、集中システム、あるいは集権システムと呼ばれる、シビュラシステムや軍、国である。

国や軍は、特定の集団の利益を保護するために存在するシステムである。シビュラシステムも国や軍と変わらず、集団、つまり市民を保護するようにできている。これら集権システムは保護を目的にするため、基本的に外部との関係に関して保守的に動くようにできている。

サイコパスの話で置き換えれば、日本、というよりシビュラはそもそも鎖国を続けていた。そして国内外に壁と薬とスキャナを用意することで、市民を守り続けていたわけである。

しかし現実世界の国で鎖国しているところなどそうそうない。鎖国している、あるいは非常に入るのが難しい地域とは紛争地帯であり、危険な国家のいる独裁地域である。そんな地域は、今の先進国と比べれば、残念ながら豊かな暮らしとはいえない状況に陥りがちである。それは食べ物、衣服、住居をはじめとしたあらゆる物資、技術、サービスが輸入できないからである。

輸入ができなければ無から自分でつくるしかない。それはソフトウェア開発でありがちな「車輪の再発明」、あるいは「賽の河原」のように、「生産性がない」と表現される。その生産性のなさをなんとなく知りたければ「1984年」の冒頭を読めばなんとなく察しがつくだろう。茹でキャベツと古いマットのにおいがする玄関ホール、動かないエレベーター、昼間は断たれる電力供給、そういう感じである。

 

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 


以上のように、集権システムには保護の機能はあっても生産性がない。

「生産性がある」とするには、輸入を行い、単価を上げて輸出を行う他ない。それらを基本的に行うのが、他の存在を認めてやりとりする、分散システムである。人間、企業、ラウンドロビンがこれに相当する。国は一般的には輸出入の基盤となる。

人間だと抽象的なので企業として考える。ある製品をつくるメーカー企業の場合、まず材料を持つ企業から買い付ける。国をまたぐならこれで輸入となる。そして材料をもとに製品を組み立てる。今度は企業や個人に対して経費と利益をもろもろつけて売る。国をまたげばこれで輸出となる。そうすると最後に純粋な利益として余剰金が生まれるので、それを使って新しい商売を考える。

そう、商売はあくまで増やす方向だけに限らないのである。逆に言えば、同一の製品を増産したところでそれが売れて成長できるとも限らない。それが売れるかどうかは客も正確には決められない。その時欲しいと思われたものが買われる・使われるだけなのである。つまり、結果は演算不可能であり、誰にも分からない。

分散システムは、集権システムのような成功も失敗も、自己責任とする。そうして仮想的な選択と淘汰による棲み分けを繰り返させる結果、良質かつ求められている経済活動を行える構造へと、群体によって変化し続けていく。そこに大小の優劣はない。そうすることで、今の世界の経済を作り上げているのである。

ビフロスト、つまりラウンドロビンとコングレスマンもまた、経済的な発展がどのようにして最大化するかはわかっていない。そのために、この分散システムという手法を使用し、数人がかりで賭けることで、負荷の分散を実行する。生産性の競争を行い、経済的な発展を目指す。それは、集権システムであるシビュラとは根本的に思想の異なる手法となる。


ラウンドロビン≒シビュラという推測

以上のように全く異なる性質を持つシビュラシステムとビフロストのシステムだが、彼らが敵対しているとは私は考えられない。むしろ逆で、切ってもきれない縁が発生していたりする。

まずはじめに、現在の先進国は、国と企業は共存関係をとっている。

さきほどまで述べてきた通り、国は治安を安定させるが生産性を持つことはできない。
一方の企業は生産性を肩代わりするが、治安の安定という方向に常に割り当てる力は、生産性が犠牲になるため、少ないか、存在しない。

国と企業は自らの利点を互いに差し出すことで、自らの弱点を克服するように動いている。

これがシビュラを持つサイコパスの世界に置き換えられたらどうなるか。

歴史的にシビュラか、ラウンドロビンとコングレスマンを持つビフロスト、どちらが先に生まれたのかはわからないが、少なくとも共存の関係を築くことだろう。

共存の結果もたらすことのできる力は、唯一神への到達という妄想を実現可能とする。

それが、現在シビュラを擁する日本が世界の文明の頂点に至った理由だと、私は推測している。

1984年」のような茹でキャベツと古いマットのにおいがする玄関ホール、動かないエレベーター、昼間は断たれる電力供給。そんなものはシビュラ一強であるはずの2100年以後の日本には、廃棄区画でない限り存在していない。

その一方で、奇跡に等しいハイパーオーツ、ホログラムの常用、無停止で動き続けるシステム群が広がる。それだけではない。異次元の雷=ドミネーター。人間の脳を加工して取り込むシビュラ中枢。無限大に等しいビルを構築する東京。

すべての技術と材料を、日本国内でまかなえるわけがない。

シビュラは企業を使い、その企業をラウンドロビンが操る。そうした関係がサイコパス3では描かれるのだが、そんな周りくどい関係では、2100年の日本は完成し得ない。シビュラとラウンドロビンの原点が同一でなければ、不可能な事項があまりに多すぎるのだ。

ではここから、シビュラとラウンドロビンの原点が同一であるという推測の理由となるこれまでのサイコパスシリーズで明らかになった事象を整理する。日本国省庁による幾多の内政干渉。無知の群体による活動の実現。そして、ピースブレイカーの終焉。


日本国省庁によって実施されたシーアンでの内政干渉。これらはシビュラ拡大という目的を持っているようにも見えなくないが、先述の通り、シビュラのような集権システムは拡大よりも保護や保守に手をまわすので、よほどの事情がない限り拡大を行おうとはしないはずなのである。その背景に経済的な活動が含まれていて、その利益をシビュラが受けることが可能だとビフロストから進言がない限りは。その背景に国内企業の拡張による納税額の上昇とかいう勘定が入ったために内政干渉は開始されたとみられる。


無知の群体による活動の実現。これはサイコパス3以前、サイコパスSSの罪と罰サンクチュアリによってすでに実現したことが伺える。しかしこちらはビフロストによるものではなく、シビュラによって実行されていたものである。これほどまでに実行手順が似ているにも関わらず。これほどまでに無菌室のような官僚構造を構築可能なシステムが、別の原点、設計思想を起源としているとは考えられない。


ピースブレイカーはシビュラ社会レベルでの武装能力を提供可能だった組織だ。シビュラ社会の軍事能力は、はっきり言って異次元だ。片方は痛みを感じないドローン兵、片方はアサルトライフルAKシリーズのコピー品だけで闘う付け焼き刃の兵隊。そういった非対称の戦場を完成させることが可能な力である。

これらのシビュラ社会の恩恵を預かる兵器たちが、シビュラの干渉抜きで世界中に出回らせること自体、普通の社会の人間には不可能だ。一連で計画した時点で潜在犯になってしまう。そこにはシビュラとラウンドロビンによる密な協力、例えば技術的協力や供給連鎖管理《SCM》の構築を避けて通ることができない。

また、シビュラ社会があれほどまでの品質過剰な殺人兵器とそのソフトウェアを用意できるのは、世界中の紛争地帯での実運用の賜物ではないかとソフトウェアプログラマーの私は常々思う。

ソフトウェアの品質は、その複雑さのために、はっきり言っていままで人間の創ってきたあらゆる道具と比較して圧倒的に低い。想定されるシチュエーションのなかでも動かないのはテスト中に当たり前のように起きるし、いざ実運用が始まると要件の不足によりごく普通に停止する。サイコパスの世界におけるドローンやAIたちには、そのような停止はほとんど存在しない。どこか世界で本番運用を繰り返し、ソフトウェアの基盤となるアプリケーションフレームワークを修正し続けなければ、使い物にならないはずなのだ。そのソフトウェア修正が、何も知らない一般市民が全てを知った上で実施できるとは考えにくい。確実にアリの社会を構築しなければならない。

 

以上の理由から、日本国省庁による幾多の内政干渉、無知の群体による活動の実現。そして、ピースブレイカーの背景には、シビュラとラウンドロビンの原点が同一であるという推測が立てられる。
つまり、ラウンドロビン≒シビュラという推測である。

ここまではあえて作品の世界観の設定のみでアプローチを行ってきたが、このように推測すると登場人物たちの行動が噛み合ってくる場所が出てくる。

 

シビュラとビフロストを繋ぐ慎導篤志と煇《あきら》・ワシリー・イグナトフ

慎導灼《しんどうあらた》の父、慎導篤志《しんどうあつし》が死んだ理由。炯《けい》・ミハイル・イグナトフの兄、煇《あきら》・ワシリー・イグナトフが死んだ理由。これらはいまだに謎だが、少なくとも二人はシビュラとビフロストの両方を把握する存在であったことはわかっている。特にラウンドロビン≒シビュラという推測からは、慎導篤志《しんどうあつし》がピースブレイカーの壊滅に関わっている可能性が見えてくる。

慎導篤志《しんどうあつし》はシビュラ輸出の関係者であり、同時にインスペクターだった。ここでもしもシビュラ≒ビフロストだったとしたら、両方の繋がりを把握することは困難でなかったはずである。そして、一度は終末救済計画を聞き、やめるべきだと進言しているものの、何か大きな葛藤が存在していた可能性がある。例えば、ピースブレイカーを終わらせるためにシビュラ輸出を行ってきて、ついにある場所に投入できたものの、どちらも出自が同じだったことを把握したとしたら。

煇《あきら》・ワシリー・イグナトフは篤志と比較して情報が少ない。ビフロストでは知られた存在であることと、篤志と仲が良く、しかし殺された可能性があるということしかわかっていない。炯《けい》よりも先に戦場に一度戻り、その後何かの心境の変化があった可能性はあるが、全てはわからない。もしかしたらピースブレイカーによって母国を蹂躙され、その復讐のためにインスペクターになって潜入していた可能性がある。

二人ともに謎から線をつなげられない状況ではある。ただどちらもシステムへの叛逆を行うための動機は揃えられている。これは劇場版の公開を待つしかないだろう。

そしてその叛逆の要になっているのは常守朱だとみられる。

 

常守朱を筆頭とした明確なシステムへの叛逆

ラウンドロビン≒シビュラという推測に至ったのは、ほとんど常守朱が囚われている状況から引かれたものである。朱は、ピースブレイカーの破壊のために局長殺しを実行した可能性がある。

サイコパス3の1話で花城の語る、ようやく突破口が開けた、朱の行動が我々を導いているという発言。まだサイコパスSS3の時点では存在していたはずのピースブレイカーの終焉。朱の語るこの社会にひそむ本当の罪。これらは、ただシビュラそのものである局長を殺しただけではつながらない線のはずなのである。しかしビフロストが加わることで、以下のような表現が可能となる。

シビュラの代理=厚生省と、ビフロストの代理=ピースブレイカーの関係を明らかにする現場に、局長がいた。朱は局長の不正を終わらせるため、殺害に踏み切る。そしてピースブレイカーと禾生は壊滅。そのさい禾生サイコパスを朱はあえて診断せず殺した。このため現行犯逮捕。公式としては、ピースブレイカーと厚生省の不正は禾生とともに葬られ、同時に朱は裁きを待つこととなった。この代わりとして細呂木局長が任命された。ビフロストはピースブレイカーの破壊により壊滅的な破産に追い込まれ、少なくともひとりのコングレスマンが執行される。そして、ピースブレイカーから関連が見出されたビフロストの息のかかった存在、狐の存在が明らかになり始め、これらを狩るため、そして、この社会にひそむ本当の罪にたどり着かせるために監視官のふたりは選ばれた。うちひとりは、免罪体質であることまで織り込み済みで。

あくまで推測なので妥当性に欠けるが、朱が慎導灼《しんどうあらた》の父、慎導篤志《しんどうあつし》の事件とは直接の関係はないだろうというところがポイントとなる。これは、灼《あらた》や炯《けい》が朱の事件に関しては仔細に調べているわけではないという状況か推測された状況である。

そして、この社会にひそむ本当の罪こそが、ラウンドロビン≒シビュラによってもたらしてきた、システムによる世界中の支配による豊かで健やかな平和の歴史、という話なのかもしれない。

朱はドミネーターで裁けないビフロストやシビュラという存在に対して、あえて自らが殺しを実現し、裁判によって裁かれるという「正義」の復活をもって、新たな世界を切り開こうとしているのではないだろうか。これがもしも実現できれば、ビフロストとラウンドロビン、それだけでなくシビュラすらも裁くことができるようになる。それは、これまで暴走し続けて、それでもなお止める術を持たなかったシステムの抑止力となることだろう。

正義がシビュラの世界で本当に復活する日は近いのかもしれない。

 

おわりに

今回はラウンドロビン≒シビュラ、常守朱を筆頭とした明確なシステムへの叛逆というふたつの推測に基づいて情報を整理した。しかし現時点では灼《あらた》のメンタルトレース時に出現する父親、狐の怪物や、なぜ都知事が繰り返し狙われるかなどについてのつながりは見えていない。これらの謎は劇場版の公開を待つしかない。

この作品の個人的な感想だが、久しぶりに何度も見返したくなる作品に出会えて非常に嬉しい。SFとしてはサイコパスのような作品が好みなのでしばらく楽しむことができそうである。

サイコパス3のノベライズを読んだりもう一周サイコパスシリーズを見たりしながら、私は次を待ち続けようと思う。

 

PSYCHO-PASS サイコパス 3 〈A〉 (集英社文庫)

PSYCHO-PASS サイコパス 3 〈A〉 (集英社文庫)

 

 

 

『正義』という幻想の終焉:劇場版PSYCHO-PASS SS case 1.罪と罰 考察

はじめに


 いよいよ始まった劇場版PSYCHO-PASSの映画シリーズ、Sinners of the System。

 

psycho-pass.com


 このPSYCHO-PASSシリーズが楽しみで仕方のなかった私は楽しみ過ぎて犯罪係数に関する考察記事をまとめてしまっていたという状況だった。

 

 

gckurabe.hatenablog.com

 

 また今回の脚本の人は、PSYCHO-PASS GENESISシリーズを書いた吉上亮さん。


 あの一家に一台ならぬ一部署ひとり絶対いてほしい「とっつぁん」ができあがるまでを強烈に描き、また血と硝煙と薬物まみれの百合百合赤ずきんちゃんを描いた人だ。大変誤解を招く紹介になってしまったがとても面白い作品なのでぜひ読んでほしい。というか読むと宜野座さんのいろいろな変化の起源を目にすることになり涙が止まらなくなる(個人の感想です)。

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 3 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 3 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 4 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 4 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

 ちなみにこのGENESISシリーズ作品を読んだ私は、ものすごく影響されて美術館に行くようになったり古めの本を読むようになったりした。通称エトワールの話がなければ国立西洋美術館など足を運ぶことはなかっただろうし、「異邦人」とか「カリギュラ」とかこの人が引用してなかったら絶対読んでなかったし、メレクタウスという概念が私に「失楽園」という本を読ませるきっかけになったりもした。難しいことのだいたいはPSYCHO-PASS、特にこの吉上亮さんの作品由来なわけだ。

 

 

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

 

 

 

カリギュラ・誤解 (新潮文庫)

カリギュラ・誤解 (新潮文庫)

 

 


 実際に今日映画を観に行ってみた。一時間きっかり。さながら相棒見てる感じで、しかも霜月監視官と宜野座執行官の成長を実感する楽しい映画だった。
 ということでふつうに観ていて大満足なわけだったのだが、今回取り上げられた題材もヘビーとかいう現実世界の時空になかった。完全にブラックホールだ。
 今回はこのブラックホールみたいな題材について、ネタバレオンパレードで考察を書いていく。なので映画を観に行っていない人は映画を見てから続きを読むことをオススメする。
 とはいえ、私自身はそのネタバレを見た上で作品を観に行ってしまうタイプなのだが。

 

 

 

 ではここからが本題だ。
 私はこのSFの物語を観ながらこう感じていた。


「彼らサンクチュアリのひとたちのやってることって、公安局がやっていることとどれくらい違うのだろうか?そして、霜月監視官や宜野座執行官の言う正義って本当に尊重されれば社会の存続や問題の解決をもたらしてくれるものなのだろうか?」


 これらの疑問は次のようにまとめられる。


「霜月監視官が最後に言った『正義の味方だから』という尊い言葉は、本当に信じていいのだろうか?」


 そしてこの物語から私が見た結論は、「正義などというまやかしの概念が歴史上初めて謳われた時点で、議論など不可能となったのではないか」というものだった。
 すなわち、この映画は 『正義』という幻想の終焉 の物語のではないか、と私は見て感じたのだった。

 

 

 

 PSYCHO-PASS版の「罪と罰」:シビュラ「核回収によるテロの未然防止の為ならば、潜在犯に事実を教えず危険作業させる権利を持つ」


 PSYCHO-PASSシリーズ作品の中でおそらく初めて文学の教養の豊かさを外に出した宜野座執行官。彼の口から出てきた「罪と罰」。

 

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

 これはタイトル名でもあるということで、あの著名な文学作品「罪と罰」の中心的なテーマをなぞっているようである。というのは「罪と罰」のWikipedia の記事を観た雑感となる。とはいえ面白そうだったのでこの記事を執筆中、Kindleで購入して読み始めた。まさか異邦人に続いてクラシカル文学作品を読むことになるとは……。


 もしもWikipediaの書いてある情報が正しく、かつ私の解釈が正しければ、今回のシビュラの主張はこんな調子になる。


 シビュラ「核回収によるテロの未然防止の為ならば、潜在犯に事実を教えず危険作業させる権利を持つ」


 これは相変わらず超人的、あるいは非人道的なシビュラらしい話だ。正義の議論を決して行わず、社会の損得勘定によって動くシビュラシステムからすれば、何一つ矛盾の発生しない話となる。


 文明が地獄の底に落ちているPSYCHO-PASSにおける地球において、核物質、そして特に核兵器はもっともコントロールができない代物だ。なぜならば、核兵器による抑止力を築き上げた現代社会の悉くが倒れて、抑止力が抑止力として働けない程度に文明がなくなっているためである。


 もとより全員が核兵器の恐ろしさを知っていて、自分が打ったら相手も打ってくる、という前提で成り立っていたものだったのが抑止力なので、こんな状態で核兵器やそれの材料となる核物質が転がっていたら砂上の楼閣のような状況となる。何度文明をつくっても、とあるゲームの中での核兵器大好きなガ◯ジーよろしくぼこぼこわけもわからず核が発射されることとなる。これではシビュラが文明の頂点に立てるわけがない。


 今回の物語は日本の国内、青森なので、核武装などは思考すればすぐ潜在犯認定だろうが、これが外国になると話は変わる。仮に前回の劇場版PSYCHO-PASSのシーアンのごとくシビュラシステムを輸出して文明を再構築するとしたら、新しくつくった文明で誰が核武装するかわかったものではない。それが核の廃棄物であったとしても、それを兵器として使用できる技術が盗まれる可能性がある。しかし単純なシャットアウトでどうにもならないのが情報社会だ。


 そこで必要になるのは、そもそも核という物理的なものを人間から遠ざける、ということだ。シビュラも先述のとおり核武装ガ◯ジーを生み出したくはない。そこで、核のある場所をきっちり嗅ぎ当てるということと、同時に核兵器や核廃棄物があった場合にはいかにして封印するか、ということがシビュラには必要になってくる。


 今回は後者、核の大元があった場合にはいかにして封印するか、ということについてサンクチュアリにおいて本格運用を行なわれていたわけだ。


 そして運用方法が、潜在犯に事実を教えず危険作業させる、というものだった。

 

「青い光」を見た者が朽ちゆく時

 事実を伝えないで作業させる方法は核廃棄とは異なるものの原子力に関連してすでに明確に前例が存在している。東海村JCO臨界事故である。

 

 

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

 

 

 今回のPSYCHO-PASSよりも無残な画像が出てくるため検索して閲覧する場合には注意していただきたい。


 概要を説明すれば、核分裂反応が起こりうる危険な作業中についに臨界事故が発生。核分裂反応を直に受けたある人物は、結果として死より悲惨な存命の闘いを行うこととなった。

 


 体の細胞を生み出すための設計図たる染色体。その悉くが中性子によって破壊されたことで、その人物の体の細胞の分裂活動は生きながらにして臨終を迎えた。白血球の製造も、皮膚の再生も、腸内細胞の製造元されることはなくなった。そうしてただ細胞活動が停止しただけで、重大な免疫力低下が発生した。


 たった10日ほどで、呼吸障害が引き起こされて呼吸器が挿管されて言葉を発することはできなくなり、言葉を発し、理解してもらうことで苦痛を取り除かれることは永遠になくなった。


 その人物の体の皮膚は失われ、その皮膚だったものから溢れる組織液が体すべてを満たし、永遠に続く出血状態となった。一ヶ月も経たないうちに、全身をガーゼで覆い尽くし、それを毎日のように張り替える作業が続けられた。放射線被曝したといえど、神経系は存命なままだ。何度も皮膚を剥がされ続ける痛みが続くため、全身麻酔のなかでの張替えが行われるが、寝ても覚めても体全体が燃え上がるような痛みを発していたことは想像に難くない。


 皮膚の問題が起きているのと同時に、腸からは永遠に人間が口から摂取できる水分量を凌駕する血液が流出した。痛みは皮膚だけでなく体内でも起き続ける。最終的には輸血によって、体内の血液が数日もすればまったく違う誰かの混合した血液に当然のように置き換わっていく状況が続いた。


 皮膚の移植も実行されたものの、その悉くが失敗。皮膚から止める方法もなければ、腸に至っては打つ手がなかった。


 心臓の負荷は、流出する血液を、それでも体が文句を言わないぶんを届けるべく永遠に続くマラソン状態という超高負荷状態となった。この状態では思考回路の整理も、寝ても覚めても行うことはできなかっただろう。そうしてついに二ヶ月過ぎて少し経過したころ、何度も心停止することとなった。


 そうして、現代の応急処置の発展によって三ヶ月近い存命をしたその人物は、多臓器不全により他界した。


 最後の姿は、たった三ヶ月満たない間に、赤く染まった即身仏と化していた。

 


 以上の放射線被爆者の記録が、今回の映画において潜在犯たちが外部被曝したさいの描写のベースとみられる。

 

アリの社会:青い光を凌駕するサンクチュアリの核物質、ロボットの代わりに使い捨てられる潜在犯、その管理者達


 ちなみに原子爆弾以外の外部被曝で即死するほどのケースの資料は、見つけられなかった。先ほどの東海村JCOの被曝事件では数名が臨界に入った際の「青い光を見た」ものの、即死者そのものは現れていないようである。そういう意味では、サンクチュアリで眠っていたあの核物質たちは、青い光を解き放ち続ける以上の被曝量を誇っていたこととなる。


 ここまで驚異的な被曝速度となれば、潜在犯たちが着ていたあの服ですら、何度も通えば被曝は避けられなかった可能性は高い。ここからは日本そのもの、官僚構造体であるシビュラとしても、この問題の影響度は非常に大きく早期解決をなんとしても実現したかったことが伺える。


 また、この核物質封印において、無人機導入をしなかった理由として考えられるのは、これだけ驚異的な被曝を食らうということは、半導体や絶縁体の構造を根本的に破壊、つまりすぐ稼働停止してもおかしくない状況となる。福島第1原発でロボットが帰ってこないとかいう話は時々取り上げられていたと思うが、おそらくこれが理由だろう。以下の記事はそれを示唆する内容が記載されている。


http://square.umin.ac.jp/J-RIDT/medical/engnrng8.htm


 なんだかんだで無線通信機によって話せていることから考えればすべて無人機で補うのはできなくはなかっただろうが、メンテナンスして取り替えが簡単であるに越したことはない。そこで換装するデバイスが防護服とそのセットの通信装置、そして人間だけで済むならばそれに越したことはない、などとシビュラは思いついたのだろう。
 そして換装可能で、すぐ補充が効く人間がいるとすれば。
 さらに現在は労働力として使用することもできなくなった人物を再利用しようとすれば。


 以上の理由から潜在犯を有効活用と言う名の使い捨てを敢行するのは、残念なことにシビュラの考え方的には自然な帰結だ。


 しかし隠し事が大好きでいろんなことをついでにやってしまいたいシビュラは、これらむごい真実を新たな文脈で覆い尽くすことで、最大多数の最大幸福を目指した。


 それが、経済省と厚生省の両方のプロジェクトである、色相浄化を謳い、集団洗脳によって無知のアリ集団を生み出し、回収するのは核物質ではなくレアメタルだとしたサンクチュアリの表立った姿だった。


 経済省はWikipedia曰く、『民間の経済活力の向上及び対外経済関係の円滑な発展を中心とする経済及び産業の発展並びに鉱物資源及びエネルギーの安定的かつ効率的な供給の確保を図ること」を任務とする』。


 ならば、経済省と厚生省がやっているというシナリオは非常によくできた隠れ蓑となる。色相回復やレアメタル採掘という目的があれば、一般人はそもそも中で何が起きていてもわかることはない。カウンセラーですらサンクチュアリが何をやっているかよくわからないのも仕方がない。なぜならば潜在犯すら、自分が何を運んでいるのか、自分の体を蝕むものが何なのか理解できないのだから。


 この官僚的な取り組みを完璧な形で細分化すれば、作業者が自分たちが何をしているかわからなくても物事が成立してしまう。それがアリの群体という言葉だったのだろう。責任分解が明快で、組織運営者からすれば理想郷そのものだ。


 ここで話を戻し、被曝を避けるために何分で交代だーと言っているのはシン・ゴジラを思い出して貰えると出てくると思う。


 しかしその何分以内で交代しろということすらサンクチュアリの管理者たちは実施していなかったか、あるいはこれが理由で厳密なスケジュール管理を敢行していたのか。どちらにせよ、被曝の速度は通常想定されるものの数段上であるため、潜在犯が放射線被曝をして再起不能になりかけるその前に、物語の終盤で出てきたあの魔女裁判のような調子で、助かる見込みのない人物を吊るし上げて殺させていた可能性は否定できない。


 そうしたアリ集団であったサンクチュアリという構造は、その一群である製薬会社の息子と、その育て親のカウンセラーを契機に、すべてが始まり、そして霜月監視官を筆頭に正義を遂行することで、このアリ集団は葬り去られた。


 霜月監視官の語る通り、シビュラの行いは罪深く、許されるものではない。
 東海村JCO臨界事故の現場を凌駕する過酷な環境下で人間を働かせる外道など、あってはならない。


 しかしこの許されるものではない、という基準は何を基にしているのだろうか?
 その起源を辿れば過去であり、つまり歴史であり、文明であり、正義という言葉に収束するだろう。


 この外道を否定する正義は、シビュラシステム統治が完成した時、いやそれ以前、正義という幻想が出てきたその時点から、まやかしでしかなかったのかもしれない。

 

 

『正義』という幻想の終焉


 正義への葛藤の物語がPSYCHO-PASSならば、この映画はその葛藤を極限まで描いているとも言える。
 なぜならば、社会至上主義的《ソーシャリズム》なシビュラシステムからすれば抑止力の概念なき世界においては核廃絶は絶対に完了しなければならないものだし、けれど人間至上主義《ヒューマニズム》な霜月監視官はじめとする公安局からすれば、核廃絶は必要であれど人の尊い命を使い捨てにするべきではないものである。


 どちらも重大な観点だ。
 シビュラからすれば、日本の文明が紀元前に戻ることは、なんとしても避けなければならないし、そのためにやることはいくらでもある。悠長に構えていたその瞬間に、だれがテロを起こしてすべてを終わらせるかわからないのだから。だからシビュラは、いかなる手段を用いたとしても、外道に堕ちたとしても、最大多数の最大幸福を目指し続ける。それが、守るべき市民を被曝させ、やがて殺すことになるとしても。


 いっぽうの霜月監視官たち公安局などの市民としては、なんとしても自分たちのあるべき姿、すなわち自由で、平等で、豊かな暮らしを実現するために実践を続ける。そこに誰かは犠牲にしていいという発想はほぼない。シビュラが決める決断に委ねるところはあるものの、潜在犯に厳しい霜月監視官すら、彼ら潜在犯を守るべき人間として迎えている。それが、霜月監視官の語る、正義というものなのだろう。


 今回霜月監視官は自分の事件として引き受け、無事解決に導いた。そして、シビュラに再考の機会を与えることとなった。


 しかし、これは本当の意味で解決したのだろうか?
 人間が核に怯えなければならないこと、それを解決しなければならないことには、解決できているわけではない。シビュラの言う通り、彼らシビュラ無くして、この文明は維持することは絶対にできないし、だからこそこの不祥事はもみ消されるだけでしかない。

 

 この正義を全うできるのは……つまり、本当の意味での核廃絶の解決と、シビュラの罪を問うことは、ずっと先の話でしかなく、もしかしたら、この正義を成すことはできないのかもしれない。


 ここで槙島聖護が引用していたパスカルの言葉が思い出される。


 正義は議論の種になるが、力は非常にはっきりしている。そのため人は正義に力を与えることができなかった。
 なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。  このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。

 

 


 今回のシビュラと霜月の衝突も、この言葉に帰結してしまう。


 私はこの映画で、ひどく正義というものが曖昧で、幻想でしかないものなのだと思い知らされることとなった。


 シビュラシステムが導入された時点で、旧時代の正義はすでに終了し、法的機能は失われている。いや、もとよりシビュラシステムの在り方は、正義というものがどれだけ無意味なものなのかを思い知らせただけでしかない。


 その具体的な事例として、今回の「罪と罰」は表出してきた。
 シビュラの言う「核回収によるテロの未然防止の為ならば、潜在犯に事実を教えず危険作業させる権利を持つ」と言う言葉は、今回は否定され、事件は解決した。


 しかしシビュラの騙る「罪と罰」は、これからも監視官たちの目の届かないところで続けられることとなる。その純粋な解決をするために事件に飛び出していくだけでは、限界が来るだろう。


 シビュラの社会における「罪と罰」の最後の結末のような救済は、おそらくずっと先になる。


 そのとき、霜月監視官にこの正義の心があるかどうか。
 そして宜野座監視官は猟犬で在り続けられるのか。
 私としては、そう在り続けてほしいと祈っている。

 

おわりに


 今回は見ていて楽しい映画だなあと思っていたわけだが、ここまでお話ししてきた通り題材が重い、ではなくブラックホールと同様になっている。つまりこの作品はこれまでのシビュラの在り方を再度、そしてえげつなく出してくる映画でもあった。


 それはそれとして、霜月監視官がかわいい&かわいい&しっかりしている監視官になっていて大変安心した。最近まで高校生で、王陵璃華子の事件で犯罪者と潜在犯を憎む人になって、PSYCHO-PASS2だとあまりいいところ出せていなかった。けれど、それを乗り越えてちゃんと自分の事件だよ!と自主的に言って、しかも解決してみせたのは単純にすごい。PSYCHO-PASS2と違い、シビュラにもちゃんと意見が言える子になっていたのも非常にポイントが高い。


 同時にぽにちかこと宜野座執行官は執行官伝統芸能である猟犬芸が板につき、性格と教養、そして身体能力がとっつぁんや狡噛に匹敵、あるいは凌駕しはじめているのを見て驚いた。まず飼い主霜月監視官をなだめ、信じるところからスタートし、不慣れそうではあるがちびっこに話しかけて安心させ、おまけにロボット兵器相手にほぼ素手で戦って勝つとか普通に頭おかしい。昔はかなりとっつぁんのことで自分を抑圧してきたのだろう。それがどんどん自由になって、むしろ側からみていれば守られてることが多かったガミガミメガネ時代よりずっと楽しそうだ。


 ……大量の感想を連ねてしまったが、とにかくこの作品、成長を感じられる大満足の作品だった。もう一度私は観に行こうと思っており、また購入した「罪と罰」も合わせて読んで行こうと思う。


 次回も劇場版PSYCHO-PASS、とても楽しみだ。